13話 散策
身支度を終えて、玄関で靴を履いた。
鏡に映る自分を、ほんの一瞬だけ見る。
昨日までなら、自信などなかった。
母の“女の修行”は、明確に基準線を示してくれた。
――今日は、これでいい。
ドアの前に立つ。
(このドアを開ければ、新世界が待ってる)
ワクワクとドキドキが混ざった高揚感が、鼓動を早くする。
「行ってきまーす♩」
“いざっ‼︎”
ドアを開けた瞬間、
低い秋の陽射しが差し込み、
逆光で視界が一瞬だけ白くなる。
瞬きをするうちに、輪郭がはっきりしてきた。
最初に目に映ったのは、“緑”。
推定数百年は経っていそうな針葉樹が、
変わらぬ顔で立ち並んでいる。
後ろから母の声が飛んでくる。
「気をつけるのよ。何かあれば必ず連絡……ね‼︎」
今にもついてきそうな顔をしている。
「はーい♩」
そう返して、少し急いでドアを閉めた。
“さて……”
スマホを取り出し、地図アプリを開く。
(慰撫神社は……えっ、真裏⁉︎)
目を向けた先には、
濃淡のある緑に包まれた森と、
その奥に切り立つ小さな山。
思わず、息を呑む。
もう一度、地図アプリを見ると、
画面いっぱいに緑が広がっていた。
(入口まで……徒歩10分⁉︎
想像より、ずっと広い森だ……)
周囲には、
山城の跡、寺院、道場、神宮。
(この辺り一帯が霊場なんだ……
不思議なこと、起きたりするのかな?
……まあ、今日は下見だね)
門を出ると、生垣が続いている。
家の前はT字路。
真ん中に立って見渡すと、左右の道は緩く曲がり、先が見えない。
正面の道だけが、妙にまっすぐだった。
“生垣迷路”。
敵兵を誘導するために作られた道――
そんな話を、前に聞いたことがある。
(タクシーの運転手さんが言ってたっけ。
夜は特に区別がつかなくて、
どの道を選んでも同じ場所に出る感じがする、って)
正面の生垣の向こうには、寺院の屋根が見える。
(違うようで、似ている……
人も、そうなのかな。
アイツに似た誰かも、いるのだろうか……)
胸の奥に、
望郷に近い感覚が、じんわりと広がった。
寺院の前には、道標の石柱が立っている。
左は「至 ◯◯城」、
右は「至 慰◯◯社 ◯◯神宮」。
文字は擦れているけれど、
慰撫神社は右のようだ。
道場への案内看板。
冒険心が、そっと囁く。
(……今日は、取材‼︎)
自分に言い聞かせ、左の道を進む。
右に寺院の筋塀、左は生垣。
すぐに急勾配の坂。
途中まで登り、振り返ってみる。
自宅の左隣――
元地主だろうか。
奥に長屋門が見える。
坂を登り切ると、瓦を載せた黒板塀が続いていた。
先に、薬医門が見える。
門に差し掛かる。
(門が開いてる……道場だ……〇〇神道流……)
掲げられた看板は、少し距離があってよく読めない。
道場のほかに、
立派な御殿、蔵、庭園。
(……武家屋敷だ)
さらに進むと、
黒板塀の先は小高い丘のようになっていた。
入口付近には、石碑や石仏。
丘の頂まで登ってみる。
視界が、一気に開けた。
(城跡……山に築かれた城……)
周囲を見渡すと、
同じように自然の丘を利用した山城の跡が、いくつも見て取れる。
頭の中に、
専門用語が、勝手に浮かんだ。
――曲輪、土塁、堀、切り岸。
(尾根や斜面の険しい地形と、
盆地を巧みに利用した防衛網……)
道標の場所まで戻り、
次は、もう一方の道へ。
こちらは、生垣迷路の続き。
その先には、針葉樹の木立。
生垣が途切れると、
こちらも坂道だった。
坂を登り切ると、
視界が、再び一気に開ける。
少し進むと、
木々の切れ間から遠くを見渡せる場所に出た。
同じ高さだった木の稜線が、
急に低くなっている。
急勾配なのだろう。
広がる景色に、
思わず、足が止まる。
手前には田園。
自然の土塁の稜線が、やわらかな曲線を描いている。
その向こうに、市街地。
秋霞に包まれ、どこか現実感が薄い。
まるで、
はっきりしない未来への道筋を、
そっと示されているようだった。
――感動、というより。
胸に浮かんだのは、
説明できない「懐かしさ」。
先へ進むと、Y字路に出る。
左は急坂。
たぶん、神宮へ続く道。
理由は分からないけれど、そう感じた。
試しに、急坂を下ってみる。
(……やっぱりあった)
表参道の商店街。
そして――朱塗りの鳥居。
鳥居の前は、広場になっている。
奥の高台には、小さな公園。
(春の桜。
お団子。
正月の出店。
……いつもの遊び場)
(あって、よかった……
私の中の“記憶”……繋がってるんだ……)
Y字路まで引き返し、
今度は、右の道を進む。
森に沿って、大きくカーブする道。
やはり、先は見えない。
曲がり切った瞬間、
視界が、再び開けた。
「……すご」
息が、自然に漏れた。
目の前には、雄大な景色。
隣の山の頂に、
黒塗りの建物――神宮の本殿だろう。
少し下には、朱塗りの楼門。
その手前に、石造りの鳥居。
両脇には、
もみじの赤、
銀杏の黄金、
針葉樹の深い緑。
背景には、
先ほどの自然の土塁とは異なる、
整った形の小山――古墳群だろうか。
さらに遠く、
大河が光を反射している。
どれもが主張しすぎることなく、
互いを引き立て合い、
静かな神秘をまとっていた。
「……新世界……来ちゃったな」
⸻
(回れぇー……右っ‼︎)
「おぉー……」
目の前に、まっすぐな道が鳥居へと伸びている。
両脇には整えられた杉並木。
その奥には、手つかずの原生林。
杉並木と森の間には、小道ほどの間隔があり、
等間隔に灯籠が並んでいる。
(この対極が……参道の荘厳さを際立たせてるのか)
夜、灯籠に火が入れば、
きっと幻想的な光景になるだろう。
――ササッ‼︎
「きゃっ‼︎」
横切ったのは、タヌキだった。
(猫じゃなくてタヌキ……
驚かない。この辺、猫より多いし)
「相変わらず……」
……今の声。
「わっ」じゃなくて、「きゃっ」。
(母よ……私は着実に乙女になってるゾイ……)
気を取り直し、一歩を踏み出す。
⸻
歩きながら、ふと浮かんだ言葉。
『理想』
この世界は、理想だ。
この体、この環境……陽の気。
でも、あの世界は違った。
特に、家族。
冷え切っていた。陰の気。
褒められた記憶も、
甘えた記憶も、ない。
分家の中の宗家。
二百五十年続いた家。
本家が途絶え、実質的なトップ。
私は、嫡男だった。
選択の連続。
失敗は許されない。
「勝てる勝負を選べ」
――いや、「勝てるようにしろ」。
だから、家族から聞いた言葉は、いつも同じ。
「まだ早い」
「おまえには無理だ」
「諦めろ」
……ただ一言、
「頑張れ」が欲しかった。
“跡取りなんだから”。
生まれた瞬間から、
敷かれていたレール。
望んでなんかいない。
気遣いの形をした、
心のない距離。
冷たかった。
弟だけは、違った。
近所の幼馴染の、あいつ。
だから、私は人に優しくした。
離れられるのが怖かった。
孤独が、怖かった。
ずっと、思っていた。
――兄が欲しい。
――姉が欲しい。
――頼れる誰かが。
何でも言い合える家族が、欲しかった。
だから、自分が家族を持ったとき、
「普通」であろうとした。
普通が何かは分からなかった。
でも、妻と子どもたちが教えてくれた。
ただ、普通になればなるほど、
親との距離は広がった。
……同じだ。
きっと、親も普通を知らなかった。
だから、お互いに無関心を選んだ。
「……バカだな」
言葉が漏れる。
(俺も……親父も……)
⸻
顔を上げると、目の前に鳥居が立っていた。
その前に、人影が二つ。
母と姉だ。
開口一番、姉が噛みつくように言う。
「遅かったじゃない。どこ行ってたのよ。
ウチに来るってお母さんから連絡もらって待ってたのに、
いつまで経っても来ないから、お母さんまで呼んじゃったじゃん」
続けて、母。
「ここまで一本道よ。門を出たら右って言ったでしょ」
「えっ⁉︎」
右を見ると、確かに道が続いている。
石垣に沿った緩やかな坂道。その先、少し下ったところに古民家が見えた。
姉が指を差す。
「あの家。お爺ちゃんとお婆ちゃんの家。
今は私の居候先ね。実家まで三分もかからないんだから」
(お母さんがついてくると思って、急いでドアを閉めたのが失敗だった。
生垣の迷路で先が見えなかったし、途中から私道だから地図にも載ってなかったんだ……)
「えっと……周りに城跡とか神宮があったから……
探検心が疼いて、ちょっと寄り道を……卒論の取材も兼ねて……」
言い訳は、段々としどろもどろになっていく。
母が問う。
「道場には寄ったの? キヨノさんに会った?」
(キヨノ……?)
「……前を通っただけだよ」
そのとき、背後から声がした。
「キヨノ姉様は、しばらくいませんよ。
声が聞こえたから来てみたら……井戸端会議ですか。
先が詰まります。階段を登りながら話しましょう」
――ビクッ‼︎
三人同時に竦み上がる。
振り返ると、そこに祖母が立っていた。
(気配が……しなかった……? キヨノ姉様……?)
「あら、お母さん。
寄れば良かったのにねぇ……お母さんの実家なんだから。
城跡より、よっぽどネタがあったんじゃない?」
祖母は、何でもないことのように続ける。
「ご先祖は、あの城跡の城主だったんだから……」
(えぇー⁉︎
あの武家屋敷がお婆ちゃんの実家……城主‼︎)
四人揃って鳥居の前で一礼し、階段を登り始める。
歩きながら、祖母が当たり前のように言った。
「あそこは、ただの古い道場なだけ。
歴史はキヨノ姉様が詳しいから、聞いておくといいですよ。
それより、目の前に見える神宮の方がネタになるんじゃないですか?
イロハさんの実家なんですから、口利きしてあげれば……」
(えっ……目の前の神宮が、お母さんの実家?)
「そうね。宝物庫に何かあるでしょう。
私がいれば顔パスだから、後で行きましょうか。
甥っ子に連絡しておかなくちゃ……」
(と、とんでもない話をしてる……)
姉が、悪戯っぽい笑みで茶々を入れる。
「あそこの神宮、男系継承だからねぇ。
でも実質の継承者は、お母さんだもんね……ふふ」
三人は談笑している。
私は、驚きで固まったままだ。
とんでもない家柄だとは思っていたが……。
(この二人を伴侶に迎える天嶺家って、
いったい、どんな歴史を背負っているんだろう)
そう考えたとき、ちょうど階段を登り終えた。
目の前には、教科書に出てた古代の蔵のようなお社が鎮座している。
何気なく後ろを振り返る。
同じ目線の高さ、隣の山の頂に、よく似た形のお社が見えた。
(向かい合っているんだ……)
――慰撫神社に到着。
いよいよ、取材開始だ。
そして、あの場所。
“禁足地”の謎へ――。
お社の奥は、さらに高台になっていて、原生林が生い茂っている。
その景色は、暖かさと寒さが入り混じる、
言葉にしがたい雰囲気をまとっていた。
(探究心が……疼く‼︎)
⸻
(第14話 慰撫神社 につづく)




