第75話 逆転の一手
俺――グレイノースは、グラッドの顔面を狙って突き出した。グラッドが俺の拳を受け止めた瞬間、彼の手に嵌められていた魔導具の指輪を《転移》によって消し去る。そして、そのまま首筋へと剣を振り下ろした。
――はずだった。
だが、グラッドは剣を捨て、迷いなく自らの掌で俺の刃を受け止めた。裂けた掌から溢れ出した血は、次の瞬間、俺の顔面へと叩きつけられる。
赤。
世界が、赤に染まった。
視界は完全に塞がれ、何も見えない。
次いで、腹部に重く、鈍い衝撃。
――蹴り。
肺の中の空気が一気に吐き出され、俺はその場に膝をついた。
「……ぐ……」
呻き声が、喉の奥から漏れる。
目に入った血を振り払おうと、俺は必死に目元を擦る。だが、血は簡単には落ちない。
視界は滲み、歪み、ぼやけた影が揺れるだけで――グラッドの姿は、どこにも見えなかった。
その代わりに、耳だけが異様に冴え渡る。
……コツ。
……コツ。
ゆっくりと、確実に近づいてくる足音。
そして、遠くから届く、あの耳障りな声。
「お前みたいなよ……冒険者になりたてのガキに、ここまで追い込まれるとは思わなかったぜ……」
嘲るようでいて、どこか本音が混じった声。
「それに、最後に使ったスキル……ありゃ正直、驚いた」
――最後。
その言葉が、胸に冷たく突き刺さる。
(……次で……終わらせる気だ)
剣を構えたまま、グラッドがこちらを見下ろしている光景が、想像できてしまう。
だが、想像できるだけだ。
見えない。
分からない。
俺に分かるのは、足音の方向と距離だけ。
……近い。
(どこだ……)
必死に首を動かし、滲む視界の中で何かを捉えようとする。だが、赤い闇の向こう側には、何もない。
(いつ、どこから剣が振り下ろされてもおかしくない)
その事実が、じわじわと恐怖として全身を締め付けてくる。
(……このままじゃ……)
呼吸が浅くなる。
心臓の鼓動が、やけに大きく耳に響く。
(……せめて……)
思考が、追い詰められていく。
剣の重み。
床の冷たさ。
自分が“生きている”という感覚だけが、異様に鮮明になる。
そして――
(……場所さえ……分かれば……)
その瞬間だった。
理屈でも、判断でもない。
生きたいという、ただそれだけの衝動。
本能が、叫んだ。
――生きろ。
次の瞬間、
俺は意識するより先に、スキルを発動させていた。
――スキル《空間探知》。
その名を意識するより先に、俺の内側から解き放たれた魔力が、静かに、しかし確実に広がっていく。床を這い、壁を伝い、天井をなぞるように――冒険者ギルド二階の大部屋全体を、薄い膜のように包み込んだ。
赤く滲んだ視界は、依然として役に立たない。だが、その代わりに“分かる”。
――いる。
魔力の輪の中に、ひとつだけ、異質な存在。
冷たく、重く、そして明確な殺意を帯びた気配。
グラッド。
彼が、ゆっくりと、確実に距離を詰めてきているのが分かる。
(……場所は、掴んだ)
だが、それだけだ。
足の運び。
剣を振り上げる瞬間。
呼吸の変化。
そこまでは、読み切れない。
(このままじゃ……どの瞬間に斬られるか分からない)
心臓が、嫌な音を立てて脈打つ。
一歩間違えれば、次が最後だ。
(……なら)
俺は、まだ閉じたままの瞼の奥へ、さらに魔力を送り込む。
視るためではない。
感じるためでもない。
――“読む”ために。
魔力は全身を巡り、思考と直結するように、一点へと集約されていく。
――スキル《心眼》。
次の瞬間。
視界が、反転した。
目は閉じたまま。
それなのに、世界が“見える”。
形ではない。
色でもない。
動き。
意志。
次に起こる“流れ”そのもの。
グラッドの身体が、まるで線で描かれたように、俺の内側に映し出される。
一歩。
二歩。
踏み出す重心。
肩の角度。
剣を振り上げるための、無駄に大きな予備動作。
(大振り……)
余裕。
慢心。
――そして、
俺を“終わらせたつもり”の油断。
だからこそ。
俺は、膝をついたまま、床に落ちていた剣の柄を掴んだ。
《心眼》が示す“未来”に、迷いはなかった。
次の瞬間。
俺は――振り抜いた。
狙いは、心臓。
剣先が、肉を貫く感触が、はっきりと伝わる。刃に伝わる、生暖かく、確かな手応え。一瞬、時間が止まったかのように、空気が張り詰める。
次いで――
「ぐ……ぐぁぁぁぁぁぁ!!」
耳を裂くような絶叫。
グラッドは自分の胸を押さえ、信じられないものを見るような顔でよろめいた。指の隙間から、赤い血が溢れ出し、床に滴り落ちる。
後退りながら、数歩。
そのまま、力が抜けたように――
ドサリ、と音を立てて、仰向けに倒れ込んだ。
俺は、その光景を“心”で捉えながら、ゆっくりと呼吸を整える。荒くなった息を、深く吸い、静かに吐く。膝に残る震えを抑えながら、俺はゆっくりと立ち上がった。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
荒い呼吸だけが、広い部屋に虚しく響いていた。床に倒れたグラッドは、焦点の合わない目で天井を見上げている。先ほどまで俺を嘲り、弄び、命を奪うことすら“仕事”と呼んでいた男とは思えないほど、その表情は抜け殻のようだった。
俺は剣を下ろしたまま、一歩、また一歩と近づいていく。
最後を確かめるため――そう思いながら。
靴音に気づいたのか、グラッドの瞳がゆっくりと動き、俺を捉えた。天井を見つめていた視線が、今は真っ直ぐ、俺に向けられている。
その口が、かすかに動いた。
「……ここで……終わり、か……」
独り言のような呟き。そこにあったのは憎しみでも怒りでもなく、ただ乾いた諦観だった。
グラッドは、何かを悔やむように顔を歪める。
「あの国でも……この国でも……」
言葉の端が、次第に細く、力を失っていく。
「……俺の居場所は、最初っから……なかったのかも、な……」
まるで、彼自身の存在が、ゆっくりとこの場から溶け落ちていくかのように。
その時。
背後から、場の空気を切り裂くような、張りのある声が響いた。
「グレイノース様!!!!」
反射的に、俺は振り返る。
血で滲んだ視界がゆっくりと開けていく。
そこに立っていたのは、息を切らしたエリナ=フェレツだった。その隣には、銀色の鎧を纏った数名の兵士――いや、騎士たち。
彼らは一斉に武器を構え、倒れているグラッドを包囲する。鎧の胸元に刻まれた紋章が、目に入った瞬間、俺は理解した。
――ラナリア王国。
フェレツは、安堵と緊張が入り混じった表情で俺を見つめている。その横から、低く落ち着いた、聞き覚えのある声が響いた。
「遅れてすまない……」
俺は思わず、その声の主を見た。
そこに立っていたのは、ラナリア王国・王都アルセリオン副騎士団長――ロナン。
「ろ、ロナンさん!?なんでここに……?」
驚きを隠せずに声を上げる俺に、ロナンは小さく息をつき、苦笑するように視線をフェレツへ向けた後、再び俺を見る。
「実はな……ラディナ村での件の後、あの日の出来事をセリオディアン陛下に報告した」
ロナンの声は、淡々としていながらも重みがあった。
「陛下は、この国の王――エルディオン殿と、古くからの友人でな、不穏な話を聞き、心配した陛下が“調査”という名目で、我々を派遣したんだ」
俺は息を呑む。
「この国の内情を探っている最中に……」
ロナンはフェレツに軽く視線を向ける。
「彼女――エリナ=フェレツさんと偶然出会い、助けを求められた。それで、ここへ急行した、というわけだ」
そう言い終えると、ロナンはゆっくりと視線を落とし、床に横たわるグラッドを見る。
倒れた男。
散乱した血。
砕けた椅子と、剣の痕。
一通り状況を見渡した後、ロナンは再び俺を見た。
「一体、何が起こったんだ?」
その目は、先ほどまでの柔らかさを失い、騎士としての厳しさを帯びていた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
次回は【明日19時】に更新予定です。
引き続き
モデリスク王国編 陰謀編を進めていきます!
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