表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
午前五時の生存者――五時ちょうどに、生きているのが一人だけなら——救助が来る。  作者: 妙原奇天


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/13

第7話 水の罠

 二時を越えた被服室は、糸と紙と人いきれの匂いでぬるく満ちていた。窓の向こうでは黒い雨が壁のように立ち、予備灯の赤い呼吸が生地の反射を少しずつ濃くしたり薄くしたりしている。小鷹海は、脱脂綿を薄く裂き、包帯の端に折りたたんでから患者の手の甲に巻き当てた。結び目は作らない。テープで斜めに落とす。皮膚の呼吸を奪わないためだ。それは癖であり、祈りに近かった。

「水が減るのが早すぎる」

 春日透が、耳の軟骨に囁きを触れさせるみたいに近づいて言った。肌寒さで唇の色は浅く、言葉はひそひそ声のふりをした硬さを持っている。

「さっき満たしたばかりのポリタンク、二つとも半分以下。誰かが飲んだ、には早い。分けた量とも合わない」

「蒸発はしない。この温度で」

 海は包帯の端を押さえた。指先が冷えに慣れつつある。「蛇口、見る?」

「理科室と調理室。順番に」

 被服室の外は一段暗く、赤い点の呼吸をひとつ見損なうと、廊下の端で足をすくわれる。透は雑巾を二枚、帯状に裂いて自分の両靴の甲に巻き、海にも同じものを渡した。「滑り止め。油膜が残っているところがある」

「罠の学習?」

「学習でも、反復でも。どっちでもいい」


 調理室のドアは重く、取っ手に湿った冷たさが張り付いていた。中は空気が澱んでいる。ガス台の上の寸胴鍋に、浅く水が張られていた。上澄みは静かで、表面張力の皮膚がわずかに光る。透はゴム手袋をはめ、鍋を持ち上げ、傾けて光の角度を変えた。薄い虹が、呼吸と同じ周期で震える。洗剤の薄膜だ。匂いはほとんどない。嗅覚は疲労で鈍っていて、味覚だけが予告の鋭さを保っているような状況だ。

「微量。でも、弱った体には効く」

 透が言い、海が水面を指先で撫で、気泡の消え方を見た。「嘔吐と脱水。ここで止まる量。致死は狙わない。倒して運ぶための量」

 鍋の縁には、乾いた白い筋が斜めに走っていた。洗剤の線。誰かが容器を同じ角度で二度、三度傾けた痕だ。均整は、親切の顔をしている。均整があると、つけた本人の手癖が消える。

「誰かが『戦闘不能』をばら撒いて、拘束する段取りを進めてる」

 透は鍋を流しにひっくり返した。水は蛇口の金属に叩き付けられ、虹は崩れ、流しの網に泡の汚れが薄く溜まる。蛇口の根元から古いゴムパッキンの匂いが上がった。彼は蛇口をしつこく、腕が熱を持つまで洗い続け、最後に湯で流した。湯の温度は心を甘やかすが、ここではその甘さが毒だ。温められた筋肉は眠りを招き、眠りは計画に組み込まれる。


「給水の導線、替えよう」

 透は言うと、紙コップのタワーを胸に抱え、海と被服室へ走った。「各自に手渡し。一杯ずつ。必ず目の前で汲む。ポリタンクは見える場所に置く。量の帳尻は壁に記録」

「配給を——」

 凛の声が、廊下の角から飛んだ。身体ごと滑り込んで来る。「配給は投票管理に統合すべき。資源と手続きは同じ地図に載せないと、偽装の余地が増える」

「医療を政治の飾りにしないで」

 海は即座に返した。声は荒れており、眠気と罪の混合物が喉の奥で反射している。「でも、薬は底。譲れる。条件はふたつ。配給のレーンに“医療の目”を置くこと。もうひとつは——」

「『剥がせない札』は使わない」

 凛が先に言った。海がうなずく。譲歩は、屈服ではない。夜における譲歩は、血の循環に似ている。止めたら死ぬ。流し過ぎても死ぬ。量を計る手は、震える。


 三上陽菜のボードは、また別の層を得ていた。油膜の縁に、ごく短い繊維が数本、貼り付いている。それは液体の光沢の上に、浮遊する灰色の微小な線で、赤い点が呼吸するたびに色を変える。陽菜はピンセットでその一本を拾い、透明の袋に移し、写真の横に小さな付箋を貼った。体育用具庫のニトリル手袋。箱が一つ、なくなっていた。繊維の太さは細い。笠松のジャージの袖口も灰色だが、太さが違う。疑いは方向を変え、しかし薄い。犯人は、見た目ではなく触覚を残すタイプ。触覚はここにしか残らないという、見えない自負があるのだろう。

「触った、という痕跡。掴んだ、ではなく、触れ続けた」

 陽菜の言い方は、語尾にかけて温度が下がる。記録の声が、定義を選ぶ。「だから、タオルや、ゴム、手袋を通す。残すのは微細な繊維と、粘着の端。直接の指紋は嫌う」


 由衣巫子は、音楽室から共鳴箱を抱えてきた。木製の箱は、その体積の割に軽く、空洞は音のためにある、と告げているように乾いている。彼女は渡り廊下の壁裏に手を入れ、金属と石膏の間のわずかな空間に箱を押し当て、メトロノームの針を揺らした。最初の一打ちは、校舎の弦全体を弾くように低く回り、北翼の床下から心臓の音がせり上がってくる錯覚をつくった。鼓動のような低音が校舎全体に巡り、耳の中で迷子になった。

「敵は近い、って錯覚してくれるかな」

 由衣が自分へ笑う。錯覚は、相手への贈り物でもある。「少しの間だけ、職員室の守りは薄くなる」

 それを合図に、透と比良木が職員室へ向かった。凛は配給の列を整理し、海は紙コップと体温の列を整える。陽菜はボードを被服室の外壁に移し、見える目の数を増やす。笠松は用具庫と講堂の間に立って、右肩の痛みを眉でならし、柴田は無線の前で視線を動かす。誰もが動線に乗り、同時に、誰もがどこかで線から落ちていた。


 職員室。机の列、散らかった書類の匂い、古い電気の薄い熱。無線機の横に並ぶ黒いユニットに、比良木は耳を近づけ、呼吸を浅くした。紙に写した配線図の線と、本物の線が一致していく。センサーのボックスの裏に刻まれた規格番号。彼はその数字を口の中で反芻し、古い医療器材の規格を拾い出した。

「送信装置が拾う脈拍は……三十から四十の範囲では“生存”として判定されない可能性が高い」

 囁きは電圧の低い光だった。「つまり、全員の心拍を短時間、閾値の下に落とす。ひとりだけ四十台で維持。理屈上は、心拍一名」

「迷走神経反射。冷却。圧迫。眠りの淵に指を入れて、引き戻すタイミングの綱渡り」

 透は自分の指の長さを初めて気にした。短すぎないか。冷たすぎないか。彼は右手の甲の筋を伸ばし伸ばししながら、声に出した。「海の言う通り、これは逆用だ。でも、やる価値がある」

「価値と成功率は、別の言語だ」

 比良木はセンサーのランプの微かな点滅に目を合わせ、呼吸をひとつ浮かせた。「やるなら、動作の順を紙に起こす。紙に起こして、紙ごと誰かに持たせる。紙が倒れたら、やめる」


 由衣の低音は一定を極細に揺らし続け、北翼にいる者の耳を奪った。守備班の二人が渡り廊下を振り返る。足が一歩、今いない者の方向へ出る。その瞬間が隙だった。だが隙を見つける者はひとりではない。すぐに、廊下の別の角から守備班が戻って来る足音がした。粉塵の名残がまだ床に薄く、そこへ洗剤の水が再び撒かれた。曇った光が一斉に滲む。


「滑る!」

 透の声に、比良木の手が机の角を離れた。油膜が薄く広がり、床面の皮膚が作り直される。だが今回は、透の足に巻いた雑巾の帯が、摩擦を作った。布の繊維が油の薄膜の上で嚙み、足は限界の少し手前で止まる。後ろにいた二人は滑り、肘と膝を床に打ったが、頭を守った。守られた頭は、まだ考えが続けられる。

「バカ力で押すな。横へ。横へ重心」

 透は人の肩を支え、壁へ体を逃がさせた。床の上ではなく、壁の上で転ぶ。それでも骨の角度は守れる。罠の学習は、初等教育より速い。痛みは教師だ。


 三時の点呼。自動音声は、直前の混乱を知らないままの声で、「新たな死亡なし」と読み上げた。続いて、別の情報が落とされる。「講堂側倉庫、呼吸不全の生徒、重篤」。言葉は柔らかく、質量は重い。海は包帯の箱を押し、被服室から走った。凛は列の前で立ち止まり、「四時に投票を行います」と冷静に告げ、陽菜に掲示を作らせた。

 倉庫の扉を押し開けると、空気が濁っていた。熱ではない。酸素が薄い。海の肺が勘でそれを掴んだ。通風口に貼られたガムテープが、粗雑な十字で空気を遮っている。角は乱暴にちぎれている……のではない。端が濡れて、薄く唾の匂いがする。歯で噛んで切った跡。鋏がないか、手を使いたくないか。あるいは、利き手の怪我をごまかすために、口を使ったか。

「窒息を狙ったんじゃない。昏睡。深く眠らせて、起きる権利を誰かの手に戻す」

 海はテープを剝がし、窓をこじ開け、換気を作り、胸郭の動きを見る。仰臥位から側臥位へ。舌根沈下の角度を避け、肩の高さを毛布で微調整する。酸素が入る時間は嫌に長く感じられ、肺の柔らかさがやっと戻ってくる。彼女はその場に座り込み、額の汗を袖で拭った。汗は冷えて、指に薄い塩を残す。


 倉庫の外で、凛の声が短く固まった。「もう“抽選”はできない。代表は私がやる」

「やめろ」

 透は二歩で距離を詰めた。言葉を選ぶ余裕がないので、最も不器用な言い方になった。「一人で背負うな。紙が割れる。紙に載らない負荷は、体の奥で破れる」

「私は作った案の責任を——」

「責任を理由にするな。責任の言葉は、夜では刃だ。あなたに刺さる」

 凛は透を見ず、倉庫の内側を見ていた。誰かの眠り。誰かの浅い呼吸。毛布の柔らかさ。通風口の跡。歯で噛んだ痕。そこに、彼女は自分の歯も見つけたのだろう。噛みちぎる意思。甘さを拒む顎。「四時に投票。全員に通知して」

 凛は引き返した。足取りはまっすぐだが、紙の上では線が見えない。


 陽菜がボードを更新していると、凛の足跡の列に不自然な途切れが浮かんだ。渡り廊下の中央。雨が波板を打ち、床が全体に薄く濡れている区間。そこだけ、凛の足幅に近い短いステップが消失している。靴の跡ではない。素足のリズム。靴を脱いだなら、そこだけ跡が薄い。赤い点の呼吸は床面の反射を強めるが、水の膜は靴底のパターンを持ち上げない。陽菜はその部分の周辺を拡大し、テープで四角く囲んだ。

「足跡が消える区間」

 彼女は独り言の形として残した。「消えたのは、歩幅の縮まり。素足のたよりなさ。靴は脱がないと、そこをすり抜けられない」

「凛が?」

 透が壁の前で立ち止まった。問いは非難ではない。非難にすると、自分に跳ね返ってくるのがわかっている。「なぜ、そこだけ」

「足跡は、見るものへの説明責任だ」

 比良木がボードから目を離さずに言った。「説明しない区間を作るのは、説明しない者の自由。けれど、説明されない者は自由を失う。彼女は自由を自分に戻した。自分で担ぐために」

 壁は答えず、紙は光を吸って沈黙した。沈黙はひどく雄弁だ。


 配給は手渡しに変わった。紙コップ一杯。列の先頭で凛が量を示し、海が指の温度で冷えすぎを調整し、透が腰のポリタンクを支えて注ぐ。三つの手が同じテンポを取り、由衣の低音と干渉して奇妙に合っている。列の中腹で笠松がひとこと悪態をつき、最後尾で柴田が無言で腕を組む。無言の中で、鍵の不在が鉛のように浮かんでいる。鍵がないから、鍵の話が減る。鍵があれば、鍵の話で夜が満たされるはずだった。


 海は、紙コップを持つ手がわずかに震える女生徒の目を見た。白目に薄い網目の赤。眠気ではない。水分が足りないことを示すサイン。海はコップの縁を指で押さえ、量を半分だけ増やした。増やしたという事実は壁に貼る。配給の例外は記録される。記録は偏りを露わにし、偏りは夜の中で責めの言葉になる。それでも、今はいい。今は、生かす方へ。


 渡り廊下の低音が一度だけ跳ね、同時に校舎全体のどこかで、薄く水の流れる音がした。音は、耳の奥の古い記憶を探り当てる。蛇口をひねったときの鈍い始まり。便所のタンクにたまる、深いところからの声。雨どいを落ちる水の粒が角に当たって砕ける音。水は、目に見えずにいるときのほうが、よく鳴る。


「水、理科室にも」

 透が動いた。理科室の流しは先ほど洗ったばかりだ。蛇口には、まだ湯の甘さの残り香がある。ポリタンクからの給水はここでは行わない。彼は蛇口の先を指で包み、匂いを嗅いだ。洗剤の気配はない。だが、流しの底に薄く、白い粉の円がある。消火器の残り。粉は水で固まり、円の縁に膜を作る。膜の皮は、次の水を受けたときに、僅かに味を変える。味は疲れに敏感だ。弱った舌は、敵味方の区別を忘れる。つまり、また「戦闘不能」だ。

「全部の水場を一つの出口に集める。出口はここではない」

 透は理科室の蛇口に布を巻き、封をした。「飲む場所をひとつに」


 夜の校舎は、音を覚え始めた。由衣の低音、紙コップの重なり、雑巾の擦れる音、粉塵の空気に触れる音、赤い点の呼吸。そこへ、誰かの歯がテープを噛み切る音がひどく生々しい肉の気配を引き連れて混ざった。水の罠は第二の形を見せ、空気を奪った。水と空気は目に見えない。見えないものの罠は、気づいた者に罪悪感を与える。気づけなかったことの罪。気づくのが遅れたことの罪。救えるはずの呼吸を、一度落としてしまったことの罪。


 凛は四時の投票を明言した。陽菜が掲示を打ち、紙の角が風で揺れる。投票は「同期」のため。五時に合わせるため。言葉の置き換えは、魔術に似ている。名前が変わると、物の重さが変わる。透は「代表」という言葉を舌の裏に隠し、噛み続けた。噛んだ言葉は味がなくなり、唾に混ざって喉へ落ちる。それでも、喉の奥でその言葉が丸い塊のまま滞留しているのがわかった。


 壁の地図は、面密度を増やし続けた。油膜の縁の繊維をつないだ線、チョークの矢印の角度の変曲点、消火器の扇の中心、縄の切断面の滑らかさ、包帯の巻き終えの斜め切り、チャームの小傷、倉庫の通風口のテープの噛み跡、渡り廊下の素足のステップの消失。線はどれも、人にとても近く、それでいて人から遠い。人に触らずに人を動かす設計。その設計に近づくために、こちらは紙を重ねる。紙は、刃にならない。刃にならないから、紙は何度でも重ねられる。


「水の罠は、飲む口だけじゃない」

 比良木が、地図の端に小さな字で書いた。「通風の封鎖。洗剤の薄膜。粉の円。液体と気体の両方で、人のリズムを奪う。次は、多分——音」

 音、と言った瞬間、由衣の低音が校舎の腹の奥で一段高くなり、すぐに落ちた。張り詰めすぎた弦を少し緩める手つき。囮は、真似ることをやめる訓練を続ける。真似続けた囮は本物になる。本物になった瞬間、最初に切られる。


 凛の足跡の消える区間は、そこに口を開けていた。靴を脱ぐ、という行為は、ある種の儀式に似ている。彼女は何かを跨いだのだろう。説明を跨いだ。昂ぶりを鎮めるために、裸足の冷たさを必要としたのかもしれない。冷たさは頭を冴えさせる。冴えは残酷になる。残酷は、朝までの設計に不可欠かもしれない。透はその想像に背筋を細くし、それでも視線を壁から外さなかった。


 四時までに、まだ時間はある。時間はあるのに、時間はどこにもいない。紙を増やす。水を減らす。呼吸を合わせる。足を止めない。止める場所を決める。決めたことを紙にする。紙にしたことを壁にする。壁は夜に立ち、夜は壁に寄りかかる。壁に寄りかかった者の影は、床の油膜と混ざって曖昧になり、曖昧になった境界から、また誰かが滑る。滑らないように、透は足の雑巾を巻き直した。布は水を吸い、温度を持ち、滑りを憎んだ。


 配給の列の最後尾で、女生徒が紙コップを両手で包み、なかなか口元へ運ばないで立っていた。海が近づき、目を覗いた。目は揺れ、揺れは理性を装っている。彼女は囁いた。「大丈夫。これは、見える水」

 女生徒はやっと一口、飲んだ。飲んだ瞬間、喉が内側から伸びをし、舌が水の通り道を思い出し、肩の力が少しだけ落ちる。海はその肩の落ち方を見届け、次の者へコップを渡した。


 夜の「罠」は、水の形を何度でも変えた。飲む水。吸う空気。足場の膜。粉の円。音の波。どれも透明で、どれも境界を好きなように動かす。透は壁の前で立ち、紙の角を指の腹で押さえた。紙はたやすく破れる。破れやすいから、刃にはならない。刃にはならないから、守りになる。彼は、紙の上の線にそっと呼吸を合わせた。呼吸は、五時に向けて細くなる。細い呼吸は、死ではない。細い息の上に、朝を置く。置けると信じるために、名前を替える。「統治」ではなく「同期」。夜は言葉に騙されない。けれど、人は言葉に騙されて、前へ歩く。歩くと、足跡が増える。足跡が増えると、またどこかで、跡が消える。その消えた場所を、紙に描く。紙は、夜に似合う。夜は、紙に似合う。


 由衣の共鳴箱は、校舎の骨を撫で続ける。笠松は扉の前に立ち、肩の痛みを奥歯で砕き、柴田は鍵の不在の輪郭を腰で確かめる癖をやめられず、陽菜はテープを切り、比良木はランプの間隔を数え、海は包帯の端をテープで落とし、凛は裸足の冷たさを指の記憶にしまい込む。透は紙の前で、指を軽く二度、叩いた。誰も聞いていない。聞く必要はない。五時になれば、合図は声ではない。息だ。息は、水の罠に似ている。奪われやすく、戻りにくい。戻すために、今夜は、紙を重ねる。重ねる手が震えているなら、それはまだ、こちら側だ。震えは、生きている証拠だ。生きている限り、罠は罠でしかない。罠は扉のふりをする。扉のふりをした罠の前で、透は深く息を吸い、薄く吐いた。紙が、小さく鳴った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ