第2話 剣聖と呼ばれる英雄の子
ーーーーー
ーーーあれから、どれほどの時間が過ぎただろう。
夕暮れが村の外れを赤く染め始めたころ、玄関の扉がきしむ音とともに父が戻ってきた。
ただ――その顔つきは、いつもの穏やかな父ではなかった。険しく、何かを必死に押し隠しているような表情。
「おかえり! おとうさ……ん?」
声をかけた僕は、父のまとった重苦しい空気に気圧され、言葉の後半が喉でつかえた。父は応える暇も惜しむように家に入り、重厚な鎧を身にまとい始める。
金属がぶつかり合う乾いた音が、家の中に冷たく響く。剣帯に収めた鋼の刃が、光を受けて鈍くぎらついた。
「……どこか、行くの?」
震えを隠しきれない声で問うと、父は手を止め、ゆっくりとこちらを向いた。その眼差しには、不安と、迷いと、それでも進まなければならないという覚悟が入り混じっている。
そして父は一歩一歩、僕の前へと歩み寄った。
「王都の方で、急ぎの依頼があってな。冒険者として……行かなきゃならん」
その声には、隠しきれない焦燥が滲んでいた。父は戸棚から一本の剣を取り出し、慎重に僕へ差し出した。
日々の鍛錬で振り続けていた鋼の剣。父そのものと言える重さと気配を纏っている。
「グレイノース。これを、預かっていてほしい……俺は必ず帰ってくる」
手渡された剣は、思った以上に重かった。両腕が震えるほどの重みなのに、胸の中の不安がすっと消えていく。これは父の温もりや強さが詰まった重さなんだ、と自然に分かった。
だから僕は、迷わず頷いた。
「うん! まってる!」
その瞬間、外から低い声が響いた。
「マグナス! 支度は済んだか!」
村長トリストンの声だ。
父は短く息を吸い、返事を張り上げた。
「ああ、今行く!」
その声には、旅立つ者の決意が宿っていた。父は最後にもう一度僕の頭に手を置き、優しく髪をかき混ぜる。
「俺が戻るまでの間は、村長が面倒を見てくれる。困ったことがあったら、必ず頼れ……いいな?」
僕は剣を抱きしめたまま、大きく頷くしかできなかった。父は微笑み、そしてその笑みを隠すように背を向けた。
胸がざわめく。
嫌だ――言葉が喉まで込み上げるのに、声にならない。
父は扉へと向かい、そして、出ていった。その背を、ただ見送るなんて、できなかった。父を追うように、僕は衝動に駆られて外へ飛び出した。冷たい風が頬を打つ。夕暮れの村道には、異様な緊張感が満ちていた。
父はすでに村の外れへ向かって歩き出していた。
金色の鎧を纏った兵士たち、王都の精鋭だろう---数人が父の周囲を固めている。彼らの表情は固く、誰一人として笑っていない。
「おとうさん!!」
声が自然と張り上がった。
父が振り返る。
夕陽に照らされた父の影が、地面に長く伸びていく。
「いってらっしゃい!!」
僕の声は震えていた。だが父は、それを打ち消すように大きく、大きく手を振った。その姿が胸に焼き付くほど、力強くゆっくりと、しかし確かな足取りで父は進んでいく。
金色の鎧の兵たちと共に.....。
その背中が、二度と見られなくなるのではないか――そんな考えが、夕暮れの風よりも冷たく僕の胸を刺した。
そして――――
――――
――あれから1ヶ月
僕は今、村長の家に身を寄せて暮らしている。父が戻ってきたとき、強くなった自分を見せたくて、朝の薄明りの中、父から預かった剣を手に稽古をしていた。
「九十八!九十九!ひゃっくっ……!」
父から譲り受けた剣は重く、まだ小さな僕の腕では思うように操れない。だが、その重さが僕を押し上げるような気がして、振るうたびに心も体も熱を帯おびていく。
百回目の一振ひとふり――――
その重みで、剣は手から離れ、地面に深く突き刺さる。冷たい鉄の感触が手に走り、痺れが指先から腕にまで広がる。まるで父と稽古した日々の記憶が手の中で蘇るようだった。
そのとき、背後から元気いっぱいの声が響く。
「グレイ!!朝ごはんできたよー!」
声の主は、僕と同い年くらいの少女――名はリゼル=ハウス。村長であるトリストンの娘だ。
リゼルは、僕のことをグレイノースではなく、父が呼んでいた愛称と同じように"グレイ"と呼ぶ。最初は少し馴れ馴れしく感じたが、どこか懐かしく、嬉しい気持ちが胸に広がった。
台所の椅子に腰掛け、村長とリゼルと一緒に朝食をとる。朝日が差し込む窓辺に座りながら、香ばしいパンとシチューの香りに包まれていると、僕は少しだけ父のぬくもりを思い出す。
食事を終えると、僕はそそくさと裏庭に向かい、再び剣を握った。
その姿を村長とリゼルは心配そうに見送る。
リゼルは小さな声で父に尋ねた。
「お父さん……グレイって、いつもあんな感じだったの?」
村長はしばらく考え込む。
「稽古自体は日課だったようだが……あそこまで夢中になることはなかったな……」
沈黙が部屋を包む。
「マグナスが帰ってこないことが、彼の心に影響しているのかもしれんな」
リゼルは窓越しに、剣を振るう僕の姿を静かに見つめる。百回、二百回と繰り返すたびに、汗が額に滲み、息が荒くなる。
そんな中、切り株に腰掛けたリゼルの姿が目に入る。彼女は小さな体で、軽やかに座り、時折木の葉を撫でるように指を動かしながら、じっと僕の稽古を見守っている。そして少しずつ、声を張り上げて呼びかけてきた。
「ねぇ――?」
僕は額の汗を手でぬぐい、剣を振るいながらも無視した。
集中したい――。
今は一瞬も気を散らしたくない――。
「ねぇ――?」
再び声が響く。木々の間を抜ける朝の風が、リゼルの声を揺らし、少し高く跳ねる。
「ねぇーってば!!」
何度も響くその声に、僕は剣を地面に突き立てる。重みが木の根元に食い込み、振動が指先を通して伝わる。剣を握る手が一瞬だけぶるりと震え、イラ立ち混じりに振り向く。
「なんだよ……」
リゼルは笑みを浮かべ、その瞳は朝日にきらめく小さな宝石のようだった。
「なんでそんなに強くなりたいの?」
リゼルの声は、森を抜ける風のように軽やかで、それでいて心に突き刺さるものがあった。
僕は頭をかきむしり再び剣の柄を握り直す。胸の奥で小さくうずく不安を押し込めるように、言葉を絞り出した。
「おとうさんと一緒に、この村を守りたいから……」
口にした瞬間、剣の先に力が伝わる感覚が走る。
手首の震えも、息の荒さも、心の奥に湧き上がる決意の熱にかき消されるようだった。
父と過ごした日々、鍛錬の楽しさ、そして帰らぬ父への想い――それらが一気に僕の胸を満たす。その瞬間、リゼルの瞳がやわらかく光った。朝日を浴びて、金色に反射する瞳の奥には、好奇心と優しさが混ざった輝きがあった。
「かっこいいじゃん!」
その一言に、僕は少し照れ臭くなった。リゼルの真剣な表情に目を合わせられず、ただ黙って剣を振るう。剣を振るうたびに、僕の心には確かに温かい力が広がるのを感じた。リゼルの言葉はまるで呪文のように、僕の決意を後押ししてくれる――どんな困難が待ち受けていようとも、僕は父と共に、この村を守るために強くなる。
そのとき、ふとリゼルが切り株から身を乗り出し、少し心配そうな表情で口を開いた。
「でもね……」
その声には、優しさと微かな諭すような響きがあった。
「やりすぎると、逆に体を痛めちゃうよ?」
不思議だった。
その言葉を聞いた瞬間、まるで父の声を思い出したかのように、体の力がするりと抜け、無意識のうちに素振りを止めていた。汗で濡れた掌で剣を鞘に収めると、リゼルはにっこり笑い、不思議そうに僕を見つめる。
「やめちゃうの?」
少し意地悪そうに問いかけるリゼルに、僕はつい声を荒げて答えた。
「いいか!お前に言われたからじゃないからな!」
リゼルはクスクスと笑い、両手を腰に当てて少し誇らしげに言った。
「はいはい、わかったよー!」
そして、次の瞬間、リゼルはふわりと立ち上がり、僕の手を軽く掴んだ。
「さあさ、今日はお父さんがアップルパイを焼いたんだ。一緒に行こう!」
その手の温もりに、僕の胸を小さく跳ねた。
裏庭の風に運ばれた甘い香りが鼻をくすぐり、木漏日の中で二人の影が揺れる。
僕は少し照れながらも、その手を離さずに、静かに頷いた。
「……うん」
朝の光に包つつまれた裏庭を抜け、僕とリゼルは村長の家の中へと足を進めていた。
剣の重みはまだ腕に残っているが、心の奥には、ほんの少しだけ温かな安堵が広がっていた――朝の静かなひとときの余韻に浸りながら、リゼルの手を握りしめていた。
しかし――その静寂は突如、鋭い怒声によって引き裂かれた。
「帰ってくれ!!」
家の玄関口から響く声に、僕は思わず立ち止まる。聞き慣れない、緊張を孕んだ声が周囲の空気を震わした。




