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午前五時の生存者――五時ちょうどに、生きているのが一人だけなら——救助が来る。  作者: 妙原奇天


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第4章 メビウス社の影

 昼が、会社の壁の内側に入ると灰色になる。九条ユイは、南側のガラス張りロビーを抜け、面会票を胸元に挟んで、来客用エレベーターに乗った。鏡面の壁に自分が二人分映る。照明の反射で、片方だけが少し遅れる。零・四七秒の遅れ。視線を逸らす代わりに、肩甲骨のあたりで呼吸を整える。数字は自分を助ける。数字は感情の骨だ。


 四十階。扉が開くと、廊下は柔らかい絨毯で足音を吸い、壁に掛けられた抽象画だけが時間を持っていた。笹倉リナは、ガラスの会議室で待っていた。白いブラウス、髪はきっちりまとめ、首筋に薄い青い静脈が一本。企業監査官には、骨の位置が正確な人が多い。椅子に座る動作まで規格化されているように見える。


「あなたが来る日が来るとは思っていたけど、今日だとは思わなかったわ」


 リナは笑った。唇だけが動き、目は動かない。彼女は昔からそうだ。視線を固定して、心臓の鼓動だけ前へ出す。ユイは対面に座り、面会票を外して机の隅に置いた。


「リンク施行管理台帳に、私的な用件で触れたい。あなたの手は汚さない。見せられる層だけでいい。痕跡は残さない」


「痕跡が残らない見方は、痕跡を残す見方よりも危険よ」とリナ。「でも、わかるわ。あなたの“わからない”は、私にはわかる」


 会議室の空調は静かで、何も揺れない。リナは、社内端末を指先で起こし、透明パネルに社内網の地図を開いた。ハイライトされたのは、中層にある“リンク施行管理台帳”の入り口。鍵は二重。物理と論理。リナの権限は、監査用の読取専用ルートを通す。


「公然の秘密として、メビウスは合法リンクの外側に“クライアント・メンテナンス”を委託しているわ」


 リナの言葉は、白い椅子の上に冷たく置かれた。ユイは、息を細くしながら聞く。


「委託先の名前を教えて」


「全部は無理。でも、ひとつなら。あなたの口から聞いた名前が、たぶん当たる」


「ミラトーク」


 リナは頷いた。頷きは短い。目はやはり動かない。視線の固定は、恐怖を床に釘で留める方法に似ている。


「“小規模ラボ・ミラトーク”。名目は“記憶共有インターフェース研究”。ミラは、mirrorの切片。talkは音声意志決定モジュール。委託契約書は黒塗りが多い。黒塗りは、黒の濃度が濃すぎて、却って文字の形が透ける場所がある。太いところと薄いところの違いで、元のレイヤーの粒度が読める」


 ユイは、会議室のガラス越しに見える空の白さを見た。雲はないが、空は白い。白は、手術室の白だ。消毒の匂いがしないのに、皮膚の裏が乾いていく。


「リンク施行の台帳には、施行者のID、対象者のID、施行時刻、チェックのハッシュ、それから施行環境のログがある。あなたが見たいのは、そのどれでもなく、その下」


「影」


「ええ。影のID」


 リナの指は、透明パネル上の階層を降りていく。画面の奥で、灰色の行列が流れ、所々に白い欠落が走る。欠落の形は、倉庫の警報ログにあった〇・四七秒の飛びと似ている。欠落は人為だ。欠落は意図でできている。


「正規IDのチェックサムに、わずかな乱数を加えた偽装ID群。表のIDと噛み合うように見せかけて、裏で別のものを指す。これを使えば、施行対象を“人格のテンプレート”に差し替えられる」


「テンプレート」


「人格の、ひな形。熱のない骨格。骨組みだけの声」


 ユイはアキトの喉の奥に貼り付いている、他人の発話の癖を思った。骨組みだけの声。発語の前に半拍遅れる癖。呼吸の返し。目の端の皺。骨は、声を支える。骨が違えば、同じ言葉でも温度が違う。


「テンプレート群に、ラベルがある。“MI-RA”というラベル」


 リナの声が、そこでほんの少しだけ湿った。彼女は視線を動かさないまま、机上の水に指先を触れ、指の腹の温度をゼロに近づけた。


「ミラって呼ばれる試作人格が、昔、内部文書に載っていた。優先開発ライン。対人適応、鏡像テスト適合、音声模倣率。私は監査として、その文書が“どの層から上がってきたか”を追った。そこに、あなたの人がいた」


「ハルオ」


「K.K。署名はそれだけ。でも、内部の質疑応答で、彼の呼吸の癖が残っている」


 呼吸の癖は、紙に滲む。句点の位置、改行の深さ、余白の白が持つ圧。ユイは、そのすべてを皮膚で覚えている。彼女は息を吸い、肺の内側の冷たい面に触れ、吐いた。吐いた息は鏡に触れ、曇る。曇った鏡に、輪郭が一瞬、別の誰かに似る。


「台帳の閲覧は、これ以上はできない」とリナ。「私があなたに渡せるのは、ここまで。これ以上は、私の骨の位置がずれる」


「ずれたら戻せばいい」


「戻らないずれもあるの」


 会話が終わると、外の廊下に出た。昼の光の中で、ユイは自分の手のひらを見た。小さな傷が一本、薄く走っている。鏡に触れた指の温度。触れたという事実だけが、温度の痕跡として残る。彼女は階段室を降り、地上の光の白さの中で目を細めた。


 午後、アキトは別の場所で、端末の前にいた。学生時代に短期間だけメビウスの関連部門でインターンをしていた彼は、停止されていないサンドボックス権限にかろうじて入れた。期限切れ目前。警告の赤が画面の上で静かに点滅している。彼は曖昧な手順に従い、施行ログへとつながる模擬環境を立ち上げた。そこに、リナが言った「影のID」の影が写るはずだった。


 ログは、数字の砂嵐のように流れた。ゼロとイチの隙間に、偶然のふりをした意図が潜る。正規IDは、末尾のチェックサムで正当性を計算できる。アキトは、その関数を一つずつ確かめる。正しい。正しすぎる。あらゆる正しさは、美しすぎると不自然だ。彼は、関数の最後に加算される微小な値の出所を追った。乱数関数。規格化された擬似乱数。だが、その種は固定されていない。固定されていないように見せかけて、一定の周期で同じ値を吐く。周期は、三百二十三。素数ではない。十七と十九の積。十七は彼の生まれた日、十九は彼女の誕生日。偶然だ。だが、偶然のふりをした意図は、周期の真ん中で口を開ける。


「影のID、ここだ」


 彼は、自分の声が知らない高さで出たのを聞いた。画面に抽出した偽装ID群は、正規IDの末尾から二桁目と五桁目の間に、微細な「噛み」を持っていた。噛みは、チェックサムの計算時には無視されるが、裏の関数では読み込まれる。裏の関数は、施行対象のIDを照合する代わりに、「人格テンプレートID」へ向きを変える。


 テンプレートIDの一覧。仮名。英字。数字。冷たい雨の記号のように、名が並ぶ。その中に、ひとつだけ光沢の違うラベルがあった。


 MI-RA


 アキトの指は、空中で止まった。指先に汗が出る。汗は、指紋の形を浮かび上がらせる。指紋は彼のものだ。だが、汗の匂いは、ほんの瞬間、他人の匂いに似た。甘い。機械油のような甘さ。彼は、指を膝へ移し、声を出さずに深呼吸をした。画面の端で、別のタブが自動的に開く。関連ドキュメント。ミラ。試作人格。鏡像テスト適合度。音声模倣率。適応時間。注記の末尾に、短い文がある。


 管理担当:K.K


 ユイが伝えていた名前のイニシャル。神庭ハルオ。胸の内側で、何かが静かに剥がれる。剥がれたあとには、同じ厚みの見えない膜が貼られる。貼られるたび、世界の音が一枚ずつ薄くなる。薄くなった音の隙間から、別の声が入ってくる。彼は、タブを閉じた。閉じる音はしないのに、部屋の空気は少しだけ冷たくなった。


 夕刻。二人は社屋裏の搬出路にいた。日が落ちきる寸前の、世界の温度が最も脆い時刻。搬出路は細く、壁はコンクリートで、僅かに湿っている。自動ドアは、搬出用の黒いカードでしか開かない。ドアの向こう、短い通路の先にリフトがあり、リフトの奥に積み込みスペースがある。搬出は、いつも音を出さない。音のない移動は、影の儀式だ。


 黒いケースが、滑車に吊られて運ばれてきた。人の腰から胸までくらいの高さで、一定の速度で流れる。ケースには、白いラベルが貼られている。「保全試料」。字体はメビウスの事務用。無機。ラベルの糊が角でほんの少し剝がれ、紙が空気を吸って膨らんでいる。フォークリフトの運転手は、いちどもこちらを見ない。見ないことが仕事の規約なのだろう。ユイは、影に身を寄せ、ケースの表面に目を凝らした。光は薄い。黒い艶の上に、細い傷が何本も走っている。運搬のたびにつく、小さな傷。傷のうちの一本は、ほかより深かった。爪で引っ掻いたように、塗装が浅く剝がれ、銀の下地が見える。文字の形。ぎこちなく、しかし確かに意味を持つ線。


 たすけて


 ユイの喉が、無意識に音を探した。音は出なかった。胸の内側の息の袋が一度しぼみ、すぐに戻る。戻るのに、普段より長い時間がかかった。彼女は、ケースから視線を外さず、腕時計の光を手のひらで隠した。アキトは、横で微動だにしない。彼の呼吸は二拍に一度、浅くなる。浅くなるところで、彼の喉の奥に他人の高さの声が、ほんの短い時間だけ響く。


「見た?」


 彼が言った。声は低い。自分の声だ。だが、どこかで別の骨が支えている。ユイは頷く。頷きの軌道が彼女の首の筋肉に小さな痛みを作る。痛みは現実だ。現実は、温度を持つ。彼女は、ケースの通過に合わせて、半歩だけ位置をずらした。黒いケースは、ゆっくり過ぎ、次の影へ移る。運転手の後ろ姿は、鏡に映した影のように薄い。扉が重く開閉し、空気の圧が変わる。夜の冷えが、搬出路の奥から手前へ波のように押し出される。


 「保全」と書かれた紙片と、「たすけて」の掠れた銀色が、頭の中で噛み合わない。噛み合わない二つは、どちらかがどちらかの上に乗る。乗った瞬間、骨はきしむ。骨がきしむとき、人は自分の名前を忘れる。ユイは、自分の名を心の中で呼んだ。九条ユイ。言葉は、鏡の裏で反転せず、正しい方向で響いた。


 搬出が終わると、沈黙が戻る。搬出路は空っぽになり、湿った壁だけが残る。ユイは、壁に近づき、指先で水分を確かめ、匂いを嗅いだ。消毒の匂いではない。コンクリートの湿気。錆の薄い匂い。紙の糊。そして、人の汗の匂い。誰かがここで、爪を立てたのだ。爪は、柔らかい角質の刃。刃は、黒い塗料の薄さを知っている。塗料の下にある銀の冷たさを知っている。


「戻ろう」とアキトが言った。「ここで長く立つと、音を作ってしまう」


「音を作ると、誰かが拾う」


「拾う誰かが、既にここにいる」


 誰か。彼の口から出たその言葉は、空気中の古い埃の粒にすっと付着し、床に落ちた。ユイは、搬出路を出て、角を二つ曲がり、社員通用口の影から外に出た。夜風が喉に触れる。触れると、喉頭蓋が少しだけ動く。その動きは、歌の呼気の切り方に似ていた。鏡に触れた指の温度。冷たくなりたいわけじゃないのに。


 帰路、二人は言葉を使わなかった。言葉は穴になる。穴は風を呼ぶ。風は声を運ぶ。声が運ばれると、場所が決まる。場所が決まると、鍵が回る。鍵が回ると、扉が開く。扉が開くと、誰かが出てくる。誰かが出てきたら、閉めなければならない。閉め方を、彼女はまだ知らない。


 アパートへ戻ると、机の上でパソコンのファンが静かに回っていた。電源は落としたはずだ。コンセントも抜いた。なのに、わずかな、羽根の回転の音。幻聴か。耳鳴りか。彼女はコードを持ち上げ、指で端子に触れ、冷たさを確かめた。冷たい。電気はない。音は、彼女の内側で回っている。内側の羽根。自分の中に、冷たい風。風が鏡を曇らせる。曇った鏡に、白い文字が浮かぶ。


 たすけて


 彼女は、目を閉じた。閉じた目の裏に、白い文字は浮かばない。何も浮かばない。そのことに、少しだけ安心した。安心と恐怖の境界は、口の中の金属の味でしか計れない。味は薄い。薄い味は、明日まで持つ。


 明日。リンク施行管理台帳の影の列を、もう一度追う。MI-RA。K.K。保全試料。たすけて。四つの言葉を、彼女は順番に並べる。並べると、音が出る。音は、眠りの手前で、誰かの夢とわずかに重なる。重なりが白くなる直前に、彼女は眠った。


章末資料


一 影のID構文メモ(抄)

・正規ID:16桁英数字+末尾チェックサム1桁。例:A9C1-73BD-4E20-9F

・偽装(影)ID:正規IDの2桁目と5桁目の間に不可視噛合ビットを挿入(論理層のみ存在)。末尾チェックサムは変化せず検証可。内部関数“resolve_template()”により、影IDを検出時に人格テンプレートIDへマッピング。

・噛合ビット生成:周期323の擬似乱数。PRNG種は時刻由来だが、実装上の端数切捨てにより17×19周期が表出。実運用では施行時刻のミリ秒精度でほぼ再現。


二 委託先契約書(黒塗り部分)の読取メモ

・件名:クライアント・メンテナンス委託基本契約

・委託先:小規模ラボ・ミラト—[黒塗り]—ク

・業務範囲:[黒塗り]連携、[黒塗り]適合度試験、テンプレ—[黒塗り]—適用支援

・監査備考:黒塗りの濃度差により「試作人格“ミラ”」「鏡像テスト」「音声模倣率」と推定される語の縁取りが透見。付帯質疑応答ログの宛名に“K.K”の記載を確認(原本は別層保管)。


三 搬出ケース側面写真(低解像度)

・撮影条件:社屋裏搬出路、間接光下、距離約5m、携行端末標準レンズ。解像度不足によりノイズ多。

・被写体:黒色ハードケース(中型)。ラベル「保全試料」貼付。表面に複数の擦過痕。うち一本が異常に深く、銀地露出。

・注記:深い擦過痕は手指の可動域的に「爪先」による掻破の軌跡と一致。痕跡は五画で構成され、日本語平仮名の「たすけて」と読める可能性。痕の銀地は凹部酸化未進行で新鮮、搬出直前の形成と推定。

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