第70話 触れる国の闇
俺、グレイノース=リオンハーツの目の前で起きた出来事は、あまりにも異常だった。
衛兵と冒険者――誘拐に関わっていた二人を倒し、雇い主を問い詰めた。
その瞬間。
彼らの指にはめられていた指輪から、禍々しい魔力が噴き出し、まるで意思を持つかのように身体を内側から侵食し――二人は、何も語らぬまま命を落とした。
口封じ。そう言わざるを得ない出来事。
俺の頭の中は、混乱と動揺が入り乱れていた。誰が、どこまで、どれほど深く関わっているのか。考えるほど、底の見えない闇が口を開けているように思える。
だが、今は、そんなことを考えている場合じゃない。脳裏に浮かぶ名前は、ひとつだけだった。
――リゼル。
俺ははっとして踵を返し、牢屋に横たわるリゼルの元へ駆け寄る。膝をつき、そっと、だが迷いなく腕を差し入れ、リゼルの身体を抱きかかえた。
「今、安全な場所に――」
そう言いかけた、その時。
リゼルは、薄れゆく意識の中で、必死に言葉を絞り出した。
「……奥に……まだ……人が……」
その一言が、俺の胸を強く打つ。
(生存者が、他にもいる!)
俺は歯を噛み締め、リゼルを抱いたまま、奥の通路へと足を進めた。一歩進むごとに、胸の奥が重くなる。
右。
鉄格子の向こうで、荒い呼吸を繰り返す男。
左。
かすかに胸が上下する、女性の姿。
さらに進むと、隅で膝を抱え、怯え切った瞳でこちらを見つめる子供。別の牢では、希望を失ったように虚ろな目で、ただ一点を見つめ続ける者もいた。
――だけど、生きている。
確かに、生きている人たちが、そこにはいた。
(……この人数を、一度に……)
俺の脳裏に浮かぶのは、《転移》のスキル。
理論上なら、この人数をまとめて移動させることも不可能ではない。だが、今の俺は、まだ魔力を完全に制御しきれていない。
(無理をすれば、最悪の場合――)
魔膨症の恐怖が脳裏をよぎる。
(……運べるのは、せいぜい一人……)
唇を噛み締める。
この場にいる全員を助けたい。
だが、それは“今の俺”にはできない。
だからこそ――
(……先に、リゼルを……)
俺は深く息を吸い、魔力を練り上げる。自分と、腕の中のリゼルを包み込むように、慎重に、慎重に。目を閉じ、思い描く。
ここよりも安全な場所。
確実に、彼女を守れる場所。
(……衛兵の詰所に……)
一瞬、そう考えかけ――すぐに、その考えを振り払った。
脳裏に蘇る、アングハルトの言葉。
"この街の衛兵は信用するな"
今、目の前で見たものを思えば、その忠告がどれほど正しいか嫌というほど分かる。
だからこそ。
俺は"より安全で"、"より信用できる場所"を強く思い浮かべる。そして、魔力をスキルへと流し込む。
ーースキル《転移》
発動の感覚と同時に、世界が引き剥がされる。
俺とリゼルの身体は、まるで残像を置き去りにするように、地下空間から掻き消えた。
次の瞬間――
足裏に感じる床の感触が変わる。湿った地下の空気は消え、代わりに鼻をくすぐるのは人の気配と木材の匂い。
俺の視界が捉えたのは、見慣れた冒険者ギルドの内装だった。
正面――カウンター越しに立っていたのは、受付嬢のフェレツ。彼女は、突然目の前に現れた俺と、腕に抱えられた傷だらけの少女を認識した瞬間、言葉を失ったように目を見開いた。
「……っ!?」
一瞬の沈黙。だが、それはほんの刹那だった。フェレツはすぐに我に返り、俺の全身、そしてリゼルの状態を一目で見て取ると、表情を一変させて駆け寄ってくる。
「い、いったい……何が!?」
切迫した声。状況を問いただそうとするのも無理はない。だが、今の俺には、説明している余裕はなかった。
(あの地下に取り残された人たちを救うには……このギルドの力を借りるしかない)
迷いはなかった。
俺は真っ直ぐにフェレツを見据え、言葉を選ぶ余裕もなく告げる。
「フェレツさん……急ぎだ。ギルマスに会わせてくれ。事情は、その時に全部話す!」
俺自身でも分かるほど、声は硬く、切迫していた。その表情を見たフェレツは、深く問い返すことはしなかった。一瞬だけ視線を伏せ、そして、静かに頷く。
「……分かりました」
彼女はすぐにカウンターの向こうへ視線を投げた。合図を受け取った別の受付嬢が、険しい表情で立ち上がり、カウンター裏へと駆けるように走っていく。
次の瞬間。
二人の受付嬢がカウンター裏から担架を持って走り寄ってきた。
俺はゆっくりと屈み、腕の中のリゼルを慎重に担架へ移す。小さな衝撃すら与えないよう、細心の注意を払いながら。担架に横たわったリゼルは、かすかに胸を上下させている。それを確認して、胸の奥でようやく息を吐いた。
俺は顔を上げ、担架を支える二人に向かって短く言う。
「……この子を、頼む」
二人は一瞬、真剣な眼差しで俺を見つめ、何も言わず、強く頷いた。
そのやり取りを見届けてから、フェレツが俺の方へと向き直る。彼女の表情は、先ほどまでの驚きではなく、覚悟を帯びたものに変わっていた。
そして――
フェレツは、慌てた口調で俺に告げた。
「そ、それでは……行きましょ!ギルドマスターの部屋は、二階になります!」
そう言い残すと同時に、フェレツは駆け出した。 迷いのない足取り。その背中から、事の重大さを正確に理解していることが伝わってくる。
俺もすぐに後を追う。
カウンター脇に設えられた階段を、二人並んで一気に駆け上がった。
――タン、タン、タン。
木製の階段を叩く足音が、やけに大きく響く。それは単なる音ではなく、胸の内で高鳴る焦燥をそのまま外に吐き出しているかのようだった。
(急げ……)
一段、一段を踏みしめるたびに、地下に残してきた人々の姿が脳裏をよぎる。立ち止まる余裕など、欠片もなかった。
階段を上り切った先――
視界いっぱいに広がったのは、二階の奥に構える一際大きな扉だった。
フェレツは躊躇なくそれを押し開き、俺たちは流れ込むように室内へ足を踏み入れる。
……だが。
「……誰も、いない……?」
思わず零れた言葉は、広い部屋に虚しく溶けていった。そこは間違いなく、ギルドマスターの執務室だった。天井は高く、壁一面に本棚が並び、重厚な雰囲気を放っている。
なのに、肝心の人物が、いない。
フェレツも困惑したように周囲を見渡し、小さく首を傾げた。
「おかしいですね……この時間なら、いるはずなんですが……」
そう呟きながら、彼女は部屋の奥へと足を進める。俺もそれに続くように歩みを進めた。
奥まった窓際には、年季の入った大きな木製テーブルが置かれている。その背後の壁には――ずらりと並ぶ肖像画。
歴代ギルドマスターの肖像だろう。
一枚一枚が、確かな威厳を湛えた表情でこちらを見下ろしている。無意識のうちに、俺の視線はその肖像画へと引き寄せられていた。
右から、順に。
一枚ずつ、顔を追っていく。
――そして。
(……え?)
ある一枚を見た瞬間、思考が、ぴたりと止まった。
胸の奥が、ざわりと波立つ。
(……なんで……?)
そこに描かれていた男の顔。それは、記憶の奥にある“誰か”と、あまりにも酷似していた。
偶然にしては、似すぎている。
輪郭、目元、口元……その雰囲気までもが。
嫌な予感が、背筋をなぞる。
俺は視線を逸らすことができないまま、恐る恐るフェレツに声をかけた。
「なぁ……フェレツさん。この肖像画の人って……」
言葉の続きを探している間に、フェレツは俺の視線の先に気づいたらしい。一度だけ俺の顔を見てから、ゆっくりと肖像画へと目を向ける。
「あー!この方はですね、この冒険者ギルドの現ギルドマスター――バーン=ギルレイド様の肖像画ですよ!」
フェレツのその言葉は――
俺の中で、何かを決定的に叩き壊した。
(……え?)
何かの聞き間違いだ。
そうに違いない。
そうであってほしい。
俺は、もう一度、ゆっくりと肖像画へ視線を戻した。
落ち着け。
冷静に見ろ。
額の広さ、鋭く細められた目。口元に浮かぶ、どこか人を見下すような薄い笑み。
(――間違いない。)
そこに描かれている男は、フィーネを傷つけ、アルを殺し、俺の前で何度も不快な笑みを浮かべていた――あの男と、寸分違わぬ顔をしていた。偶然などという言葉で片付けられるはずがない。
その場の空気が、張り付いたように動かなくなる。
俺は呼吸をすることすら忘れ、ただ立ち尽くしていた。だが、頭の中では、これまでの出来事が一気に繋がり始める。
(ギルドマスターが高額依頼を出しているという噂……顔を隠した謎の依頼人……子供の誘拐を含む、表に出せない仕事……)
もし、それらすべてが――ギルドマスター本人の仕業だったとしたら?
子供の誘拐など、公になれば即座に問題になる。だからこそ、姿を隠し、裏から冒険者に接触していた。
(――筋は、通る。)
あまりにも、通りすぎるほどに。
その時だった。
――カツ、カツ。
静かな足音が、背後から近づいてくる。規則正しく、落ち着いた歩調。この場所を自分の庭だとでも思っているかのような、余裕のある足音だった。
フェレツがいち早くそれに気づき、ぱっと振り返る。
「あ!ギルドマスター!どこにいらしてたんですか?ちょうどお探ししていたところで」
その声に、俺は弾かれるように振り向いた。
そして、その顔が、視界に完全に映った瞬間。無意識に、拳を握り締めていた。
立っていたのは、肖像画と同じ男――
ギルドマスターは、俺の姿を捉えると、まるで待っていたかのように、口元を歪めた。
愉しそうに。
嘲るように。
そして、どこか懐かしむように。
「……久しぶりだな」
その声。
その抑揚。
その、耳障りな余裕。
――聞き間違えるはずがない。
俺は歯を食いしばり、眉を強く顰める。
胸の奥で、怒りと殺意が渦を巻く。
「グ……グラッド!!!!」
叫びは、怒号となって室内に響いた。
俺の目の前に立つ男。冒険者ギルドのギルドマスター、バーン=ギルレイド――グラッドは、あの時と変わらぬ、不気味な笑みを浮かべていた。その口角が、さらに吊り上がる。まるでこの瞬間を、楽しみにしていたかのように。
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次回は【明日19時】に更新予定です。
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