表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
午前五時の生存者――五時ちょうどに、生きているのが一人だけなら——救助が来る。  作者: 妙原奇天


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/13

第8話 背中

 四時の手前、由衣巫子の低音囮は、校舎の骨を震わせるほどに膨らんでいた。共鳴箱の空洞が波を孕み、壁の裏で太い心音が産まれては渡り廊下の梁を伝って折り返す。北翼に張り付いていた守備班は、音源探索の名のもとに散った。足が音の方角へ勝手に一歩出る。出た足に従って視線が滑る。視線が滑れば、そこに隙ができる。隙は、呼吸の浅さに比例して大きくなる。


 春日透は、比良木拓、相沢凛、小鷹海、三上陽菜とともに南階段から職員室へ回り込んだ。階段の踊り場の赤い点は息を忘れかけては思い出し、踊り場の壁に貼った動線マップの角を薄く湿らせる。扉の前で一度だけ互いの肩を目で叩き、凛が取っ手に手をかけた。冷たい。手の平の皮膚が滑る予感に身構え、凛は少し腰を落としてから押した。


 開いた一瞬、暗闇の底から影が跳ねた。机の下から、教頭・鵜飼が飛び出した。頬に消火器の粉がまだ残り、額の汗に白が泥のように貼り付いている。彼の手には鍵束。カラビナは外され、リングが二重に噛み合った不格好な塊になっていた。鵜飼は目を合わせないまま、背中をこちらに向けて走り出す。背中には、濡れた布のしわが波板のように重なっていた。逃げるという行為を、背中そのものでやっている。


「止まりなさい!」

 凛の声は短く高く、しかし躊躇がなかった。鵜飼は振り返らず、扉へ体当たりした。古い戸車が悲鳴を上げ、扉が渡り廊下側へ跳ねる。雨の壁が開いている。波板の向こうで黒い水が叩きつけられ、渡り廊下の床には薄い水膜が新しい皮膚のように伸びていた。鵜飼はその上を踏む要領を知っているかのように滑るように走り、鍵束が腰で鳴る鈍い音だけが一定だった。


「鍵!」

 凛が追う。雨の筋が風で内側に吸い込まれ、二人の間に罰線のように走る。凛の足は油膜の記憶を踏まえ、重心を横に逃がしながらじりじりと加速した。彼女の手が鵜飼の背中へ伸びる。背中の布の波が一瞬だけ凪いだ。指先が触れる。触れた勢いで鍵束がぶつかり、弾けた。金属の板が雨の皮膚を叩いて転がり、廊下に散る。


 透は前屈みになって、転がる鍵を掻き集めた。濡れた金属は掌の熱で少しだけ人間に近づく。リングから切り離されてしまった鍵のいくつかは、机の縁やロッカーの裏に吸い付くように止まり、別の一つは渡り廊下の横木の隙間に角を引っかけた。透は雑巾で巻いた足で踏ん張り、片手で鍵を掴み、片手で別の鍵をポケットへ押し込む。鉄の冷たさが深爪の際に触れる感触だけが、現実だ。


「中を見る」

 比良木が職員室へ戻り、機器の背面へ身を沈めた。テープで留められた束線の上を指で撫で、サービスマニュアルと見比べる。紙は古く、角が少し丸まり、触れると粉が出る。彼はページの狙った場所に指を落とし、声をきわめて低くした。

「五時ちょうどの瞬間、“心拍一名”でなければ送信ロックがかかる。再送不可。……一発勝負だ」

 言葉の端が紙に染み込んで消え、意味だけが室内を冷やした。凛の肩の筋が一瞬、固い線になったのがわかる。


 渡り廊下の先で、鵜飼が足をもつれさせた。雨で濡れた波板が風に鳴り、彼の靴底が音に釣られて角度を誤る。凛は距離を詰め、肩でぶつかる寸前に速度を落とし、鵜飼の腕の肘より下に手を入れて捻った。力ではなく角度だ。鵜飼は短く呻き、半ば無意識に言葉を吐いた。

「救助なんか——来やしない」

 凛の手が止まる。止めたのは彼女の意志ではなく、言葉だった。

「外部から遮断を作動させたのは、俺だ。理事長の話だ。建設会社の談合が露見しかけた。“暴徒化”をでっち上げて保険金を——」

 最後まで言わせなかったのは、凛の怒りではない。鵜飼自身の卑怯な反射だった。彼は体を翻し、壁裏の共鳴箱へ足を振り抜いた。木の甲高い悲鳴が一度だけ鳴り、低音は切れた。校舎の骨が急に沈黙し、北翼に散っていた守備班の耳が空白を拾い上げたはずだ。空白は合図だ。戻れ、の命令を内側から出す。


 背後から走ってきた透は、凛の肩越しに加速し、そのまま鵜飼の腰にタックルを入れた。雨で滑る床が足を奪い、二人まとめて倒れる。その瞬間、透は無意識に鵜飼の頭を手の甲で庇っていた。憎悪は骨を砕くが、現実に骨が砕けた音を聞くのを自分の耳が拒む。倒れ込んだ位置は、渡り廊下の欄干の陰。赤い点の呼吸が届きにくい暗がりだ。海が追いつき、結束バンドを取り出して手際よく鵜飼の手首を縛る。彼女の指は震えているように見えて、機械のように確実だった。


 海は拘束の後、鵜飼のポケットを探った。出てきたのはガムテープの芯。唇の跡が薄く残り、唾の乾きが紙を不規則に波立たせている。もう一方のポケットにはニトリル手袋。サイズはL。陽菜が駆け寄り、目だけで「撮る」と言ってシャッターを切った。彼女は手袋の袋の端のシリアルを指でなぞる。体育用具庫から消えた箱と一致。しかし、動線マップに残っていた繊維は、明らかにM相当の太さだった。

「供給者だ」

 比良木が短く言う。職員室から戻った顔は紙の色を吸って白い。「設計者ではない。罠の素材を流し続けた手。物資と鍵のハブ」

 凛は吐き捨てるように肩で笑った。「大人のために、私たちが互いを見捨てるゲームをさせられているのね。保険金のための“暴徒”。暴徒役の子ども」

 その言葉は、彼女自身の胸の内側にも刃として返った。彼女の案は、子どもを“代表”に指名するものだった。刃は一度鞘に入れ、次に抜くとき、前よりも冷たい。


 透は鍵束をポケットに押し込みながら、比良木と目を合わせた。五時の条件。心拍一名。閾値。低体温。迷走神経反射。蘇生の可逆。紙に書ける言葉はいくつもあるが、紙に書けない痛みの重さは、一つの塊にまとまって喉へ下りた。

「本当にやるのか」

 透の声は自分のものに聞こえない。

「やるなら、全員で」

 比良木の返事は感情の体温がない。「やめるなら、今。二度目の手はない」

「倫理を踏み抜く」

 海が静かに言う。彼女の前髪に雨の雫が残り、濡れた端が頬に触れる。「救命の手順で“死亡判定”をすり抜けるなんて、言葉の順番を入れ替えているだけに見えて、実際は全然違う。やり方を選ぶ時点で、誰かを捨てる前提に立っている」

「誰も捨てないために、選ぶ」

 透は自分に言い聞かせるように、しかし凛を見ずに呟いた。

「選ぶこと自体が、捨てることの別名だ」

 海の声は乾いていた。


 四時の点呼。スピーカーは、足下の水膜を薄く震わせながら、機械の喉で読み上げた。新たな死亡、なし。続いて別の音。短く高い、注意喚起のベル。講堂倉庫、重篤者のSpO2が危険域。凛はわずかに顔色を変えたが、表情を支配した。共鳴箱が沈黙しているためか、彼女の声は廊下によく通った。

「投票を行う。場所は図書準備室」

 陽菜はすでに掲示を用意しており、紙箱に切り込みを入れて選挙箱代わりに置いた。由衣は布を何枚か抱え、開票時の音の遮蔽に使う準備をする。布の端が濡れて重く、彼女の腕に重心の移動を教え込む。公平な手順は整っている。だが、手順の公平と、心の公平は別物だ。恐怖は選好を歪める。歪んだ選好が紙に定着し、紙が壁に貼られ、壁が人を動かす。


「投票の結果で、人が死ぬ」

 透は言い切った。言い切ることでしか、自分の内側の揺れを止められない。凛は透を見なかった。透も凛を見なかった。二人とも、紙を見た。紙は、夜の刃にはならないが、朝の刃を呼ぶ。呼ばれた刃に触れる手は、まだ選ばれていない。


 図書準備室の内側は、紙と布とホコリの匂いが湿って混ざっていた。棚には蔵書カードの箱が整然と並び、カーテンは雨に合わせて微かに揺れる。机の上に置かれた紙箱は、遊びの小道具に見えなくもない。遊びのふりをした統治の装置。由衣は布の一枚を机の下に、もう一枚を扉の隙間に詰め、音の漏れを減らした。音は真実を連れて歩く。真実は音を嫌う。


 開票直前、由衣は布の重さを分配するために廊下へ出た。共鳴箱が沈黙している廊下は、音の輪郭が薄い。薄い輪郭の上に、別の音が乗る。彼女は、足音のない足音を感じた。床が呼吸するのと同じタイミングで、空気の密度がわずかに前に流れる。曲がり角の先、電灯の赤い呼吸が床の水膜を舐めるところに、素足の踵の湿った跡が並んでいた。小さい。足幅は狭い。歩幅は短い。雨の中で靴を脱いでいる。跡は二つ、三つで途切れ、次の瞬間には紙の上の線のように現れる。見える足跡を、見えない足がなぞる。


 由衣が無意識に布を胸に押し当てたとき、背後からシャッター音が一つ、薄く響いた。三上陽菜がカメラを構え、視線だけで頷いた。腕の角度、息の深さ、シャッターの切り方。彼女の身体の小さな動作が、記録の儀式として整っている。

「犯人は、靴を脱ぐ」

 陽菜は囁いた。囁きは言説ではなく、写真の説明だった。靴は目に見える説明責任の器だ。脱げば、責任は一瞬、宙に浮く。浮いた責任は、別の誰かの肩に落ちる。落ちた肩が沈む音は、耳で聞こえない。


 そのとき、校舎のずっと遠くで、鈴の音が鳴った。音楽室の打楽器の一つ、トライアングル。風で揺れるには重すぎる。鳴らした者がいる。三角形の金属は、三つの角に三種の余韻を持つ。最初の角で注意を引き、次の角で場所をずらし、最後の角で合図を閉じる。由衣の耳は、その三つ目の角の余韻が、図書準備室の方向で薄く消えるのを聞き分けた。


 投票の場を狙った何者かが、すぐそこまで来ている。


 凛は準備室の中で、紙箱の前に立っていた。彼女の足は濡れていない。渡り廊下の中央で消えた足跡は、どこからか別の足跡として戻ってきているはずだ。彼女は目を閉じ、開けた。閉じた間に、瞼の裏に、鵜飼の背中が映った。背中は、敗走の焦りではなく、体を前へ押し出す訓練を積んだ者の背中だった。押し出す背中は、後ろを振り返らないために存在する。振り返らない背中のために、こちらは前を見る。前を見る者同士の衝突が、今からここで起きる。


 透は、図書準備室の扉に背を預け、呼吸の回数を数えた。同期——五時に合わせる言葉——は、いまや合図よりも鎖に近い。鎖は、緩めると身体から落ち、締めると血を止める。ちょうどいいきつさにするには、指先に経験がいる。誰の経験で締める? 自分のか。凛のか。由衣のか。陽菜のか。海のか。比良木のか。あるいは、靴を脱いだ誰かのか。指は多く、きつさは一つだ。


 海は、講堂倉庫の重篤者の顔を思い浮かべていた。SpO2が危険域。数字は事実だが、事実は体温を持たない。体温は皮膚の上にしかない。彼女は手のひらを裏返し、結束バンドで擦れた自分の皮膚の浅い傷を見た。そこへ粉が入り、白く縁取られている。「治す権利」と口にした言葉が、喉から降りて胃の底で固まっている。固まりは、食べられない。


 比良木はサービスマニュアルのページを指の腹で押さえ、「再送不可」の活字のインクの濃さを確認した。インクの濃さは印刷所の偶然だ。偶然の濃さが、今夜の必然の濃さと同じに見える。彼はページを閉じ、紙の角で指を切らないように気をつけた。血は、紙に似合いすぎる。


 陽菜は、素足の踵の湿った跡を撮り終えると、その写真を小さくプリントしてテープで壁に貼った。壁は、ここでも面になり、人の目を集める。目が集まる場所へ、犯人は来る。来る者の足が、また素足であるなら、床の水膜は再び呼吸を映す。呼吸は、音よりも深く、紙よりも速く、壁よりも嘘がつけない。


 由衣は布を抱え直し、準備室の入口に戻って捲れを直した。布の端を扉の底に差し入れる指が、微かに震えた。トライアングルの余韻は、耳から消えても骨の中で鳴り続ける。骨が鳴っている間に、選挙箱の上の空気が薄く冷えた。冷えは、気配の先行指標だ。


 凛は紙箱の前で、わずかに俯いた。彼女の視界の隅で、透の影が薄く揺れる。揺れる影の後ろに、鵜飼の背中が透明に重なる。背中は、もうこちらを向かない。向かないものに対して、こちらが向くのをやめることはできない。彼女は唇の内側を噛み、血の味を舌に落とし、そして顔を上げた。声は短く、固く、透明だった。

「——投票を開始します」


 その宣言の直後、廊下の角から、足音のない足音が近づいてきた。素足の踵が床に触れる直前に、呼吸が一度だけ止まる音。止まった呼吸を、誰かが合図にする。合図は、声ではない。息だ。息は、水の罠に似ている。奪われやすく、戻りにくい。戻すために、こちらは紙を増やした。増やした紙が、今、風のない廊下で微かに鳴った。


 トライアングルの三つ目の角の残響が、ようやく完全に消えたとき、図書準備室の扉は、内側からではなく、外側から、音もなく撫でられた。撫でたのは指ではない。布だ。布の柔らかさが、扉の固さに触れ、固さの輪郭を奪う。輪郭を奪われたものは、存在の説明を失う。説明を失った扉は、ただの薄い板になる。その薄い板の向こうで、誰かの裸足が、立っている。


 透は、胸の奥で何かが折れる音を聞いた。折れたものは骨ではない。夜の中で自分が正しいと思い込むために立てていた仮説の骨組みだ。折れた拍子に、視界が少しだけ広がる。広がった視界には、凛の横顔と、陽菜のカメラと、海の結束バンドの切れ端と、比良木の閉じたマニュアルと、由衣の布の縁が、きれいに並んでいた。並びは地図を作る。地図は、出口ではない。地図は、背中を決める。


 彼らの背中は、もう、こちらを向かない背中に向いていた。向き合うために、背中を見せる。背中には、夜の汗が薄く張り付いている。汗の塩を舌の裏で思い出しながら、透は鍵束の一枚を強く握りしめた。鍵は扉の答えではない。鍵は、扉の問いを具体にする。問いは、次の瞬間、鳴らされるだろう。鈍い金属音ではなく、もっと柔らかい、息の合図で。


 準備室の中で、紙が重なり、箱が待ち、布が音を食べ、赤い点が呼吸を忘れかけ、また思い出す。渡り廊下の雨は相変わらず黒く、波板は肺の病のように鳴く。校舎全体が、ひとつの体であるかのように、策動と疼痛を繰り返している。


 扉の外の裸足が、一歩、前に出た。床の水膜に、踵の半月が新しく刻まれた。刻まれた形は、誰のものでもなく、同時に誰かそのものでもあった。誰もが、いま、自分の足音を奪われ、自分の呼吸で合図を受け取り、自分の背中で、誰かの手を待っている。


 朝はまだ遠い。けれど、五時は近い。近づくほどに、夜は濃く、色を増やしていく。色は音になり、音は息になり、息は言葉になる。言葉の順番を選び損なえば、誰かが落ちる。落ちないための順番を、紙に書いた。紙は濡れやすい。濡れた紙は重く、重くなった紙は、なぜか、よく切れる。切れた紙の端で、人は自分の指の皮を薄く削り、血の色を確かめる。確かめる行為は、迷いではない。迷いは、もうとっくに壁に貼られている。


 凛が、最初の一票を箱に落とした。紙が底で跳ね、音が布に吸われ、空気が薄く震えた。その震えが合図になって、扉の外の裸足が、二歩目を踏み込んだ。ここから先は、振り返らない背中のために、こちらが前を見る時間だ。前を見る者の背中を、誰かが必ず、狙っている。狙われている感覚が、むしろ姿勢を正す。背中に、夜の冷たさがまっすぐ降りてきた。背は、張るものだ。張った背の奥に、朝に向かう場所が、わずかにできる。


 四時は、完全に過ぎた。時計の針は、五時へ向かって、刻むふりをしたまま、夜の中で静かに止まりたがっている。止めないために、彼らは呼吸を合わせた。合わせる呼吸のすぐ側で、扉の内側の布が、ひどくやさしい音を立てて揺れた。やさしさは、夜では刃だ。刃の背中で、人は生き延びる。生き延びる間に、誰かが扉を撫でる。撫でられた扉は、扉のふりをしながら、罠のふりも忘れない。


 投票は、静かに始まった。静かであること自体が、もう、不穏だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ