14話 慰撫神社
外界の喧騒が嘘のように、そこには濃密な静寂があった。
見上げるほどの巨木たちが織りなす緑の天蓋は、陽の光を木漏れ日にし、地に落ちる影が幻想的な空間を作り出している。
驚いたのは、鳥居がない……狛犬がいない……
目の前に鎮座するのは、歳月に磨かれ、渋みを増した木造のお社だった。
(……拝殿は……後ろにあるのか……)
この珍しい配置の理由は、後ほど判明する。
まずは、“手水舎”……
(へぇー……岩の間から湧き出た水なんだ……)
一定の流量でとめどなく湧く水が水受け溜まり、溢れた水が流れ落ちる。
静かな流音が安らぎを与えるとともに、心を清めていく……
(作法は、確か……)
手水舎の前で軽く一礼、
右手で柄杓を持ち、水を汲んで左手にかけ、洗い流す、
柄杓を左手に持ち替え、右手に水をかけて洗い流す、
再び柄杓を右手に持ち替え、左の手のひらに水を受け、口に含んですすぐ、
(注意:柄杓に直接口をつけないこと)
もう一度左手に水をかける、
柄杓を立てて、残った水で柄の部分を洗い流す、
柄杓置きに伏せて戻す。
(注意:柄杓一杯の水で、一連の作法を行う。水を足したり戻したりはしない。)
「作法は、大丈夫なようね」
母に見られていたようだ……
照れ笑いを返す。
(……まぁ、前の世界でも、神宮の近くに住んでたからね……)
次は参拝……
普通は、拝殿の前の“前賽銭”、次に本殿裏の“裏賽銭”の順なんだけど……
……逆だね……拝殿も少し離れた所にあるし……
(このお社の周りが聖域みたい……)
賽銭、
語呂合わせで 5円(ご縁がある)、11円(いい縁がある)、55円(いつでも縁がある)など
縁起の悪い語呂合わせもあるみたいだけど……
大切なのは金額の多寡ではなく、感謝の気持ちや祈りを込める。
そして「浄財」として、私利私欲を捨てて捧げること。
(そういえば、鈴がない時はお賽銭を投げ入れた音が鈴鳴らしの代わりだって聞いたなぁ……
手のひらいっぱいの小銭を賽銭箱に叩きつけてた爺さんがいたっけ……)
作法は、『二礼二拍手一礼』
二礼:背筋を伸ばし、腰を90度に折って深く2回お辞儀、
二拍手:胸の高さで両手を合わせ、右手を少し手前にずらしてから肩幅に開いて2回打つ、
お祈り:合わせた両手の指先を揃え、感謝の気持ちと願い事を伝える、
(Point:氏名と住所を伝えると良いとされている)
一礼:最後に深く1回お辞儀をする。
(注意:作法が異なる所もあるので確認をしよう。例として出雲大社は、二礼四拍手一礼だよ)
もう一度正面に戻り、本殿を見渡す……マジマジと見るのは初めてだ。
ただ……
「神明造り」
急に背後から声がした。
(ビクッ)
「驚かせてしまったかのぉ」
振り返ると祖父が笑顔で立っていた。
「お爺ちゃん……」
(本当に、この家の人たちは、気配がしない……)
「伊勢の神明造りは、出雲の大社造りと並ぶ、神社建築の最古様式の一つじゃ」
私は疑問に思ったことを質問してみた。
「高床式倉庫だよね……」
祖父は、笑いながら答えた。
「いい着眼点じゃ。
この解のポイントは“米”。
創造神が威武様に、“稲作”を人々に広めるよう、指示したと言われておる。
取れる“米”は“神物”であり、保管しておく倉庫は“神域”というわけじゃ」
「稲作は、大陸から伝来したものなんじゃない?」
「稲作により安定して食料が確保でき、危険な狩りをする回数が減る。
それは失われる命が減るということじゃ。
まさに神の所業じゃな。
伝えた者たちは、神格化されると思わんか」
「威武様は渡来人なの?」
「ホーホッホっ……諸説ある……ロマンじゃ」
⸻
祖父は続ける。
「祭神の男女の見分け方は覚えておるかのぉ?」
「屋根の何かで判断するんじゃなかったっけ?」
「千木と鰹木じゃ。
千木は、屋根の両側に交差させた長い木材。
・男神は、先端が地面に対して垂直に削った“外削ぎ”
・女神は、先端を地面に対して水平に削った“内削ぎ”
鰹木は、屋根の一番上に直角の方向に横たえ並べた丸太。
・男神は、丸太の数が奇数
・女神は、丸太の数が偶数
ただ、平安時代には大社が八本、中社が六本、小社が四本という決まりがあったとか……
現在では神社により本数が異なるようじゃし……
これも、諸説あるじゃ」
目の前のお社の千木の形と鰹木の数を確認すると……
(女神だ)
後ろを振り返り、向かいあっているお社も確認した……
(男神だ)
「お爺ちゃっ……ん?」
隣で向かいのお社を見ている祖父の顔が、物悲しげだった。
「威武神社……
今は斎威神宮と呼ばれておるが……元の名じゃ」
「お母さんの実家でしょ」
「そうじゃな……
宮守……今の神主の姓……元は天嶺だった。
飛鳥の時代の大きな改新の時、天秤が大きく偏った。
偏った力は、大きくなるにつれて歪みを生む。
歪みは影を作り、見えなければ制御が効かなくなる。
歪みは大きくなり、長きに渡る戦の時代の幕開けじゃ。
“人の業”……怪物は時として生まれる……
そして、時代は繰り返される。
故に、調停する者が必要なのじゃ……
何者にも囚われない、誰にも評価されない……
“縁の下の力持ち”……
……ただ……守れなかった……」
祖父は一息つき……
「爺の独り言じゃ」
多分、どこにも記録がない史実……
口頭で代々言い継がれてきた……
天嶺にとって“負け戦”だったのだろう……
「お爺ちゃん、それでも威武様は目の前にいるよ。
二人は仲良く見つめ合ってるよ、ほら」
威武様と慰撫様の社と社の間には、隔つものがなにも無い。
(そうか、だから正面に鳥居も狛犬も拝殿もなかったんだ……)
どんなに時代が変わっても、二人の愛は変わらない。
割って入ることはできないようだ。
「さもありなん……」
その時の祖父の顔は、優しい笑顔に戻っていた。
そして私は、お社の奥にある珍しい鳥居に目が止まる。
無意識に足が向かう……
姉が気づいたようだ。
「ちょっと、アマテルっ……待ちなっ……」
途中で祖父が手を前に出し、言葉を遮る。
その鳥居は、三つの入口があった。
真ん中の入口だけが大きい。
「三ツ鳥居。
人が戻ることのない神の道、
そして、魂の通り道じゃ」
祖父は遠い目をしている。
「中央の鳥居は、天上界への入口……
威武様と慰撫様が通り、人となった道、
牡丹畑に降り立ち、二度と戻ることは無い……
かつて住んでいた“天降愛嶺”を忘れないように、
この地を“天嶺”と名付けた……
『天嶺』誕生の由来じゃ」
一息……
「そして左右の鳥居は、魂の輪廻……
巨岩が現世と冥界を隔てていると言われておる。
左は陰を示し黄泉への入口……“死”
右は陽を示し天界からの出口……“生”」
……
「世は天秤……
陰に傾けば失われる魂が増え、
陽に傾けば生まれる魂が増える。
陰は武り、戦乱、憤怒、悲痛、恐怖……虚無
陽は癒し、平和、平静、幸福、平穏……
行き過ぎた安らぎも無関心となり、行き着く先も虚無
故に、世は均衡でなければならんのじゃ。」
……
「人は“無”では生きられん。
“心”があるからじゃ。
魂は冥界に還り浄化され、無の状態で現世に戻ってくる。
じゃが、“心”は次を担う者の魂に刻まれ、引き継がれていく。
人とは尊いものなのじゃよ。」
祖父の顔が陰る。
「そしてこの鳥居の先が禁足地じゃ」
禁足地という言葉を聞いた瞬間、
体の底から震えが込み上げてきた。
忘れていなかったようだ……あの恐怖を……
「禁足地に入ることは、禁忌とされている。
アマテルよ、あの夜に何を見た、何を感じた」
「巨岩……触れてしまったの……
……寒い、怖い……孤独……もうダメって思った。
その時、真っ暗な空間に光の玉が降りてきた……
その光は……優しく、力強かった」
「そうか……その事、決して忘れるでないぞ……
何より、自らの命を軽んずることは、一番の禁忌じゃ。
自分を大切にしなさい……」
祖父は、鳥居の前の子鹿の像に目を向け……呟く。
「慰撫様、あなたは、また救ったのですね……」
……
……しばらくの間……
「なんてなっ」
祖父は、悪戯っぽく笑っていた。
⸻
声にならないまま、私は何度も頷いた。
涙が止まらない。嬉しいのに……笑顔なのに……
いつの間にか、祖母と母と姉が後ろにいた。
姉は、そっと後ろから抱きしめ、耳元で呟く……
「あんな思い……二度とごめんだわ……」
「……ごめん……」
(ん?……牡丹の香り……?)
秋に牡丹は咲かない……
(この香りは……あーちゃん……)
涙で歪む視線の先――
中央の鳥居の向こうに……
牡丹畑が、見えた気がした……
その時、鳥居の方から風が吹いた。
吹き抜けた風は、拝殿に掲げられた神前幕を揺らしている……
そこに記されている家紋は、
“抱き茗荷に牡丹”。
たしか……
そう教わった気がする。
茗荷は、先祖や霊性、神仏の守護。
忘れられることと、忘れられないこと。
牡丹は、富貴や繁栄、長寿、美。
多くの花の頂に立つもの。
一方で、長い冬を耐え春に豪華な花を咲かせる……
“忍耐や静かな強さ”の一面もある。
(神前幕で奥が見えないのは、奥ゆかしさなんだ)
――言葉よりも先に、胸に落ちてくる。
此処は、“心”がリレーされ、人生が始まる場所。
そして、人が誕生した尊き地。
「さて、爺の出番はここまでじゃ……
伝記は婆さんの方が詳しいからのぉ」
祖父はそう言って、また作業へと戻っていった。
「お茶にしましょうか……」
祖母が、その背中に問いかける。
「お爺……さ……ん……」
その瞬間、視界がふっと揺らぎ、
柔らかな空気に包まれた……
* * * * * * * * * * *
優しく煌めく光の粒子の中に、
二人の若い男女が見える……
「セイちゃん、お茶にしようよ」
「もう少しで一区切り着くから待ってて。
スミちゃんは、先に行っててよ」
「ううん……待ってる……ふふっ」
それだけの、何気ない会話……
* * * * * * * * * * *
徐々に、現実の光景へ戻る。
目の前では、祖父と祖母が語り合っているだけ。
ごく普通の光景……
なのに、胸の奥がぽかぽかと温かい。
(……そうか。
此処は、“愛の巣”でもあるんだ……)
「何、ボォっとしてるの……」
不思議そうに覗き込む、姉の顔。
「……何でもない。さぁ、行こう」
母と姉に声を掛け、私はその場をそっと離れた。
(お邪魔みたいだから……)
社務所へ向かう。
その隣には神楽殿。舞を奉納する場所……
(お婆ちゃんも、お母さんも、お姉ちゃんも……
みんな踊れるって言ってたなぁ……
私は……人並み?……らしいけど……
そもそも今は、“無”ですから……)
振り返ると、鹿の像が目に留まった。
ちょうどその時、祖母が追いつき、
私の視線の先に気づく。
「悲しい出来事……
でも、“心”を得て、人になれた……」
その言葉を合図にするように――
始まりの伝記が、語られようとしていた。
⸻
(第15話 喜怒哀楽 につづく)




