第94話 囁き
試合で敗れた私は、宿舎の裏手――人の気配がほとんどない、木々の影が濃く落ちる通りを一人歩いていた。
月明かりすら届かない暗がり。足元で枯葉が踏み砕かれる音だけが、やけに大きく耳に残る。
――マギウスに、負けた。
その事実が、何度も何度も胸を締め付ける。
ただの敗北ではない。
思想で、理論で、信念で――否定された。
講師にも。
学友たちにも。
私は俯いたまま、夜道を彷徨うように歩き続ける。行き先など、考えていなかった。ただ、立ち止まることが出来なかった。
悔しい。
どうしてだ。
――私の方が、正しいはずなのに。
才能に恵まれただけの人間が、努力する者を見下す世界。そんな歪んだ価値観に、なぜ私が屈しなければならない。
私の魔導理論は、完璧だった。魔力を封じる魔法陣は、寸分の狂いもなく作動した。
事実として、マギウスの魔法は封じられた。
それなのに――
「……なぜだ……」
思わず、唇から零れた。
マギウスは魔術の才こそ卓越しているが、剣術に関しては素人同然のはずだった。講義を受けている姿も見たことがない。
それなのに。
あの動き。
あの剣捌き。
あり得ない。
「……誰が……」
問いが、自然と形になる。
「……誰が、あいつに剣術を教えた……?」
その瞬間、脳裏に浮かんだ顔があった。
――セリオディアン。
剣を極め、誰よりも戦場を知る男。
「……あいつか……」
喉の奥から、低い声が漏れる。
理解した瞬間、点と点が繋がっていく。
あいつらは、最初から結託していた。
私が魔力を封じることを見越し、その対策を講じていたのだ。
――私を、蹴落とすために。
「……なぜだ……」
問いは、やがて呻きへと変わる。
「なぜ……私が、こんな目に……」
マギウスの、あの表情が脳裏に焼き付く。勝利を確信した、あの穏やかな笑み。
それを思い出すだけで、内臓が煮えくり返るようだった。
(……そうか)
昨晩の出来事が、今になって意味を持つ。
(マギウスが、私の研究を否定しに来たのも……)
――私を、王にさせたくないからだ。
(セリオディアンが、あいつに協力した理由も……)
簡単だ。
私が王になれば、彼らの理想は壊れる。
だから、最初から排除するつもりだった。
その確信が、怒りへと変わり、胸の奥で激しく燃え上がる。
「……ふざけるな……!」
気がつけば、歯を食いしばっていた。
――ブチッ。
嫌な感触。
唇が切れ、温かい血が滲む。だが、その痛みすら、今の私にはどうでもよかった。
脳裏に浮かぶ、もう一つの顔。
エルディオン。
あの時の視線。
哀れむようでいて、どこか――勝ち誇っているように見えた表情。
「……違う……」
吐き出すように、言葉が零れる。
「あんな……学問だけの男より……」
拳を強く握りしめる。胸の奥で、何かが音を立てて、確実に壊れていくのを感じながら。
私は、暗い木立の中を、さらに深く歩いていった。
「……私の方が、王に向いているはずだろ……」
吐き出すように零れた私の声は、夜の冷たい空気に溶け込み、宿舎裏の木々が作る深い闇の中へと静かに吸い込まれていった。
返事など、あるはずがない。ただの独り言だ。そう思っていた。
――その時だった。
コツ、コツ、と。
乾いた足音が、背後から近づいてくる。
規則正しく、迷いのない歩調。
反射的に、背筋が強張る。
そして、闇の奥から、低く落ち着いた声が囁くように響いた。
「……私も……そう思いますよ……」
心臓が、跳ね上がった。
「……っ!」
驚きに振り向いた私の視界に、月明かりを背にした一人の男の姿が浮かび上がる。
――見覚えがある。
確かに、どこかで見たことがある顔。
だが、それが“いつ”で、“どこ”だったのかが、どうしても思い出せない。
記憶の縁をなぞるように視線を凝らす私を見て、男は一歩、闇の中から踏み出した。
「私も……あなたの方が、王に相応しいと思っています」
その言葉は、静かで、しかし妙に芯があった。
「理想だけを語る兄よりも……現実を見据え、変革を恐れないあなたの方が」
胸の奥が、きゅっと締め付けられる。
――肯定された。
たったそれだけのことなのに、今まで胸に溜まっていた澱が、すっと洗い流されるような感覚があった。
私は、気づけば口を開いていた。
「……お前も……そう思うか?」
縋るような響きが、自分の声に混じっているのが分かる。
男は、ゆっくりと微笑んだ。
柔らかく、包み込むような――安心感を与える笑み。
「はい」
即答だった。
「あなたの考え方は、これから訪れる新しい時代そのものです。古い価値観に縛られた者には、決して辿り着けない境地だ」
その言葉に、胸が熱くなる。だが同時に、現実が脳裏をかすめ、私は小さく息を吐いて肩を落とした。
「……だが……」
視線を地面に落とし、低く呟く。
「父上は……既に、兄を王に就かせるつもりだ」
それは、覆しようのない事実。
どれほど理論を積み上げても、どれほど成果を示しても――血と立場がすべてを決める。
だが、男は違った。
くすり、と喉を鳴らし、まるで取るに足らないことだと言わんばかりに笑う。
「……それが、どうしたと言うんですか?」
あまりにも自然な言い方に、私は思わず顔を上げた。
「王に"なれない"なら……」
男は一歩近づき、私の目をまっすぐに見据える。
「あなたが、“エルディオン”になればいいだけの話じゃないですか」
言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。
「……私が……?」
喉が、ひくりと鳴る。
男は、その反応を待っていたかのように、口角を吊り上げた。先ほどまでの柔らかな笑みとは違う――どこか愉悦を含んだ、不敵な笑み。
闇の中で、その笑顔だけが、やけに鮮明に浮かび上がっていた。
「……ええ…………」
男のその言葉は、耳に残るというよりも、胸の奥へと静かに沈み込んでいった。否定する理由が、どこにも見当たらなかった。
私は視線を落とし、地面を見つめながら考える。
(そうか……私自身が、エルディオンに……成れば……)
その発想は、本来なら即座に振り払うべきものだったはずだ。だが、その夜の私の心は、あまりにも疲弊し、追い詰められていた。
胸の奥で、何かが――ゆっくりと、しかし確実に渦を巻き始める。それは怒りか、焦りか、それとも救いを求める願望か。
自分でも判別できない感情が、形を持ち始めていた。
「あとは……あなたの意思次第…………」
男の声は、闇に溶けるように、次第に薄れていく。まるで最初から、そこに存在していなかったかのように。
はっとして、私は俯いていた顔を勢いよく上げた。
「……っ!」
だが、そこには――誰もいなかった。
宿舎裏の木々は、ただ静かに揺れているだけ。足音も、気配も、すでに消え失せている。
"あの男"は誰だったのか。
そんな疑問は、驚くほど簡単に、私の意識から滑り落ちていった。
それよりも――裏通りに一人立ち尽くす私の内側で、確実に何かが動き始めたことだけが、はっきりと分かっていた。
――
―――
――――今になって思えば。
彼らは……こうなることを、どこかで予見していたのかもしれない。
なぜ、あの時、忠告に耳を傾けなかったのか。
なぜ、立ち止まることができなかったのか。
だが――
今となっては、もう遅い。
全てを飲み込むような、底知れぬ暗闇。その中心に、かすかに、ほんのわずかに光る“何か”が見えた。
縋るように、私はその光へと手を伸ばす。導かれるように、引き寄せられるように――ゆっくりと、目を開いた。
視界に飛び込んできたのは、鎧に身を包んだ見知らぬ騎士の姿だった。
彼は無言のまま、私の傷を塞ぐように治癒魔術を施している。
柔らかな光が、胸元を包み込む。
その瞬間、理解した。
私は――玉座の間の冷たい床に、倒れ伏していたのだ。
(……そうか……)
胸の奥で、静かに納得する。
(私は……あの少年に……敗れたのか…………)
過去と現在が、静かに重なり合う。
選択の果てに辿り着いた、この場所で――私はただ、天井を見つめていた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
明日から新章開幕です!
第7章 モデリスク王国 侵攻編
次回
第95話 不穏な来訪
【明日19時】に更新予定です。
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