第76話 受付嬢エリナの不安
――三十分ほど前。
私、エリナ=フェレツは、冒険者ギルドの受付カウンターの内側で、いつも通り事務仕事に追われていた。机の上には、きれいに揃えたつもりでもすぐに崩れていく書類の山。
依頼書、報告書、支払い申請、素材受領の確認――視線を走らせ、内容を確認し、判を押し、次へ。
ただそれを、淡々と繰り返す。
「はぁ……」
気づけば、小さなため息が零れていた。
この仕事に慣れていないわけじゃない。むしろ慣れすぎているからこそ、書類の量が減らない現実が、余計に重く感じられる。
その時だった。
「ねぇ、エリナ……」
背後からかけられた声に、私は手を止め、顔を上げた。声の主は、隣のカウンターを担当している同僚だ。彼女は眉を寄せ、手にした一枚の書類をじっと見つめている。
「これなんだけどさ……」
困ったような声音に、私は自然と身を乗り出し、彼女の手元を覗き込んだ。
「あ……」
書類の上部に書かれた差出人と内容を見た瞬間、思わず小さく声が漏れる。
同僚は、やはり腑に落ちない様子で、書類を指で軽く叩きながら言った。
「また、宰相様からの依頼なのよ……最近、こういう依頼、増えてると思わない?」
私は黙って頷く。
「依頼を出してくださるのはありがたいんだけどさ、街の冒険者がみんなそっちに取られちゃって、一般の依頼がどんどん溜まってるのよね……」
彼女は、少し声を落とし、書類に目を落としたまま続ける。
「しかも内容がさ……魔物の素材ばっかり武器にも防具にも向かないような、用途の分からないものばかり、国は……一体、何に使ってるのかしら……」
その言葉に、胸の奥が小さくざわついた。
(確かに……)
以前、グレイノース様に引き受けてもらった依頼も、同じような内容だった。価値がないわけじゃない。でも、明確な使い道が見えない素材ばかり。
(今回も……同じ……)
考え込む私の横で、同僚は大きく息を吐き、半ば冗談めかして言った。
「あーあ!ギルドマスターが、こういう依頼、断ってくれないかしら……」
その瞬間、私は反射的に声を上げていた。
「しっ!」
慌てて人差し指を唇に当て、周囲を見回す。
「だれかに聞かれたら、どうするの!」
私の真剣な声音に、同僚は目を見開き、慌てて手を振った。
「じょ、冗談よ!冗談!あはははは……!」
引き攣った笑顔。誤魔化すように、少し大げさに笑うその姿に、私は肩を落とした。
「もう……」
注意する声とは裏腹に、胸の奥には、さっきまでなかった重たい感覚が残っていた。
ただの愚痴。
ただの雑談。
――そう言い聞かせながらも。
なぜか、その依頼書の文字が、頭から離れなかった。
キィィィン――。
耳鳴りのように、けれど確かに空気を切り裂く音が、ギルドの中に響き渡った。一瞬、何が起きたのか分からなかった。だが次の瞬間、私は反射的に顔を上げ、音の発生源であるギルドの中央へと視線を向けていた。
そこでは――
空間そのものが、布のように歪み、捩れ、押し広げられていた。
「……っ」
息を呑む間もなく、その歪みの中心から、忽然と“人”が姿を現す。それが何なのかを理解するよりも早く、私はその人物を認識していた。
(グレイノース……様……)
現れたのは、間違いなく彼だった。だが、その姿は、私の知る彼とはあまりにも違っていた。
衣服は裂け、血に染まり、息も荒い。全身に刻まれた無数の傷が、彼が直前まで置かれていた状況の過酷さを、嫌というほど物語っている。
そして――
彼の腕の中には、一人の女性が抱きかかえられていた。
力なく項垂れた身体。
微かに上下する胸。
その光景を目にした瞬間、胸の奥が強く締め付けられた。
(……何が、起きたの……)
詳しい事情は分からない。けれど、“ただ事ではない”ということだけは、直感的に理解できた。
私は考えるよりも先に、走り出していた。
「い、いったい……何が!?」
声が震えるのを自覚しながら、私はグレイノース様のもとへ駆け寄る。
彼は一瞬、私に視線を向けた。その瞳には、疲労と痛み、そして――焦りが滲んでいた。
けれど次の瞬間、彼は一度だけ小さく息を整えるように俯き、すぐに顔を上げて、真っ直ぐ私を見据えた。
「フェレツさん……急ぎだ」
低く、だが揺るぎのない声。
「ギルドマスターに会わせてくれ。事情は……その時に全部話す」
迷いのない視線。私は、無意識に背筋を伸ばしていた。
「……分かりました」
それ以上、問い返す必要はなかった。
私はすぐに周囲へ視線を走らせ、心配そうにこちらを見ていた同僚と目を合わせる。ほんの一瞬のやり取りだったが、それで十分だった。
同僚は頷くと、何も言わずにカウンター裏へと駆け戻り、待機していた別の受付嬢を連れて戻ってくる。二人の手には、担架がしっかりと握られていた。
グレイノース様は、抱えていた女性を、これ以上ないほど慎重に、その担架へと横たえた。その間も、彼の視線は一度たりとも彼女から離れない。
――離せないのだ。
それほど、大切な存在なのだと、嫌でも伝わってくる。
だからこそ。
私は、彼の迷いを断ち切るように、一歩前へ出て、言葉を紡いだ。
「そ、それでは……行きましょ!ギルドマスターの部屋は、二階になります!」
自分でも驚くほど早口になりながら、私はそう告げた。一刻も早く事態を動かさなければならない――そんな焦りが、自然と足を前へと運ばせる。
私とグレイノース様は、並ぶように階段を駆け上がった。木製の階段が、私たちの足音を受けて忙しなく軋む。
タン、タン、タン――。
胸の鼓動と足音が重なり、妙に耳に残る。二階へ上がり、大部屋の扉を押し開けた瞬間、私は思わず息を詰めた。
「……いない?」
そこにあるはずの姿が、なかった。
ギルドマスターの執務机も、椅子も、いつも通り整えられている。だが、肝心の人物だけが、まるで最初から存在しなかったかのように消えている。
(ギルドマスターは……どこに……?)
不安が胸に広がる中、ふと隣を見ると、グレイノース様が立ち止まっていた。
彼は大部屋の壁一面に並ぶ、歴代ギルドマスターの肖像画を、目を見開いたまま見つめている。まるで、何かを見つけてしまったかのように。
そして、低い声で私に問いかけてきた。
「なぁ……フェレツさん。この肖像画の人って……」
その視線を追うように、私は壁を見る。
彼が見ていたのは――中央に飾られた、一枚の肖像画。
現ギルドマスターのものだった。
「あー!この方はですね」
私は、いつも通りの調子で答えようとして――自分の声が、どこか乾いていることに気づいた。
「この冒険者ギルドの現ギルドマスター――バーン=ギルレイド様の肖像画ですよ!」
その瞬間だった。
空気が、微かに重く沈んだ。
理由は分からない。けれど、隣に立つグレイノース様の気配が、ほんの一瞬で変わったのを、私は確かに感じ取っていた。
そして――
コツ、コツ。
背後から、静かで規則正しい足音が近づいてくる。反射的に振り向いた、その先に立っていたのは――
「……ギ、ギルドマスター!」
思わず声が上ずる。
いつもと変わらない、落ち着いた佇まい。けれど、その瞳は、どこか冷たく、底が見えない。
「実は、緊急で――」
説明しようとした、その瞬間。
スッ――と、私の視界の前に、一本の腕が伸びてきた。
グレイノース様の腕だった。
まるで、私を前へ出さないように。
まるで、何か危険なものから、私を遠ざけるかのように。
その動きに、私は言葉を失い、無意識に一歩、後ろへと身を引いた。
――守られている。
そう感じてしまった自分に、遅れて背筋が寒くなる。
グレイノース様とギルドマスターは、互いに向き合い、低い声で会話を始めた。
断片的に耳へと届く言葉が、私の心をざわつかせる。
――誘拐。
――ハンスの死。
どれも、この場で聞いてはいけない言葉だった。
聞いてはいけない真実に、無理やり足を踏み入れてしまったような感覚。全身を、嫌な予感が這い回る。
その時だった。
ギルドマスターの視線が、ゆっくりと――確実に、私へと向けられた。ぞくり、と背筋が凍る。
そして次の瞬間――
キィン、と空気を裂く音と共に。私の目の前に、銀色の刃が、迫ってきていた。
(……え……?)
理解が、まるで追いつかなかった。
私の視界いっぱいに迫ってきたのは、冷たく光る銀色の刃。ギルドマスターの手に握られた剣が、まっすぐ――私の命を刈り取る軌道で振り下ろされていた。
声も、悲鳴も、出なかった。頭が真っ白になり、ただ立ち尽くすしかなかった、その瞬間。
――キィィンッ。
鋭く、澄んだ金属音が響いた。
私の目の前を、もう一本の刃が横切る。
間一髪で、銀の剣を受け止めたのは――
グレイノース様だった。
彼の剣が、ギルドマスターの剣を真正面から受け止め、火花を散らしている。その背中が、私の視界いっぱいに広がった。
――守られている。
そう認識した瞬間、膝が震えた。剣と剣が噛み合ったまま、拮抗する二人。その隙間から、グレイノース様の必死な声が飛んできた。
「フェレツ……さん……!助けを……誰か……呼んで来てくれ!!!」
その声に、はっと我に返る。
何が起きているのか、理解はできない。
けれど――
(今は、考えている場合じゃない……!)
体が、勝手に動いていた。
私は踵を返し、大部屋を飛び出す。背後から、剣がぶつかり合う音が響いていたが、振り返る余裕はなかった。
――走れ。
そう、自分に言い聞かせる。
階段を駆け下りる。足が縺れそうになりながらも、必死に手すりを掴み、転ばないように身体を前へ投げ出す。
トン、トン、トン――!
心臓が喉から飛び出しそうなほど脈打つ。
やっとの思いで一階に辿り着き、私は息を切らしながら周囲を見渡した。
(……誰もいない……)
冒険者の姿はない。受付も、いつもなら賑やかなはずのホールも、異様なほど静まり返っている。
今は、宰相からの依頼で、ほとんどの冒険者が街の外に出払っている。
同僚たちも――さっきの、傷だらけの女性を連れて、診療所へ向かったばかり。
(そんな……)
喉が、きゅっと鳴る。
このままじゃ、誰も助けを呼べない。
(だったら……)
私は、迷わなかった。
冒険者ギルドの正面扉へと駆け寄り、勢いよく押し開ける。
ギィ、と軋む音を立てて扉が開き、外の空気が一気に流れ込んできた。
そのまま、私は街へと飛び出した。
誰でもいい。
騎士でも、衛兵でも――
(お願い……誰か……!!)
胸の中で叫びながら、私は必死に、助けを求めて走り出した。
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次回は【明日19時】に更新予定です。
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