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9話 許されなかった戦い

不合格と書かれた葉書を見た瞬間、雷に打たれたような衝撃が全身を駆け巡る。

(私は、何を平和ボケしているんだ……っ)


視界に入っているはずの文字が、頭に届くまでに時間がかかった。

一度、瞬きをする。

それでも文字は消えない。


葉書には無数の染みがあり、嗅いでみると微かにお酒の匂いが鼻に残った。


さっきまで甘く優しかった空間が、瞬時に凍りつく。

無念、恐怖、後悔……そして虚無。

胸の奥が一気に冷えていく。


岩の前でうずくまり、一人泣いていたあーちゃんの姿が浮かぶ。

あの時の、今にも存在が消えてしまいそうな……魂の感じられない虚ろな目。


(一人で戦っていたんだ……)


涙が滲み、視界が揺れた。


「……違う」


何も終わってなどいなかった。

それを、どこか他人事として捉えてしまった。

その先が声にならない。言葉だけが、喉の奥で消えた。


怒りが込み上げてくる。

気づけば唇を噛み締めていた。

少し、血の味がする。

この痛みだけが、今の自分を現実につなぎ止めていた。


手紙が落ちてきた方向に目を向ける。

少し開いている引き出しが、視界の端に引っかかった。


胸の奥が、嫌な予感でざわつく。

気持ちが逸る。すぐに取り掛からなければ……

時間がない……

もう一度、証拠を揃えて告発するんだ。

私の前の世界で積み重ねてきた五十年の経験。今使わなければ宝の持ち腐れだ。


駆け寄り、引き出しを開ける。


(……え?)


一瞬、音が消えたような感覚に襲われる。

思考が止まり、時間だけが流れていく。


引き出しの中には、本来何かがあったはずの空白だけが残っていた。

整いすぎたその空間が、かえって不自然だった。

“最初から無かった”のではない。

“無くされた”痕跡。


(そうだ……スマホ)


机の上に視線を走らせる。

置いていたはずの場所に、何もない。

充電ケーブルだけが、机の端から垂れている。

使われないまま、取り残されたみたいに。


他の引き出しを……周囲を……

どこを探しても、証拠は何もない。

葉書の染みから見ても、当時この部屋は相当荒れていたはずだ。

それなのに、カーペットやソファに染み一つない。

(何かがおかしい……)


息を吸って、吐く。

浅い。

胸がうまく膨らまない。


(落ち着け……何か、忘れている)


必死に思考を整理しようとした、その時。

ふと、頭の奥に声が浮かんだ。


『退院する頃には、元に戻っているから』


母と姉が、帰り際に笑いながら言っていた言葉。

あのときは、意味が分からなかった。

ただの励ましだと思っていた。


今になって、その言葉だけが異様な重さを持つ。


次に浮かんだ声は、少し低かった。


『今は、戦の最中だから』


戦……何と?

問いを立てた瞬間、答えが返ってこないことを悟る。

それでも、胸の奥のざわつきは止まらない。


心音が、やけに大きく頭の中に響く。

耳鳴りのように、規則正しい音だけが残る。

空間が揺らぐ。

疑問と、得体の知れない恐怖が体を縛っていく。


(喉が渇いた)


台所へ向かい、震える手で水を注ぐ。

一気に飲み干したが、冷たさも味も分からない。


溢れた水を袖で拭い、ふと振り返る。


少し開いたドアの隙間から、光が漏れている部屋が目に入った。

足音を殺し、耳を澄ます。


ヒソヒソとした声。


「……あの件、下手に表沙汰にすると……」


「天嶺の名を出すにしても……この時期は……」


「……結果は変わらない……」


言葉の断片だけで、十分だった。

間違いなく、あの件の話だ。


事情を聞こうと、ドアノブに手を掛けた、その時。


「やめなさい」


背後から声が上がる。

体が強張り、息が止まる。


ゆっくり振り返ると、姉が立っていた。

いつもの柔らかさはない。

視線だけが、真っ直ぐこちらを射抜いている。

そこにいたのは、優しい姉ではなく、冷たく警告を発する何かだった。

声が出ない。体も動かない。怖い。


「その先に、あなたの求めるものは無いわよ」


全身全霊の力を振り絞って言葉にした。


「……おっ……お姉ちゃんは……

 ……な……なにか、知ってるの……?」


一瞬だったけれど、姉の瞳の奥に優しさが見えた……気がした。


「もう、終わったことよ。

 明日からは、元の平穏な生活に戻るの」


「何を言ってるの……

 私は、やらなきゃいけないことがあるの。約束したの」


「お願い……わかって。アマテル……」


二人の間に、長い沈黙が落ちる。

時間が止まったように、何も動かない。


(このままじゃ、何も変わらない)


意を決して、再びドアに手を伸ばした。


その瞬間、手首を掴まれ、強く引かれる。


「お姉ちゃん、痛い‼︎」


「いいから……現実を見せてあげる‼︎」


有無を言わさず外に出され、車に乗せられた。


「どこに行くの⁉︎

 何か言ってよ……お姉ちゃん‼︎」


返事はない。

エンジン音だけが、夜に響いた。


深夜の真っ暗な道を、車は無言で走り続ける。


涙でぼやけた視界に映る街灯が、人魂のように尾を引いて流れていく。

(協力してくれるんじゃないの……?)


頭の中は、感情でぐちゃぐちゃだった。

考えが、まとまらない。



車は市街地を抜け、郊外へ。

丘を越えた先に、高級住宅地が現れた。


その中に一軒だけ、異質な家がある。

光も、音もない。

人の気配が、完全に消えていた。


表札があったであろう場所には、枠だけが残っている。


「……ここはどこ?」


姉は、苗字だけを口にした。


背筋に、冷たいものが走る。


「もう、誰もいないわ」


それ以上、説明はなかった。

車内に、重たい沈黙が落ちる。


帰り道も、言葉はない。


車は、静かに住宅地を離れた。

丘を下り、街の灯りが再び視界に戻ってくる。


しばらく走ったあと、姉が無言のままウインカーを出した。

コンビニの白い光が、夜の闇を切り取るように浮かび上がる。


「……少し、待ってて」


それだけ言って、姉は車を降りた。

自動ドアの開閉音が、やけに大きく聞こえる。


フロントガラス越しに見える店内は、日常そのものだった。

立ち読みをする客。

レジで笑う店員。


——世界は、何事もなかったように動いている。


姉は、温かい飲み物を二つ手に戻ってきた。

ひとつを、私に手渡す。


「……はい」


缶の温もりが、手のひらにじんわりと広がる。

けれど、胸の奥の冷たさは変わらない。


再び車が走り出す。

今度は、少し遠回りするように。


高架に上がると、視界が一気に開けた。

街の夜景が、宝石を散らしたように広がっている。


「……きれいでしょ」


姉が、ぽつりと言った。


答えられずにいると、姉は続ける。


「ね、アマテル。

 全部が全部、闇ってわけじゃないのよ」


その言葉は、私に向けたものなのか、

それとも自分自身に言い聞かせているのか、分からなかった。


「……あなたが声を上げたから、

 “表に出た不正”も、確かにあった」


ハンドルを握る指に、力がこもる。


「でもね……」


姉は、そこで言葉を切った。

街灯の光が、横顔を断片的に照らす。


「それ以上は……私にも、分からない」


その一言で、すべてが腑に落ちた気がした。


姉は、知っている側ではない。

ただ、“そう聞かされた側”なのだ。


「だから……」


姉は、前を見たまま続ける。


「これ以上、あなたを前に出したくなかった」


それは、命令ではなく、

姉としての、本音だった。


言葉を探そうとするたび、胸の奥で何かが沈んでいく。

怒りでも、悲しみでもない。

ただ、力が削られていく感覚。


「……戦ってたつもり、だったんだけど」


自分でも驚くほど、声は小さかった。


——ああ、そうか。


“戦うことを、最初から許されていなかった”んだ。


「……お姉ちゃんも、だよね」


返事はない。

けれど、ハンドルを握る指が、わずかに強くなる。


——何かが終わった、のではない。

 終わったことに、されたのだ。


そう理解した瞬間、

胸の奥で、静かに何かが沈んだ。


しばらくして、姉が語り出す。


「ね、アマテル。

 世の中って、案外フェアじゃないの」


「知ってる」


「……そうね」


少し笑って、姉は続けた。


「でも、フェアじゃない場所に立つ人間がいるから、

 フェアな世界が保たれてる」


私の方を見ないまま、姉は言った。


「私は、そっちを選んだ。

 でも、あなたは選ばなくていい。

 ……ミツヤも、同じ」


いつのまにか、姉の表情はいつもの優しい顔に戻っていた。

高架橋は終盤に差し掛かる。

夜景の宝石が、最も輝く地点。

けれど、一番の輝きは、姉の笑顔だった。


優しい声で。


「お日様の下で生きなさい。

 それが、私の望み」


『慰撫様』

ふと浮かんだ言葉。

慈悲と慈愛の象徴。

姉の覚悟の深さは、神をも彷彿とさせるものだった。

私の立つ場所など、最初から無かったのかもしれない。

母も、祖母も、同じなのだろう。

無限の愛。


ならば、私は『光の慰撫』になろう。

あーちゃんの言った「光」も、きっとそこにある。

レールの先の霧が、少し晴れた気がした。


車は高架を降りる。

夜景は、バックミラーの中へと流れていった。

私の中の靄も、風景と共に薄れていく。


“相手だけでなく、自分を大切にする。

まずは自分に光を。

そして、寄り添う気持ちで道を示す。”


退院の日に誓った言葉を、改めて思い返す。

怒りに任せて、同じ過ちを犯すところだった。

(戦う資格がなくて……当たり前か……)


私は、静かにシートに深く身を沈めた。


——


家が見えてきた。

まだ、明かりがついている。


玄関の前で車が止まる。

そこに、母が立っていた。


その表情は、いつも通りで。


「お帰り、二人とも。ふふ。

 お爺ちゃんが、お話があるそうよ」


いつもと変わらない口調。

けれど、雰囲気が違う。

逆らうことを許さない何か。


促されるまま、私は家の中へ入った。



(第10話 天嶺の名の下で につづく)

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