第99話 意思なき刃
俺、グレイノース=リオンハーツは、ラナリア王国の王都アルセリオン――夜の帳が深く落ちた路地で、ひとりの存在と向かい合っていた。
紫色に変色した肌。
異様に血走った瞳孔。
口元から覗く、鋭く剥き出しになった牙。
噂に聞く“魔族”と酷似したその姿は、月明かりに照らされ、不気味な影を地面に落としている。
魔族は、低く喉を鳴らしながら、ゆっくりと――だが確実に、俺との距離を詰めてくる。
そして、次の瞬間。
「がぁぁぁぁぁぁ!!」
獣じみた咆哮が夜気を震わせた。魔族は両腕を大きく突き出し、そのまま一直線に俺へと突進してくる。理性を感じさせない、ただの衝動に任せた突撃。
――だが。
俺は冷静に一歩、体を横へと流す。
突進をやり過ごし、すれ違いざまに魔族の足元へと自分の足を引っ掛けた。
次の瞬間、バランスを崩した魔族は――
ドサッと、無様な音を立てて地面にうつ伏せで倒れ込んだ。
「……え……?」
あまりにも呆気ない。
俺の口から、思わず間の抜けた声が漏れる。
想像していた“魔族”の圧倒的な力、その片鱗すら感じられない。
だが、倒れ込んだ魔族は何事もなかったかのように、ゆっくりと起き上がった。そして、再び俺を捉え、濁った瞳で睨みつける。
次の瞬間、またしても一直線に突っ込んできた。
振るわれる拳は、右。続いて左。
そしてまた右、左――
単調で、読みやすい攻撃。
俺はその一つ一つを確実に視認し、体をわずかに動かすだけで回避する。
(これが……魔族……?)
拳には重みがなく、動きには洗練がない。足取りも覚束ず、まるで衰弱した獣のようだった。
魔族が左の拳を大きく振り抜いた、その瞬間――もつれた足が絡まり、バランスを崩した魔族は、今度は仰向けのまま地面に倒れ込む。
(まただ。あまりにも手応えがない。)
その事実に、胸の奥を嫌な違和感が走った。
――噂では。
魔族とは、知性を持ち、残虐で非道。膨大な魔力を宿し、人間を遥かに凌駕する存在だと。
それなのに――
(これじゃ……まるで……)
俺は倒れた魔族を見下ろしながら、言葉にならない疑念を抱く。
(……獣じゃないか……)
俺は、仰向けに倒れ込んだ魔族へと、ゆっくり歩み寄った。
月明かりに照らされたその顔は、苦しみに歪み、口元からは涎が垂れている。血走った瞳は焦点が定まらず、それでも必死に俺を捉えようとしていた。
俺は、幻装剣を静かに持ち上げる。
この一撃で終わらせる――そう、思った。
紫色の肌。
頭から伸びる角。
鋭く覗く牙。
それらを除けば、その姿は――どう見ても人間と変わらない。
(……魔族だ……)
頭では理解している。
魔族は人類の敵。
ここで止めなければ、被害は広がる。
なのに。
その表情が、あまりにも“苦しむ人間”のそれに見えてしまった。
(こいつは……魔族だ……人間の敵……なのに……)
剣を振り下ろす覚悟が、僅かに揺らぐ。
俺は一度、静かに瞼を閉じた。迷いを断ち切るように、深く息を吸い――そして、強く目を開く。
振り上げた剣の柄に、力を込めた、その瞬間。
――ザッ、ザッ、ザッ!
無数の足音が、夜の路地に響いた。
「待て!!!」
張り裂けるような声が、背後から叩きつけられる。
ライエルの声だ。
俺は反射的に振り返り、剣を下ろした。暗闇の中から駆け寄ってきたライエルは、息を切らしながら、倒れた魔族へと視線を向ける。
「まて……切るな……」
その言葉に、俺は思わず目を見開いた。
「なんでだ……?こいつは魔族だろ?」
ライエルは苦しむ魔族の顔を見て――耐えきれないように、視線を逸らした。
「いや……この魔族は……」
ライエルは一度、唇を噛み締める。そして、重く、重く、言葉を吐き出した。
「この魔族は……人間だ……」
――一瞬、世界が止まった。
喉が、からりと鳴る。
無意識に、生唾を飲み込んでいた。
「……人間……?」
理解が追いつかない。否定したいのに、否定できない。
ライエルは俺に視線を向け、夜の闇よりも静かな声で、続けて言葉を発した。
「ロナンからの報告でな……地下施設では、強化兵を作るための人体実験も行われていたそうだ……」
ライエルはそう言いながら、倒れ伏す“魔族”――いや、人間へと、やるせない視線を落とした。
「おそらく……この人は、その実験の被験者だ……」
その言葉は、夜気よりも冷たく胸に染み込んだ。
「被験者のほとんどが、洗脳され、自我を失っているらしい……」
ライエルは小さく息を吐くと、背後に控えていた騎士たちへと視線を送り、低い声で命じる。
「この人を……拘束しろ……」
苦渋を噛み締めるような声音だった。誰よりも彼自身が、この命令を下したくなかったのだろう。
数名の騎士が即座に動き、倒れていた“彼”へと駆け寄る。魔族の姿をしたその人間は、拘束されると理解した瞬間、獣のように暴れ始めた。
「が……ぁぁ……!」
意味を成さない呻き声を上げ、必死に抵抗する。だが、数の差は歴然だった。複数の騎士に押さえつけられ、手足を縛られ、地面に組み伏せられていく。
その光景を、俺は歯を食いしばりながら見ていた。
(……何が、正しいんだ……)
助けることもできず、斬ることもできず、ただ拘束するしかない現実。夜の路地に、重苦しい沈黙が漂う。
――その時だった。
コツ……コツ……
乾いた足音が、闇の奥から響いてきた。騎士たちも、俺も、ライエルも、一斉に音のした方へと視線を向ける。
月明かりの届かない暗がりの中から、男の声が静かに流れ出た。
「ああ……やっぱりな」
どこか愉快そうで、どこか冷めきった声音。
「戦う意志のない人間はダメだな。魔物の魔力に……簡単に意識を呑まれちまう……」
闇の中から、一人の男が姿を現す。
鋼の鎧を身に纏い、腰には剣。その歩みには迷いがなく、まるでこの光景を最初から予測していたかのようだった。
男は、拘束された“魔族”を一瞥した後、ゆっくりとライエルへ視線を移す。
「……お前が、この国最強の剣聖か?」
低く、静かな声でライエルが問いかける。その声音には挑発も恐れもなく、ただ事実を確かめるような重みだけがあった。
「君は……?」
問い返すライエルに、男は月明かりの下を踏みしめながら、一歩、また一歩と近づいてくる。
「俺か?」
男は淡々と、まるで雑談でもするかのように名を告げた。
「俺はカルバンの騎士――クラインだ」
その名を口にした瞬間、周囲の空気がわずかに軋む。
クラインは腰に携えた剣へと手を伸ばし、鞘からゆっくりと引き抜いた。月光を受けた刀身が鈍く光る。
「モデリスク王国のために……死んでもらう」
感情の起伏はない。それが使命であるかのような、あまりにも冷たい宣告だった。
剣を構えたクラインは、真正面からライエルを見据える。その佇まい、漂う魔力の圧。剣を握るだけで伝わってくる。
(――強い)
理屈ではなく、本能がそう告げていた。俺は身構えるように、腰に携える"幻装剣"の柄に手をかけた。
その瞬間、ライエルが静かに言葉を発した。
「グレイノース……」
俺は思わず動きを止める。
「君は騎士たちを連れて、街の人たちの救助に向かってくれ……」
ライエルの視線が、まっすぐ俺を射抜く。そこに迷いはなく、揺るぎない信頼だけがあった。
「魔族化した人間は、まだ他にもいるはずだ……」
一瞬の間。
「――頼んだぞ」
その言葉に、俺は強く頷き、ライエルに背を向ける。騎士たちもまた、ライエルに敬礼をし、俺の背を追うように共に夜の街へと駆け出した。走りながら、どうしても気になって、振り返る。
そこには――
俺の背中を見送るライエルの姿があった。腰の鞘から剣を抜き放ち、静かに、だが確かな覚悟をもって、クラインへと剣先を向けていた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
次回
第100話 魔人
【明日19時】に更新予定です。
引き続き
モデリスク王国 侵攻編を進めていきます!
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