3話 目覚め、そして(前編)
静まり返った病室に、機械の電子音が淡く響いていた。
白いカーテン越しに差す光が、わずかに揺れる。
――まぶしい。
まどろみの中で、私はゆっくりと目を開けた。
視界がぼやけ、天井の白がじわじわと形を取り戻していく。
「……知らない天井……」
次の瞬間、扉の向こうから誰かの声がした。
「アマ姉っ!?」
その声は若く、少し震えていた。
足音が遠ざかり、すぐに別の声が響く。
「母さんっ、アマ姉がっ!」
廊下の向こうから、誰かが走ってくる。
最初に入ってきたのは若い女性。
でも近づくにつれて、その足音に妙な“圧”がこもっていく。
(んっ? あーちゃん? ……怒ってる⁉︎)
――次の瞬間だった。
勢いよく前に出た女性が、私の目の前で止まる。
(綺麗な人だなぁ……どことなく、あーちゃんの面影が……)
パ――――ンッ‼︎‼︎
乾いた音が、病室に響き渡った。
頬が熱い。何が起こったのか、理解できない。
皆の時間が止まる。
その女性は、何も言わない。
ただ震える手で私の頬をなぞり、そのまま私を抱きしめた。
声にならない嗚咽が、静かな空気を破る。
「……よかった……生きてて……」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がざわめいた。
温もり、懐かしさ。
戸惑いながらも、私はその女性の背に腕を回した。
「……お母さん……?」
その言葉がこぼれた瞬間、最初に入ってきた女性が堪えきれず泣き出した。
「もう……ほんとに心配したんだから……!」
彼女の涙が、頬にぽたりと落ちる。(お姉ちゃん……?)
少し離れたところに、男性が二人。
中年の男性は、背を向けたまま肩を震わせている。
泣いているのかもしれない。(お父さん……?)
青年の男性は、天井を仰ぎ、強く拳を握っていた。
唇を噛んで、涙をこらえている。(弟……?)
扉の外から、老夫婦がゆっくり入ってくる。(お爺ちゃん、お婆ちゃん……?)
誰も言葉を発さない。
それでも、部屋の空気が少しずつやわらかくなっていく。
やがて、母の腕の中で小さく息をついた。
腕に違和感がある。
金属のポール、透明な管。
それが自分の体に向かって伸びている。
「……あれ……? なにこれ、針!? ひぃっ、刺さってる……!?」
顔がみるみる青ざめる。
耐えきれず、姉が吹き出した。
「ぷっ……くくっ……」
祖母が優しく言った。
「まぁ……そこは相変わらずなのね」
笑いが連鎖して、病室にあたたかな空気が満ちていく。
母も、涙の跡をぬぐいながら、やわらかく微笑んだ。
その横顔が、ふと重なって見えた。
――男の頃の、お袋の顔に。
(お袋……元気にしてるかな。母親の泣き顔って、やっぱり胸が痛い)
ベッドに腰掛けた母は、どこか安心したような表情をしていた。
目元にはまだ涙が残っているけれど、それすらも懐かしく感じる。
……そう、私は決して良い息子ではなかった。
小学生の頃なんて、社会に反発してばかりで、特に高学年のころはひどかった。
思いつく限りの悪さをして、あの人を困らせて……。
それでもお袋は、いつも我慢強くて。
初めて泣かせてしまった日のこと、今でもはっきり覚えている。
あの時、心の中で誓ったんだ。
(もう、悲しい涙は見たくない――)
*
……それから、時々見るんだ。
男だった世界の夢を。
断片的で、映像みたいにぼやけているのに、不思議とあたたかい。
誰かの笑い声や、穏やかな日差し。
あの場所では、幸せがちゃんと続いているような気がする。
もしかすると、神様が教えてくれているのかもしれない。
「あっちはもう大丈夫だよ」って。
……うん、それならそれでいい。
●●、どうか元気でいてね。
この記憶も、いつかは本当の夢になって、静かに遠ざかっていくのかもしれない――。
――
そのとき――トントン、と扉がノックされる。
医師が顔をのぞかせた。
「おや……賑やかですね。調子はどうですか?」
母が小さく会釈し、家族が少し身を引く。
私は頬をかきながら、照れたように笑った。
「……えっと、たぶん……大丈夫、です」
カーテンの隙間から射す光が、柔らかく私の頬を照らす。
家族の笑顔が、その光に包まれていく。
――あーちゃんが言ってた通りの家族だなぁ……。
(んっ⁉︎……あーちゃん?)自然に胸に手がいく。(ある‼︎)
弟が、両手で胸を押さえて固まっている私に気づく。
「アマ姉、なにやってんの?」
皆が私を見つめる。
その向こう、鏡に映る“私”の姿が目に入った。
鏡の中の“天嶺アマテル”が、目を丸くしてこちらを見ていた。
(なんで……私が目覚めたのぉぉぉぉー……!!)
病室には、静かな笑いとざわめきが戻っていった――。
⸻
やがて医師が口を開く。
「落ち着いて聞いてください。
CT・血液検査の結果は、何も問題はありませんでした。
明日、脳波とMRI検査をし、原因を探ります。
現時点で言えることは、今回のケースは脳の損傷ではなく、精神的な防御メカニズムによるものと思われます。
あなたが経験した出来事は、想像を絶するほど恐ろしいものだったのでしょう。その結果、あなたの心は深い傷を負い、その衝撃からあなた自身を守るために、記憶を『封鎖』してしまったようです。
今は、記憶を無理に思い出そうとする必要はありません。むしろ、心身の安静が最優先です。
この症状には、専門的な治療が必要です。これから、私たち精神科医とカウンセラーがチームを組んで治療にあたります。まずは安心して休んでください。」
(……アハッ。記憶喪失というか、そもそも“記憶”がありませんから……)
⸻
――入院二日目。
昨日の夕方に目を覚ました私は、家族が帰るとそのまま眠ってしまったらしい。
カーテン越しの朝光が眩しい。
目覚めた私は起き上がり、腕の中の点滴チューブをぼんやりと見つめていた。
看護師がカルテを片手に入ってくる。
「おはようございます。天嶺アマテルさん、採血に伺いました」
……ぎくっ⁉︎ (えぇえぇぇっ…採血ですか…)
それに、その名前を聞くだけで、胸の奥がきゅっとなる。
“私”じゃない誰かの名前……急には慣れない。
……そう、私は“天嶺アマテル”なんだ。
そう言い聞かせても、どこか他人事のようで。
「今日は少し多めに採りますね。気分が悪くなったらすぐ言ってください」
“多め”という単語に、反射的に眉が動く。
「わかりました」
笑顔で返す。(逃げたいです)
腕に止血帯が巻かれた瞬間、心臓が一拍早く跳ねた。
うっすらと血管が浮き出してくる……手のひらに汗が滲む。
「アルコールでかぶれたりしませんか?」
「だ、大丈夫……です」
口では平気を装っても、鼓動は嘘をつかない。
脱脂綿に染み込ませたアルコールが皮膚に触れ、ヒヤッとする。(恐怖の時間の始まりの合図……)
「じゃあいきますね。ちくっとしますよ」
ちくっ――。
息が詰まり、視線を逸らす。
固く目を閉じ、別の世界を想像しようとする。
(早く終われ、早く終われ、早く……!)
止血帯が外され、腕全体に開放感が広がる。
「はい、終わりです。親指、離していいですよ」
絆創膏が貼られる感触に、思わず安堵の息が漏れた。
肩から力が抜ける。
それでも胸の奥は、チクチクしている。
針が刺さったままみたいに。
「ぷっ」
入り口から笑う声が聞こえた。
母が立っていた。笑顔で近づいてくる。
「体は大きくなっても、まだ子供なのね❤️」
採血の一部始終を見られていたようだ。
母は看護師に向かって、
「お手間をかけます」
と頭を下げる。
看護師は会釈し、私と母に向かって言った。
「今日は一日検査の予定です。
食事は昼食から出ますので、点滴はあと1時間くらいですね。もう少しだから辛抱してください。
今日一日は私が担当しますので、何かあればナースコールでお願いします。
出歩くときは付き添いますので連絡をください。
辛いと思いますが、頑張りましょう。」
母が「よろしくお願いします」と再び頭を下げる。
私も釣られて頭を下げた。
看護師は一礼して部屋を出ていく。
母は私に向かって言った。
「洗面道具と着替え、持ってきたわよ」
病院の棚に丁寧に畳んだタオルや着替えをしまっていく。
母の手の動きが、なぜか懐かしく感じた。
けれど――“懐かしい”理由が思い出せない。
たまらなくなり、
「お母さん……あのっ……ごめんなさい」
振り向いた母の顔は、笑顔だった。
「記憶も無くなっ――エッ、」
母は言葉を遮るように、優しく私を抱きしめた。
「何も心配しなくていいのよ。今ここにあなたがいるだけでいいの。それだけで充分」
鼻の奥がツンとし、目頭が熱くなる。
目尻に幸せが溜まり、限界を超えた一粒が頬を伝う。
決壊した幸せは大粒になり、優しさという安堵に吸い込まれていった。
それはまるで母の体内にいるみたいに……。
「お母さん、暖かい……」
しばらく二人は抱き合ったまま、時間が過ぎていく。
言葉はいらない。心はちゃんと繋がっている。
再び母の体内から生まれ出て、親子になった。
私は、天嶺アマテルなのだと強く実感した瞬間だった。
母は言う。
「あなたをここまで追い詰めた奴、許さないわよ‼︎」
(えっ⁉︎)「おっ…お母さん、何て?」
「あなたは何も心配しなくていいのよ。
退院する頃には、全てが……ね❤️
ごめんね、お母さんちょっと忙しいから帰るね。
ゆっくり休むのよ。じゃあね。」
母は足早に部屋を出ていった。
その背中から立ちのぼるオーラが、まるで武神っ⁉︎
気のせいか、優しいお母さんに限って……。
そして、私は甘く見ていた。
元男の私にとって、女とは恐ろしく繊細で思慮深く、感覚のズレに苦悩が付きまとうということを……。
「天嶺さん、心電図検査の時間ですよ」
看護師が呼びに来た。
「点滴、終わってるみたいなので外しますね。」
(やっと終わりだ、ルンルン♩)
母の優しさに触れ、点滴も取れて、この時の私は有頂天だった……。
これから始まる試練など、知る由も無い。
――次は、心電図。
別室に案内され、病院着の前を開き、ベッドの上に仰向けに寝るよう促される。
インナーを捲り上げて……体の前面が露わになる。
「冷たいですよ……胸を少し上げますね……。」
女性の看護師の手が静かに電極を貼っていく。
胸の中央、左下の横隔膜付近、脇の下……。
触れられるたびに、体の奥からなんとも言えない感情(羞恥心?)が込み上げてくる。
鼓動が強くなっていく気がした。
(……やだ、なんで……こんなに恥ずかしいの)
目を閉じても、感覚だけが鮮やかに残る。
“見られている”という意識が、逃げ場を奪っていく。
ピッ……ピッ……。
一定の電子音だけが、部屋の静寂の中に響いていた。
「はい、動かないでくださいね。呼吸は楽にして」
呼吸、って言われても……。
「肩の力を抜いてください、計測できませんよ」
何かを言われるたびに、体を意識してしまう。
検査してくれる人が女性とはいえ、視線に過敏になる……。
あーちゃんの体という申し訳なさも重なって……。
終わる頃には、体はリラックスしても、心は羞恥や心苦しさでいっぱいだった。
「お疲れさまです。服を整えてくださいね」
その言葉に、なぜか小さな違和感を覚える。
“服を整える”――そんなこと、今まで意識したこともなかった。
男の時に感じていた「視線の居心地の悪さ」よりも、さらに内側にまとわりつくような感覚が気持ち悪い。
――次は、脳波。
小さな検査室に案内される。
看護師がにこやかに言った。
「ちょっと頭にシールを貼りますね。痛くありませんから」
椅子に腰かけると、冷たいジェルをつけた電極が、ひとつ、またひとつと頭に貼られていく。
髪の間をなぞる指先の感触が、少しくすぐったい。
「目を閉じて、楽にしてくださいね」
言われるままに目を閉じると、遠くで機械の微かな音がした。
自分の脳の動きを測られている――そう思うと、どこか自分の中を覗かれているようで落ち着かない。
どんなに検査しても戻ることはない……記憶が『無い‼︎』のだから。(申し訳ないなぁ)
終わる頃には、頭に貼られた電極が少し重たく感じた。
看護師がタオルでジェルを拭き取りながら、
「髪、ちょっとベタついちゃいましたね」と笑った。
私も曖昧に笑い返した。(頭、洗いたいなぁ……)
――次は、MRI。
次の検査室は白くて静かだった。
中央には、まるで巨大なトンネルのような機械。
「この中に入ってもらいますね。音がしますが、動かないようにしてください」
ベッドがゆっくりと筒の中に吸い込まれていく。
ゴーッ、ガガガッ、と金属を叩くような音が響く。
目を閉じる。
ただ横たわっているだけ……何もしなくていい。
(今は、考えるのをやめよう) 無心になった。
検査が終わる――
⸻
(第4話 目覚め、そして(後編) につづく)




