第87話 届かない背中
私が兄と並んで学内を歩いていると、いつも決まって視線を集めるのは兄だけだった。すれ違う生徒たちは、ひそひそと声を潜めながら、あるいは隠しきれない憧れを瞳に浮かべて、エルディオンに手を振る。
――次期王。
――学年成績トップ。
――誰にでも優しく、誰よりも優秀。
そんな言葉が、自然と彼の周囲にまとわりついていた。
私は、その隣を歩いている。
同じ血を引き、同じ学園に通い、同じ講義を受けているというのに――まるで、背景のような存在だった。
成績においても、それは同じだ。兄が学年首位であることは、誰もが知っている。だが、彼の優秀さは学問だけに留まらなかった。
魔術の成績。
兄は学年二位。
そして、常にその座を争っていたのが――
マギウスだった。
マギウスの魔術は、異質だった。講義で教えられる理論をなぞるのではなく、独自の視点で魔術を再構築する。誰も思いつかない応用、誰も踏み込まない解釈。それによって、周囲を驚かせ、講師すら唸らせてきた。
一方で、兄の魔術は――正確だった。教本通り、理論通り、詠唱通り。だが、それを完璧に再現する精度が、常人の域を超えていた。繊細で、無駄がなく、美しい。それが、エルディオンの魔術。
だからこそ――
私は、少しでも兄に近づきたかった。
講義室の席に座り、背筋を伸ばし、魔術の講義に耳を傾ける。羊皮紙のノートに、講師の言葉を一字一句逃すまいと書き写す。詠唱文、魔力循環の理論、魔元素の干渉率。
必死だった。誰よりも真剣に学んでいるつもりだった。
その時だった。
「えーっと……そうだな」
講師の声が、講義室に響く。
私は反射的に顔を上げた。
「弟の方の……君。これを解いてみてくれ」
“弟の方”。
その呼び方に、胸の奥がわずかに軋む。
講師は板書板に書かれた、書きかけの詠唱文を指し示していた。
未完成の魔術式。
応用を問う問題だ。
私は促されるまま席を立ち、板書板の前へ向かう。背後から感じる視線が、やけに重い。
――落ち着け。
自分に言い聞かせ、羽根ペンを取る。板書板に向き合い、私は詠唱文の続きを書き加えた。
魔力の流れを安定させるための補助句。
起動を優先した構成。
書き終え、静かに一歩下がる。
講師は腕を組み、詠唱文をじっと見つめたまま、低く唸った。
「うーん……」
その沈黙が、やけに長く感じられる。
「確かに、この詠唱でも起動はするな」
一瞬、胸が跳ねる。
「だが……正解ではない」
その言葉で、全身から力が抜けた。
「魔力伝達の効率が悪すぎる。これでは無駄が多い」
淡々と告げられる評価。
正論だった。
分かっていた。
けれど――
私は思わず肩を落とし、視線を床に落とした。
「……失礼しました」
小さくそう告げ、静かに席へ戻る。
歩きながら、唇を強く噛み締めていた。
悔しい。
ただ、それだけだった。
講師は、そんな私には構わず、次の生徒へと視線を移す。その先にいたのは――兄、エルディオン。
「では、次はエルディオン。君ならどうする?」
その呼びかけは、まるで――先ほどの私の回答と、これから示される兄の答えを、天秤にかけるかのようだった。
講義室の空気が、わずかに変わったのを感じた。
期待の視線。
当然だという前提。
私は、俯いたまま、ただその背中を見つめていた。
兄――エルディオンは、静かに席を立つ。その動きに一切の無駄はなく、講義室の視線を一身に集めながら、板書板の前へと歩み出た。
迷いはない。
羽根ペンを取り、途中で止まっている詠唱文に、すらすらと文字を書き加えていく。流れるような筆致。詠唱の構造を理解し尽くした者だけが描ける、無駄のない運び。
完成された詠唱文は――美しかった。
単に正しいだけではない。魔力の流れが、紙の上からでも感じ取れるほどに整えられている。誰が見ても、洗練されていると分かる完成度だった。
講義室が、しんと静まり返る。
詠唱文を見つめていた講師は、思わずといった様子で目を見開き、そして深く頷いた。
「ほぉ……」
感嘆の声が漏れる。
「流石だな……完璧だ」
講師は顎に手を当て、さらに詠唱文を細かく確認しながら続けた。
「それだけじゃない。魔力の循環効率が上がるよう、補助句を自然に組み込んでいる……魔力練度まで考慮した構成だ」
その評価に、教室の空気が一気に弾けた。
「すご……」
「さすがエルディオンだ……」
小さなざわめきと、驚嘆の声。兄はそれらを背に受けながら、軽く一礼し、何事もなかったかのように席へ戻っていく。
その姿を、私は席に座ったまま、黙って見つめていた。
胸の奥で、何かが強く締め付けられる。
羨ましい。
誇らしい。
そして――悔しい。
兄に追いつけないという現実が、はっきりと突きつけられた気がして、思わず拳を握りしめていた。
――いつも、こうだ。
学問でも、魔術でも。
兄は常に一歩先を行く。
そしてそれは、実技演習でも変わらなかった。
外庭に設けられた演習場。
そこでは、生徒たちが順番に入れ替わりながら、魔導標的に向かって魔法を放っていく。
魔導標的は特殊な装置だ。受けた魔力を一定量吸収し、決して破壊されることはない。威力、精度、魔力制御――すべてを測ることができる、練習用として最適な設備。
例に漏れず、私の番が来る。
深呼吸を一つ。詠唱を唱え、魔力を練り上げ、標的へと放つ。放たれた魔法は、確かに命中し、魔導標的に吸収されていく。
失敗ではない。
だが、決して称賛されるほどでもない。
「く……」
思わず、喉の奥から声が漏れた。
私は、確かに魔導標的を壊すつもりで魔法を放った。力を込め、詠唱を整え、魔力を練り上げたつもりだった――それでも、標的は何事もなかったかのように魔力を受け止め、静かに光を失っただけだった。
だが。
次に前へ出たマギウスは、まるで別だった。
彼は魔導標的の前に立つと、詠唱すら唱えない。ただ、静かに掌を向ける。
――無詠唱。
彼の掌に、じわりと魔力が集まっていく。渦を巻くように、しかし決して暴走せず、整然と圧縮されていく魔力。やがて、それは小さな火の玉となった。掌に収まるほどの、本当に小さな炎。
だが――
私は、それを見た瞬間に理解してしまった。
(……なんて、密度だ……)
ありえない。あのサイズに、これほどまでの魔力を押し込めるなど。小さいから弱い、などという常識は、彼の前では意味を成さない。
マギウスは、その火の玉を軽く押し出すように放った。
一直線に飛ぶ、掌サイズの火球。
次の瞬間。
火の玉が魔導標的に触れた――その刹那。
轟音。
吸収するはずの標的は、耐えることすら許されず、粉々に爆散した。破片が宙を舞い、熱風と衝撃が演習場を揺らす。
一瞬、世界が止まった。
講師も、生徒も、誰一人として声を出せず、ただ口を開けたまま固まっていた。
静寂の中で、当の本人であるマギウスは――後頭部に手を当て、困ったように首を傾げる。
「あっちゃー……」
まるで、日常のちょっとした失敗のような調子で呟いた。
「出力……間違えたかぁ」
その言葉に、ようやく我に返った講師が、顔を赤くして怒鳴る。
「おい!!何度言えば分かる!!魔導標的を壊すなと言っているだろうが!!」
怒声が演習場に響く。
だが、マギウスは少しも怯えた様子を見せず、軽い動作で両手を合わせた。
「すみませーん」
まるで本気で反省しているのかも分からない、軽い謝罪。
その様子に、講師は深いため息をつき、額に手を当てる。
「……まったく。いつものことだが……」
呆れきった声だった。
生徒たちの間に、どよめきが広がる。
尊敬、畏怖、羨望――さまざまな感情が混じった視線が、マギウスに集まっていた。
――生まれつき、魔力の少ないマギウス。
彼はよく、周囲から“努力の人間”だと言われている。確かに、彼は誰よりも学び、誰よりも研究してきた。
だが。
その軽い素振り。まるで当たり前のように結果を出す、その姿。少なくとも、私の目には――それを“努力”と呼ぶ気には、どうしてもなれなかった。
――才能。
その言葉が、胸の奥で何度も反響する。
私の目には、彼――マギウスは、自身が持つその“才能”を、無自覚に、いや無遠慮に振りかざしているようにしか映らなかった。
(努力なら……)
奥歯を噛みしめる。
(努力なら……私の方が、誰よりもしている……)
誰にも見られない時間に、誰にも評価されない場所で、私は何度も魔術書を読み返し、詠唱を組み直し、指先が痺れるまで魔力制御の訓練を続けてきた。
それでも。結果は、いつも同じだ。
講義が終わり、講習が終わり、次の教室へと移動する時間。私は、自然と三人の背中を追う位置を歩いていた。意識しているわけではない。気がつけば、そうなっている。
少し先を歩く、三つの背中。
剣を携えるセリオディアン。
本を抱え、穏やかに歩く兄、エルディオン。
そして、何気ない足取りで周囲の視線を集めるマギウス。
廊下ですれ違う生徒たちの視線は、私を素通りし、その三人へと吸い寄せられていく。
ひそひそと、囁くような声。
「ねぇ、聞いた?セリオディアン様、剣術の講師に一本取ったんだって……」
「エルディオン様も、魔物退治の戦術家として、どこかの国に呼ばれて講義をしたらしいわよ!」
「やっぱり三英傑様よね……」
足音と共に、言葉が流れていく。
そして――
「特に、マギウス様……」
その名前が出た瞬間、胸がひくりと跳ねた。
「あの澄んだ瞳に、凛々しい顔……」
「誰よりも努力家で、才能もあって……」
「一度でいいから、ちゃんとお話ししてみたいわね……」
くすくすと、楽しげな笑い声。
その一つ一つが、刃のように胸に突き刺さる。
(……どいつも、こいつも……)
心の中で、吐き捨てる。
(あの三人の話ばかり……)
足は止めない。
表情も変えない。
だが、内側では、確かに何かが軋んでいた。
(私だって……)
拳を、強く握りしめる。
(私だって……誰よりも……)
誰にも聞こえない言葉。
誰にも届かない叫び。
私の中で芽生えた感情は、もはや単なる羨望ではなかった。嫉妬は、いつしか熱を帯び、黒く重たいものへと形を変えていく。
――憎悪。
認められたい。
見てほしい。
評価されたい。
そのためなら、どれほどでも努力する。
どれほどでも、自分を削る。
(もっと……)
心の奥で、声が囁く。
(もっと、努力しなければ……)
周囲に認められるために。
あの三人と、同じ場所に立つために。
――いや。
いつか、あの三人の“上”に立つために。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
次回
第88話 認められぬ成果
【明日19時】に更新予定です。
引き続き
三人の若き国王編を進めていきます!
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