11話 母、再び(その前に)
“コンコン”
(んっ?)
誰かがドアをノックしている……
「アマテルちゃん、起きたぁ〜?」
母だ……
「今、起きたところ」
「入るわねぇ〜」
静かにドアが開く。
『――えっ…ええぇ‼︎』
母は、たくさんの荷物を抱えて立っていた。
「女の修行を始めるわよ、ふふ」
そうだった。
私は女の初心者……
母が教えてくれるって言ってた……
右手に……大きい箱……?
左手に……たくさんの……?
(あぁぁ、今日一日……潰れたかも……)
「お母様……
私、しばしお花摘みに行って参りますわ」
「あら……そう……
ゆっくり、急ぐのよ」
(ゆっくり急ぐってどういうこと⁈)
私は、早々に逃げ出すのだった。
――
トイレに逃げ込み、便座に腰を下ろして一息。
(あぁ〜、落ち着く……)
そして、思い出す。
病院で味わった、あの恐怖……
背筋が凍る、あの出来事……
そう。
孤軍奮闘した『トイレ事変』。
その感覚に触れた瞬間、意識は――
目を覚ました、あの夕方へ引き戻された。
点滴の針が腕に刺さっていたことに驚いて、
家族みんなで笑った、その直後……
もう一つの管が、ベッドの脇に伸びているのが目に入った。
管を目で追うと、
青字で目盛が印字された袋の中に、液体が溜まっている。
黄金色の、その水……
何であるかは、一目瞭然だった。
さっきから、尿意のような感覚がずっと続いている。
なのに、限界が来ない。
それが不思議で仕方なかった。
もう認めるしかない。
“カテーテル”が、入っている……はずだ。
ただ、不思議なことに、
刺さっているという実感が、どこにもなかった。
カテーテルは、抜かなきゃいけない。
これが、入院して最初に味わった恐怖。
絶対に――痛いやつだ‼︎
そして、ついにその時が来た。
カーテンが引かれ、
足音が一つ、近づいた。
「天嶺さん、今から管を外しますね。
ご家族の方は、少し席を外してください」
確認するようにカルテを見てから、
看護師さんは、私のほうを見て穏やかに続ける。
「外す前に説明します。
中に留めている小さなバルーンを、今からしぼませます。
そのあと、管を抜きますね。
痛みはほとんどありませんが、
一瞬だけ違和感があると思います」
「……はっ……はい……」
手元で、注射器のような器具――シリンジが操作される。
(バルーンが……しぼんだ……?)
「はい、今から抜きます。
力、抜いてくださいね」
言われた通り、息を吐いた瞬間。
ひんやりとした感触と一緒に、
ぬるり、と何かが体の中を通り抜けた。
ゆっくり、そして優しく、
それは身体の外へ引き抜かれていった。
反射的に身をこわばらせたけれど、
痛みというほどではなかった。
「はい、終わりました。
大丈夫ですよ」
看護師さんは、
抜いた管をそのまま処理用の袋に入れ、
手際よく片付けていく。
(えっ……もう終わり……)
さっきまで自分の中に
“それ”が入っていたことのほうが、
後からじわじわと現実味を帯びてきた。
「このあと、
最初の排尿は少ししみたり、
出にくく感じることがあります」
「最初のトイレは、
付き添いますので呼んでくださいね」
必要なことだけを伝えて、
看護師さんはカーテンを戻した。
家族の笑い声が、
だんだん近づいてくる。
――取り越し苦労だったようだ。
――
家族が帰り、ぼんやりと天井を見ていたときだった。
(……ん?)
じん、と。
熱を持った点が、奥に灯る。
溜まった感じじゃない。
下腹部は、まだ静かだった。
でも、そこだけが違う。
さっきまで管が通っていた場所が、思い出したように主張してくる。
(……あ)
力を抜くたび、その感覚は少しずつ輪郭を持つ。
張るのではなく、じわじわと責めてくる。
今までにない感覚に、戸惑う。
――行ったほうがいい。
理由は分からないけれど、直感だけははっきりしていた。
ベッド脇のリモコンに手を伸ばし、ナースコールを押す。
「どうされましたか?」
スピーカー越しに、優しい声。
「……すみません。
カテーテル抜いた後で……トイレ、行きたいです」
「すぐ行きますね」
そう言われた途端、
安心と一緒に、会陰の感覚が少しだけ強まった。
看護師が来て、立ち上がる。
その瞬間、尿道の奥がピリッと鳴った。
歩くたび、会陰の奥が微かにひりつく。
支えられてトイレに入る。
白い照明が、少し眩しい。
「外で待っていますね。
痛みや血が混じったら呼んでください。
焦らず、ゆっくりで大丈夫ですよ」
ドアが閉まり、完全に一人になる。
蓋を開け、下着を下ろし、便座に座る。
男女に関係ない、はずの動作。
それなのに、体が一拍、確認を挟んだ。
腰を落とす。
――その瞬間。
下腹部ではなく、
出口に近いところがきゅっと反応した。
(……来る)
“ピリッ、チリリ”
最初にあった刺激は、すぐに馴染み始める。
“じわっ、きゅっ”
奥の感覚が、ゆっくり出口へ集まる。
止めようとは思っていない。
力も入れていない。
ただ、支えていたものを、少し緩めただけだった。
プチッ。
温かさが、点で伝わる。
――そのまま、続いた。
“ジョババッ、ジタジタ”
(……っ)
音が、思ったより大きい。
個室だからか、余計に響いて聞こえる。
(外に……いるよね)
一気に恥ずかしさが込み上げる。
慌てて探す。
(あった……)
乙姫のスイッチを押すと、
せせらぎの音が重なり、ようやく息がつけた。
次に気づいたのは、跳ね返り。
紙を敷かなかったことを、遅れて後悔する。
こんなにも、感覚が違うなんて。
想像していなかった。
用を足し終え、紙を取る。
考えなくても、体が動く。
前屈みになり、指先が触れた。
柔らかさ。
温度。
想定の範囲の、はずだった。
「……ひゃっ」
声が出た。
自分でも、少し遅れて気づく。
(今の……私?)
痛くはない。
気持ちいいとも言えない。
ただ、紙越しの刺激が、
手で終わらず、内側に返ってきた。
一瞬、頭が空白になる。
(……ああ)
ここでようやく、理解が追いついた。
知っている感触なのに、
感じ方だけが、まるで違う。
今まで触れてきたものは、
どれも外側にあった。
感触はあっても、
“返り”は残らなかった。
でも今は違う。
触った結果が、逃げずに残る。
特別な感情が湧いたわけじゃない。
ただ――
自分の体だと、確定した。
紙を離すと、感覚はゆっくり薄れていく。
代わりに、曖昧だった境界線が、一本引かれた気がした。
(……そうか)
納得したのは、状況じゃない。
帰属だった。
下着を上げ、衣服を整え、水を流す。
ドアを開けると、看護師が待っていた。
「お待たせしました。
痛みや血の混じりはありましたか?」
「出始めだけ、ピリッとしました。
でも、すぐ馴染みました」
「わかりました。
かゆみや違和感があったら、また教えてくださいね」
私は黙って頷く。
看護師に添われ、病室へ戻る。
帰り道の私は、少しだけ胸を張っていた。
――けれど。
神は、乗り越えられる者にしか試練を与えないらしい。
この先に待つ、トイレ事変最大の難所を、
このときの私は、まだ知らなかった。
⸻
ナースステーションの前を差し掛かった時だった。
「あっ、少しここで待ってていただけますか」
そう言うと看護師は、小走りにステーションに入っていく。
ほどなく戻ってきたその手には、見慣れたものがあった。
『検尿カップ』。
「お手数ですが、検尿をお願いします」
私が不思議そうな顔をしていると、看護師はすぐに続けた。
「忘れてたわけじゃありませんよ。
カテーテル除去直後は、潤滑剤や、場合によっては血液が混じることがあって……
それだと検査に影響が出てしまうんです」
一呼吸。
「今回の検査はですね」
淡々と、けれど慣れた口調で説明が始まる。
「点滴や、鎮静・鎮痛・抗不安薬の影響が残っていないか。
腎機能がきちんと戻っているか。
脱水や電解質異常がないか。
それから、カテーテル抜去後の経過確認です」
(……なるほど)
思ったより、ちゃんと“理由”がある。
「コーヒーや紅茶、ビタミン系の飲み物は今日は控えてくださいね。
終わったら、トイレの中の棚に置いてもらえれば大丈夫です」
私は頷き、カップを受け取って病室に戻った。
その時の私は、検尿を軽く見ていた。
――ましてや、今は女なのだから。
(んっ……? また、この感覚……)
ムズムズする感じは同じ。
けれど、攻め方が違う。
じわじわと、逃げ場を塞ぐように迫ってくる。
感じる場所も、股下の、より奥のほう。
(まあ、当たり前か)
形も、出口も、まるで違う。
出るまでの時間も、明らかに早い。
出口までの距離が違うのだから、それも当然だ。
――男のときより、ずっと短い。
そんなことを考えているうちに、
ぎゅっと圧が強くなる。
(早くトイレ行こーと♩)
カップを手に取り、トイレへ向かう。
個室に入り、ひと息。
やることは知っている。
中間尿を採る。
ただ、それだけのはずだった。
――見えない。
覗き込もうとして、無意識に腰を少し浮かせた、その瞬間。
「……っ」
ピッ、と、わずかに外れた感触。
便器の内側に当たる音で、失敗を悟る。
(やば……)
慌てて体勢を戻す。
「早く取らなきゃ」という焦りが、先に立つ。
途中で止める。
そう思って力を入れるが、思ったほど簡単には止まらない。
「……止ま、らな……」
カップを寄せようとして、反射的に手が前に出る。
次の瞬間、飛沫が指先にかかった。
(放物線が……わからない……)
一瞬で理解する。
これは、ダメだ。
何度か試みるが、状況は変わらない。
そうこうしているうちに、用は終わってしまった。
結局、カップの中はほとんど空。
手だけが、しっかり汚れている。
――失敗。
肩を落として、病室に戻る。
ただ、無駄ではなかった。
頭の中には、はっきりとした「情報」が残っていた。
出る場所。
出る角度。
出るまでの時間。
(……なるほど)
次はいける気がする。
でも――念のためだ。
私はナースステーションへ向かった。
「すみません……ちょっと聞いてもいいですか?」
記憶が曖昧、という設定は使える。
付き添ってくれた女性の看護師を見つけ、声をかける。
「尿検査について、教えてください」
看護師は「あぁ」という表情を浮かべ、
人気のない片隅へ手招きした。
身を寄せ、声を落とす。
「中間尿を採るんですよね?」
「はい。
最初の尿は、少しだけそのまま流してください。
出口の汚れを洗い流す意味があるので」
(洗い流す……)
私は頷く。
「途中で、上手く止められなくて……」
「止めなくていいです。
出たまま、途中で入れてください」
きっぱり。
「えっ。
カップ、汚れませんか……?」
「あ、それは気にしなくて大丈夫です。
検査で見るのは中だけなので。
外側は、後で拭けば問題ありません」
続けて、
「無理に止めようとすると、姿勢が崩れますからね」
(……確かに)
少し体勢を崩しただけで、大惨事になりかけた。
「あと、出始めは勢いがバッと弾けやすいでしょ。
出口が、まだ塞がり気味だから」
「なるほど……」
「落ち着いたところの尿を、少量で大丈夫です」
淡々と。
「姿勢は少し前かがみ。
足も、少し広げてください」
一拍。
「それと……
尿が垂れたり、飛びやすいときは、
アソコを指で、ほんの少しだけ開くと安定しますよ」
(……そういう、ことか)
「カップは端を持つと、手に掛かりにくいです。
これは私もやってるので、絶対」
軽く、微笑んで。
「慌てないのが、一番です」
「ありがとうございました」
頭を下げ、その場を離れる。
胸の奥に、すっと一本、線が通った。
(……いける)
今度こそ。
私は、誰にも見られないように、
小さく拳を握った。
⸻
意識して待つことが、こんなに長いとは……
眠気が……襲って……くる……
“ピキーンっ‼︎”
(来たっ……あの感覚が……)
武者震いがする。
――用を足したいだけなのに。
カップを取り、トイレに向かう。
(いざっ、出陣‼︎)
個室に入り、蓋を開ける。
下着を下ろし、
足を少し広げて、前屈みに座る。
出始めたら時間との勝負。
(慌てるな、私)
股下の力を解放する。
“バッ、シャー”
開戦の狼煙があがる。
(初めては流す……
滴りや飛びはない……いける
カップの端を持って……
流れ、安定してきた)
ススッと、カップを滑り込ませる。
“バタバタ”
底を叩く音が、太鼓のように響く。
(いつもの音だ。
適量までの感覚は、わかる)
スッとカップを離す。
中身は、きちんと適量線のところまで。
(やった……)
用を終え、
紙でカップの外側を拭き、
続いて自分を拭く。
下着を上げ、蓋を閉め、流す。
カップにしっかり蓋をして、
トイレ内の提出棚に置いた。
手を洗い、廊下に出ると、
前から付き添ってくれていた看護師が歩いてくる。
「検尿、終わりました」
私は、思わず笑顔で告げた。
「それは、よかったです」
看護師も、同じように笑う。
二人で、軽く親指を立てる。
言葉はいらなかった。
意識が、ゆっくり現実に戻る。
ちょうど、用も終えていた。
ササっと身支度を整え、
トイレを出て、手を洗い、病室へ戻る。
ドアを開けて。
「お母さん、お待たせ」
そう声をかけ、母の方を向いた。
――その表情を見た瞬間、
私は、足を止めた。
「えっ……ええぇ……何これ……?」
母の視線の先に……
トイレ事変は、終わった。
けれど――
日常は、まだ戻ってきていなかった。
⸻
(第12話 母、再び につづく)




