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第65話 広大な地下空間




 俺、グレイノースは――ハンスが残した地図を頼りに、あの路地裏へと足を踏み入れていた。見つけた隠し通路を降りた先に広がっていたのは、想像していたよりもはるかに広い空間だった。


 湿った空気。

 反響する足音。

 そして、規則的に並ぶ鉄格子の部屋


 それも、一つや二つではない。

 左右にずらりと並び、奥へ奥へと続いている。

 俺は息を殺しながら、進んでいき、静かに鉄格子の中を覗き込んだ。


 そして俺の視界の端に"何か"が映った。


 はっきりとは分からない。

 だが、"何かがいる"ことだけは、理解できた。


 俺は静かに歩み寄る。近づくにつれて鼻をつく異臭が強くなり、腐敗した空気が喉の奥にまとわりつき、呼吸が浅くなる。


 俺はゆっくりと膝をつき、その"何か"を確認するように視線を向けた。


「――――」


 言葉が、喉の奥で止まった。


 鎖に繋がれ、無造作に転がる肉の塊。かつては人の形をしていたであろうそれは、すでに原型を失いかけている。腐敗は進み、命の痕跡はとうに消えていた。腕には、何度も刺されたような注射痕が残り、皮膚には紫色の斑紋が広がっている。

 鎖を引きちぎろうとしたのか、逃げようともがいたのか。手首と足首には、深く食い込んだ裂傷の跡が生々しく残っていた。

 

 そして――顔。


 穏やかとは程遠い。

 叫びも、怒りも、すでに通り過ぎた後のような表情。ただ、苦しみを受け入れるしかなかった者の、静かな絶望だけがそこに残っていた。


 俺は思わず視線を逸らした。


(ここで、何かが行われていた……誰が、何のために)


 詳しいことは分からない。

 だが――“普通ではない”ことだけは、嫌というほど分かる。


 胸の奥で、何かが静かに蠢いた。


 俺はゆっくりと立ち上がり、もう一度、その亡骸に視線を向けた。何もできなかったという現実が、喉の奥を締め付ける。

 無意識に唇を強く噛み締めていた。


(ハンスは……これを見て……)


 考えが、そこで止まった。


 俺の腕が、わずかに震えていた。その震えを押さえ込むように、拳を握り締め、ゆっくりと目を閉じた。

 胸の奥に溜まったざわめきを押さえ込み、意識を一点に集中させる。呼吸を整え、体の内側から外へと――円を描くように魔力を広げていく。


 ――《空間探知》。


 発動の感覚と同時に、視界ではなく、意識の中に“情報”が流れ込んでくる。

 

 無数の鉄格子。

 狭い檻の内部。

 そこに横たわる、人の形をした気配。


 ……多すぎる。


 一つひとつが、かつて生きていた存在だった。名前があり、声があり、日常があったはずの人間たち。


(……まだ、生きている者が……いるかもしれない)


 その考えは、祈りに近かった。

 縋るような希望だった。


 俺は目を開き、走り出した。


 檻の前を駆け抜けながら、探知で捉えた気配を一つずつ、念入りに確認していく。


 男性。

 女性。

 年老いた者。


 そして――


「……子供まで……」


 思わず、声が漏れた。


 小さな気配。

 弱く、今にも消えそうな痕跡。

 ここに連れてこられた理由すら分からないまま、命を奪われた存在。


 歯を食いしばり、足を止めずに進む。

 檻を一つ、また一つと確かめる。


 だが――どこにも、生きている反応はない。


 希望が、少しずつ削れていく。


 その時だった。


 ――助けて。


 空間を反響するように、微かな声が耳に届いた。


 女性の声。


 錯覚じゃない。

 幻聴でもない。


「……っ!」


 次の瞬間、俺は全力で駆け出していた。


(生存者が……いる!)


 足が、自然と声の方角を選ぶ。

 視界の左右に流れる檻を無視し、ただ一直線に、声の源へ。


 息が荒くなる。

 鼓動が耳元で響く。


 そして――俺は、その檻の前に辿り着いた。


 視界に映ったのは、鎖に繋がれた一人の女性。


 全身に傷を負い、床に横たわっている。

 衣服は裂け、肌は青白く、呼吸も感じられないほど弱々しい。


(……遅かった、のか……)


 胸の奥に、冷たいものが落ちる。


 間に合わなかった――その考えが、現実味を帯びかけた、その瞬間。


 ……ピクリ。


 女性の指が、ほんのわずかに動いた。


「……!」


(生きてる……!)


 俺は息を呑み、慌てて檻に近づいた。

 暗がりの中、顔をはっきりと確認しようと身を屈める。


 そして――その顔が、視界に入った瞬間。


 世界が、音を失った。


(……なんで……)


 思考が、止まる。


 見間違いであってほしい。

 だが、何度瞬きをしても、輪郭は消えない。


(なんで……ここに……いるんだ……)


 胸の奥が、強く締め付けられる。

 

 その顔を、俺が見間違えるはずがなかった。何度も笑い合い、何度も喧嘩をして、同じ時間を過ごしてきた――俺が最もよく知る女性。幼い頃から共に生きてきた、大切な仲間。

 その顔を視界に捉えた瞬間、堰を切ったように記憶が溢れ出す。

 村の小道を走り回った日々。何でもないことで言い争い、すぐに笑って仲直りした夜。当たり前のように隣にいた、あの時間。


 ――だが。


 目の前に横たわる彼女からは、かつての快活な面影は薄れ、細く、傷つき、力なく檻の床に横たわっている。


(……リゼル……)


 喉の奥で名前を呼びかけながら、俺はゆっくりと近づく。壊れてしまいそうで、触れることすら怖かった。


 それでも――確かめずにはいられなかった。


 俺は彼女の体をそっと抱き起こす。

 驚くほど軽い。その体からは力が抜けきっているが、かすかに、確かに、吐息が感じられた。


 ――生きている。


 その事実だけが、胸の奥に小さな光を灯す。

 手足を繋ぐ手錠。そこから伸びる裂けた皮膚。逃げようと、必死に足掻いた痕がはっきりと残っている。

 全身に刻まれた無数の傷。それは偶然ついたものではない。繰り返し、意図的に与えられたものだと、一目で分かった。


 親友との再会は、あまりにも残酷だった。

 守れなかった現実が、静かに胸を締め付ける。


 怒りは燃え上がる一歩手前で、必死に押し留められていた。


 その時だった。


 リゼルの唇が、わずかに動いた。


「……グ……グレイ……」


 掠れた声。それでも、はっきりと俺の名を呼んだ。


「リゼル……!」


 思わず、声が震える。


 彼女はゆっくりと瞼を持ち上げ、焦点の合わない視線で、やがて俺を捉えた。


 次の瞬間――その瞳に、安堵の色が滲む。


「……グレイ……本当に……来てくれたんだ……」


 その目から、一筋の涙が零れ落ちる。


 俺は、胸が締め付けられ、思わず唇を噛み締めた。


(知らなかった。リゼルがこんな場所で、こんな目に遭っていたなんて。)


 だからこそ、口を突いて出たのは――言い訳でも、誓いでもなかった。


「……遅くなって……ごめんな……」


 その言葉に、リゼルは微かに笑い顔を横に振る。

 だがその笑みは、次の瞬間に凍りついた。


 リゼルの目が、見開かれる。

 視線は、俺ではない。


 ――俺の背後。


「……グレイ……」


 リゼルの声が、震えた。


「……逃げて……!!」


 異変を察した瞬間、背筋を冷たいものが走った。


 俺は、反射的に振り返る。


 ――視界いっぱいに、銀色の軌跡。


 風を切る音。

 殺意を孕んだ、一直線の剣筋が――


 俺の眼前へと、迫っていた。




ここまで読んでいただき、ありがとうございます!


次回は【明日19時】に更新予定です。


引き続き

モデリスク王国編 陰謀編を進めていきます!


ブックマーク・評価・リアクション、とても励みになります。

また次回もよろしくお願いします!

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