第6話 無能と呼ばれる子の衝動
燃え盛る村に着いた瞬間、肺に熱い空気が押し込まれた。煙が喉を焼き、目が痛む。
それでも――迷うことなく、俺は走った。目指すは村長トリストン=ハウスの家。リゼルの父であり、俺を預かってくれていた場所だ。
だが、その家は――見る影もなかった。半壊どころか、壁は崩れ、屋根は落ち、木片や瓦礫があたり一面に散乱している。火の手こそ回ってはいなかったが、荒れ果てたその光景は胸を締めつけるには十分だった。
「くっ……!!」
呼吸が荒くなる。
倒れた家具をかき分け、家の奥へと進んだ
その時――。
「んぐ……ぅ……っ!」
苦しげなうめき声が聞こえた。瞬間、身体が勝手に動いた。音のした方へ駆け寄ると、村長が巨大な棚の下敷きになって倒れていた。血まみれの腕で必死にそれを支えようとしているが、体は震え、今にも潰されそうだ。
「村長!!」
俺は叫びながら、棚に手をかざす。魔力がざらつくように流れ、空間がわずかに歪む。
―――転移
棚がかすかな光をまとい、ふっと消えた。
「だ、大丈夫か!?」
俺が肩へ手を伸ばした瞬間。村長は俺の腕を掴み、爪が食い込むほど強く締めつけた。
「……逃げろ……ッ! グレイ……逃げるんだ……!」
焦りと恐れが滲む揺らいだ視線。その眼差しの先にあるものを見た瞬間、村長の喉が凍りつく。
「やつだ……奴が……ッ!」
言葉が途切れる。
村長の目には――それが映っていた。
緑色の肌.....濁った黄色の瞳.......血の匂いに酔ったように歪む口元........そこからは、だらりと涎が垂れている。
ゴブリン――小鬼と呼ばれながらも、残忍で獰猛。人を襲い、奪い、嬲る。 その危険性を、俺は知識としてだけ知っていた。
だが、俺は想像を凌駕する恐ろしさ――その醜さに、思わず息を飲んだ。
その時、ゴブリンが甲高い叫びを上げ、俺の背へ跳びかかる。
「ッ――!」
爪が空気を裂く。血を求める獣の息がすぐそこまで迫る。
しかし――
「危ない!!」
村長が俺を突き飛ばした。世界が横に激しく回転する。
背中が瓦礫の床に叩きつけられ、肺の空気が一気に抜ける。耳鳴りがする中――村長の叫びと、ゴブリンの獣じみた嘶きが重なった。
目を開いた瞬間、心臓が凍りつく。
村長の身体に、緑の影が覆い被さっていた。その光景を見た俺は......俺の体は――思考より早く、無意識に動いていた。
村長へ覆いかぶさるゴブリンの横腹へ、全力で蹴りを叩き込む。鈍い衝撃とともに、ゴブリンの身体が転がり、床へ叩きつけられた。
「村長!!」
村長の息は荒く、血が滲んでいる。肩から腹部にかけて鋭い爪痕が刻まれていたが――深くはない。
命は、まだある――胸の奥を締めつけていた冷たさが、そっと緩んでいく。
「よかった……!」
安堵と同時に足が震えた。
生きている、それだけで涙が出そうになる。
だが――。
「キギギギギィィィ!!」
背筋を刺すような甲高い叫び声が家の中に響いた。振り返ると、さきほど蹴り飛ばしたゴブリンが立ち上がっていた。
黄ばんだ歯を剥き、血走った目を俺へ向けている。その手には、刃こぼれしたナタ。月明かりに照らされた刃が、不気味にギラリと光った。
まるで"次はお前の番だ"と告げるように.....。
俺は静かに立ち上がる。
喉がひりつくほど乾いている。だが、逃げるという選択肢は頭に浮かばなかった。
俺はゆっくりと腰に手を伸ばす。鞘から抜き放った鋼の剣が、かすかに震えた俺の手を照らす。
「……来いよ」
俺は確かに“無能力者”だ。だが、誰かにそう呼ばれても、そう扱われても関係ない。
守りたいものが目の前にある。
だから俺は、この剣を握ってきた。
ゴブリンが金切り声を上げ、ナタを振りかざして突進してくる。獣のような重い足音が、瓦礫の床を踏み砕いた。振り下ろされたナタを、俺は咄嗟に剣で受け止めた。
ガァンッ!!
骨を通して痺れが走るほどの衝撃。腕が吹き飛びそうなほどの力だった。気合いとともに力任せに弾き返し、空いた胴から首へ向けて剣を振り下ろす――だが。
浅い......いや......硬い!
刃がゴブリンの皮膚をかすめただけだった。薄い赤い線が引かれた程度で、致命傷には程遠い。
「キギャァァ!!」
すれ違いざま、ゴブリンのナタが俺の腕を切り裂いた。熱い血が飛び散り、痛みが一気に脳へ突き抜ける。
「くっ……!」
歯を噛みしめて傷口を押さえつけ、再び剣の柄をつかむ。震える指先が頼りなく揺れても、その握りだけは決して緩まなかった。
目を閉じると、父との稽古の光景が浮かんだ。
――剣だけを振り下ろすな。
――流れを見ろ、力の軸を掴め。
――恐怖を忘れるな。
父の声が、確かに耳の奥で響いた。
「……あぁ、分かってるよ、父さん」
目を開いた瞬間、再びゴブリンが突っ込んできた。さきほどよりも粗暴で、さきほどよりも速い。
だが、もう見える。
腕の軌道、足運び、首筋の力の流れ――。
「はぁぁぁッ!!」
俺は踏み込み、躊躇なく剣を振るった。
まず腕へ。
次に足へ。
最後に――首筋へ。
重たい衝撃とともに、ゴブリンの身体が硬直した。
一瞬の沈黙。
そして、ゆっくりと膝をつき、前のめりに崩れ落ちていく。
「……っは、っ……倒した……」
手が震え、呼吸が乱れる。胸の奥で暴れる心臓は、まだ戦いが終わったことを認めようとしていなかった。だが――確かに、目の前のゴブリンはもう動かない。緑の体躯は力なく崩れ落ち、床に広がる濃い血が、じわりと染みを広げていく。
喉の奥が乾き、何度も空気を飲み込んだ。俺は剣を地面に突き立て、震える胸元を押さえつけるようにして息を整えた。
「……っは……はぁ……!」
剣の柄には汗が伝い、掌はまだ熱を帯びている。自分が“命を奪った”という現実が、刃ではなく心臓に刺さってくるようだった。




