表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
午前五時の生存者――五時ちょうどに、生きているのが一人だけなら——救助が来る。  作者: 妙原奇天


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/13

第5話 抜け駆け

 午前二時の手前、職員室へ続く廊下は海の底のように重かった。窓は黒い雨の壁に塞がれ、赤い予備灯が呼吸するたび、床のタイルが微かに光っては沈む。扉の前に集まったのは、凛の案を支持する五人と、守備班。鍵束は柴田の腰で鈍くぶらさがり、笠松は手すりの影に半身を沈め、顎の角度だけで警戒を示していた。

「鍵は私が」

 凛が言った。声に揺れはない。だが、言葉の輪郭は夜気に削られ、薄い縁に沿ってひびが走っている。

「ここは俺たちが守る」

 柴田が一拍早く返す。動作が言葉の前に出て、手が鍵に触れた瞬間、廊下の空気がやわらかい皮膚のように波打った。凛が腕を伸ばす。同時に透が一歩、前に出る。比良木は壁際へ沈み、陽菜は位置の記録をとるように視線を往復させ、海は救急袋の口を片手で押さえた。

 押し合いではなかった。意図がぶつかり、境界がきしむだけだった。けれど、そのきしみは確実に音を持った。

「手順を——」

 凛が最後まで言う前に、柴田の動きが速くなった。鍵束が腰から外れ、片手に渡る。カラビナの金属が歯を鳴らし、音が薄い水膜に飲み込まれるように小さくなって消える。

「ここは俺たちが守る」

 同じ文が二度、廊下に貼り付けられた。二度目は呪いに近い。

 次の瞬間だった。タイルがヌルリ、と滑った。空気ごと肌が汚されたような感触が足裏に貼りつき、凛の膝が僅かに折れる。透は脚の重さが急に消える錯覚を覚え、足首が足場を失う。床一面に見えない薄膜——調理室から引かれた油の気配だ。匂いはほとんどない。鼻に届く前に冷たい。壁際には、目を凝らさなければ見えない糸が一本、二本。赤い点の呼吸に合わせて、かすかに光る。その糸が脚に触れ、微かな抵抗を残していく。

「——っ!」

 笠松の靴が流れ、体の重心が遅れて転がる。肩が手すりの角に激しくぶつかり、鈍い音が骨を通して廊下に広がった。彼は片腕で痛みを押さえ、もう片方の手で壁を掴む。掴んだ指が糸を切り、切れた糸は蛇の皮のように床に落ちて、油に貼りついた。目を凝らさなければ見過ごすような罠。殺すための線ではない。倒すための、足止めの糸。

 廊下の奥で、白い煙が噴いた。誰かが消火器のレバーを握ったのだ。粉末が壁を舐め、天井の筋目を白く縁取り、視界を奪っていく。赤い点の光が粉塵に散らばり、細かい星になって漂う。呼吸に粉が入り込み、喉が砂を噛むようにきしんだ。

「下がれ! 目を閉じて、口で息を——」

 海の声は粉に吸われた。次の瞬間、低い太鼓の一打が階下から響く。ドン、と腹の底を突くような音。由衣巫子の囮だ。響きは方向を欺く。壁の裏で鳴っているのか、床の下で鳴っているのか、一瞬、耳の地図が白紙になる。

「下だ、階段だ!」

 守備班の二人が反射的に声を張り、粉の幕の中から離脱した。方向を誤認した筋肉は素直だ。音が示すほうへ走る。背中から鍵の金属音がいくつもこぼれ、床に転がる。柴田は掴み直し、笠松は痛む肩を押さえながらも壁に背を預けて立つ。

 混線。粉塵の白が人影を均質化し、腕や肩や腰が互いを見失う。視界の隙間から、凛の体が低く滑り込んだ。油膜の上を泳ぐように、職員室の扉へ。透は腕を伸ばし、粉の幕の向こうで凛の手首を掴み損ねる。指は凛の袖の布の端をかすめ、布の小さな毛羽が指先に残った。その感触は、はっきりと生々しいのに、頼りなかった。

「開ける!」

 凛の声が扉に吸われ、鍵穴に金属が差し込まれる音が小さく重なる。次の息の間で、扉は少しだけ開き、凛はその隙間に薄い体を滑り込ませた。

 透は粉の中で咳を押し殺し、比良木の姿を探した。壁際、床這いになっている影。彼は掌で床の表面を撫で、指の腹に付く油の厚みを測っている。紙の一枚に当たらない薄さ。拡げ方は慎重で、途切れ途切れの線が曲がりながら廊下の中央へ出ている。油の端に、透明の痕——テープの跡。糸を固定した痕跡だ。

「殺すためじゃない」

 比良木が粉の白を吸い込みながら低く言う。声は咳に切られ、それでも意味ははっきりしていた。「足を止めるため。進行を遅くし、ぶつける。骨を折る可能性はあるが、致死の線は避けている。床の角度、照明位置、手すり、全部、死角をつくらないように配慮してる。誘導の設計者がいる」

「誰に配慮だよ」

 笠松が吐き捨て、痛む肩を揺らす。「倒れて首を打てば、それで終わりだろ」

「終わらせる線を描くのは、もっと容易い。これは、終わらせないための線だ」

 比良木は立ち上がらないまま、油膜の外、乾いたタイルに指で小さな円を描いた。「ここでは止まる。止まったところに、次の選択が置かれる。選ばせたいのは場所じゃない。反応だ」

 粉塵が静かに降り続き、赤い点は星屑を増やしていく。視界の奥で、凛の細い影が職員室の中へ溶け、消えた。

 職員室は濃く冷えた部屋だった。空気に紙のにおいと、古い電気のにおいが混ざる。机の列の向こう、壁際の棚に灰色の箱——無線機。横に積まれた小さな黒いユニット。心拍センサーとラベルされた箱と名のない箱。天井から降りてきたケーブルがそこに結ばれ、束ねられ、丁寧にテープで留められている。どのテープにも剥がし跡がない。誰もいじっていない。いじれない。凛は耳を近づけ、機械の喉から出る薄い低音を聴いた。眠っているのに、眠っていない音。

 パネルのスイッチは少なく、ツマミに白い印がひとつ。横の小窓に赤い小さな光。表示は固定。午前五時。心拍一名。切替不可の文字はどこにもないのに、どこにもあるように見える。無線の外側で、すでに選択済みの未来が静かに息をしている。凛はケーブルを目で追い、指で触れた。触れた指に、テープの滑りと、配線の硬さと、設置した者の癖が伝わる。癖は親切にも、暴力にもなる。

 扉の外、粉の白はゆっくりと沈み、咳の数が減っていく。陽菜が粉のかかって白くなったままのレンズを袖で拭き、まだ湿っている布でカメラのガラスを濡らしてしまい、ため息をひとつ吸って吐く。海は笠松の肩をざっと診て、動きの制限、痛みの出方、感覚の鈍りを確かめた。骨折はない。軟部組織の打撲だ、と口の中で結論を言い、痛み止めを視線で提案する。笠松は頷かない。頷くという動作が彼の辞書から抜け落ちている。

「鍵は——」

 透が声を出しかけ、うしろからの気配に振り向いた。守備班の二人が階段の方から戻ってくる。顔に粉を付け、眼が赤い。手は空。腰の金属は減っている。さっきの騒ぎの最中に、鍵が何本か散らばり、拾う手と奪う手が乱れたのだ。柴田の指が束を握り直す。その握り方に、ほんのわずかな不安が混じる。束の重みが一瞬、変わったのだ。

 そのとき、天井のスピーカーが息を吐き、淡々とした声を部屋に落とした。

「三年A組、点呼。……」

 言葉が粉を押し分ける。誰もが口を閉じる。粉塵の舞いが遅くなる。赤い点が肺をひとつ増やしたように脈打つ。誰も動かない。音が読む。呼ぶ。番号と名前が続き、最後に短い欠落の音があって——

「一名、死亡。講堂側倉庫。転落による頚椎損傷」

 空気が喉になって、そこで固まった。誰かの吐息が遅れて出る。粉の中で目を上げる目。粉の外で目を落とす目。凛は職員室の真ん中で足を止め、扉の方へ振り返らずに立ち尽くした。

 講堂側の倉庫。凛は脳内の地図を瞬時に更新する。さっき南京錠が足りないと海が言った場所だ。鍵を掛けている途中で誰かが解き、あるいは鍵を掛けずに半開きを保ち、毛布を積み直し、縄を準備していたところ——

 走る。透が走った。海が続く。陽菜はカメラを首に、足音の弱さを天井の赤に合わせ、ブレないように走る。比良木は廊下の油の端を避けて滑らず、粉の幕の薄いところを選び、凛は職員室のドアを閉めながら最後に一度だけ無線機を振り返った。機械の光は小さく、しかし揺るぎない。揺るがないものは、残酷さの一種だ。

 倉庫の扉は開いていた。内側から押し出されるように、空気が冷たく流れ出ている。天井の赤い点が、箱の山を越えて手前の床を舐める。毛布が崩れ、ロープが切り散らばっていた。縄の端を海が縫い針のような目で見て、息を飲む。切り口がまっすぐ過ぎる。手でちぎれる縄ではない。刃物だ。しかも、刃の跡に透明のテープの痕がある。グリップのために巻かれたテープ。端が剥がれ、粘着の薄皮が縄に移っている。

「誰かが、事前に——」

「拘束の“失敗”を設計した」

 陽菜の声が、写真のシャッター音と同じ薄さで落ちる。彼女は切断面に寄り、テープ痕を際立たせる角度を探し、赤い点の反射を利用して端子の光沢を強調した。画面の中で、切断された縄は過去形だった。縄は、もう結べない。

 床。倒れた人影の形の残像。頚椎、という言葉が医療用語の紙から抜け出して、床の冷たさと同じ実感でそこに落ちている。海は膝をつき、目を閉じ、開け、息を合わせ、手を動かそうとしたが、動かす先に体はなかった。もう運ばれている。もう誰かが、手を添え、目を閉じ、布をかけた。遅かった。すべての行為は、遅くなるために設計されている。早さは唯一、許されていなかった。

「こんなはずじゃ、なかった」

 凛が唇を噛んだ。言葉の形を整える余裕は失われ、舌がむき出しの金属に触れたみたいに震える。非致死統治。彼女の描いた設計図は、眠りを強制するものではなかった。眠りを準備し、眠りを選び、眠りをできるだけ安全に保ち、朝のために起きるためのものだった。眠りは殺さないはずだった。寝台に刃が潜む想定は、図面の余白に追いやられていた。

「殺さない戦略が、殺しに変換された」

 透はその言葉をあえて声に出した。声にすると痛みが増すとわかっていても、言葉にしないと染みこむだけだ。誰かが、わざと致死性の線を避けて、別の線で囲いを作り、こちらの“非致死”を、死の段取りに組み替えた。油膜は足を止め、粉は視界を奪い、糸は躓きを作り、縄は“切れやすい”。どれも殺すためではない。どれも殺さないために作られた“工具”だ。それが少しずつ、角度を変えて並べられる。角度の設計。角度の統治。それが夜の正体なら、朝はどこへ向かう。

「お前の仕掛けだろうが!」

 笠松の怒声が、倉庫の板壁を震わせた。粉で白くなった顔が、狭い空間で異様に彫り深く見える。彼は比良木の胸倉を掴んだ。痛めた肩が悲鳴を上げる角度に、わざと腕を上げたのだろう。その痛みが怒りの質量になり、掌をさらに深く押し込む。

「床、糸、油、反射、設計、設計って、舌の根も乾かないうちにその言葉が出る。お前が描いたんだろ。全部」

 比良木は殴られなかった。殴られるべき瞬間に、自分の体を殴られやすい位置に置くことはできた。それでも彼は動かず、ただ首を横に振り、笠松の手が掴む布の中で小さく言った。

「俺の設計なら、こんなに綺麗に嘘はつかない」

「は?」

「これは“反射”の設計だ。鏡と音を使い、見えない手を通す。俺は、もっと、正面からやる」

 説明は弁明に聞こえた。弁明は火に油だ。油は床にある。足は滑る。滑るから倒れる。倒れるから殴れない。殴れないから怒りは骨の奥へ沈み、骨は重くなる。

 その時だった。階下で、また太鼓の一打が鳴った。由衣の音だ。しかし、今度の一打はさっきより少しだけ、遅い。半拍、ずらす。囮は常に、真似ることをやめなければならない。真似続ける囮は、本物と区別できなくなり、区別できないものは、最初に切り捨てられる。

 音に、全員が振り向いた。一瞬だった。首の筋が音の方向へ反射で伸び、その間に、倉庫の入り口の影が一つ、厚みを失って空気に溶けた。気配だけが遅れて残る。背中に冷たい針の先が刺さるような、素早い通過の感触。視線を戻したとき、笠松の手はもう比良木の襟元を離れていた。何かを掴み直したのだ。何か——鍵。

「鍵束は?」

 透の声が倉庫の空間の端を叩き、跳ね返って薄く戻る。柴田が腰に手をやる。何もない。無意識に三度、同じ動作を繰り返し、手のひらの中身がずっと空である事実だけが濃くなる。床を見下ろせば、粉で白んだタイルの上に金属の輝きはない。油膜の上にも落ちていない。鍵束は、混線のさなかに誰の手にもなくなった。消えた。

 凛は倉庫の入口の敷居で立ち止まり、鍵の不在がつくる空洞を見た。鍵がない。鍵がないという事実が、扉を扉でなくす。扉でなくなったものは、出入口ではない。穴だ。穴は落ちるものだ。落ちたくないのに、覗けば縁に指がかかる。かかった指は滑る。滑らないように、誰かが糸を貼り、床に油を引く。優しさの顔をした裏返しの計算。

「鍵が——」

 海が言い、言葉の続きが声にならないまま口の中で消えた。彼女の視線は縄の切断面に戻っている。テープ痕。誰かの手の跡。そこに、微かに紙の繊維が付着しているのを陽菜が見つけ、摘まみ上げる。事務用のラベルの端だ。番号を書いたときのインクが、薄く、にじんでいる。蓄積された管理の痕。それは、善意の履歴だ。しかし、その履歴が、今は設計の道具になっている。

「誰かが、管理の言葉を使って、破壊の段取りを組んだ」

 陽菜は自分のノートの罫線を思い出す。格子の中に名前と時刻と状態を書き込むときの快感。整っていく紙の面。意味が並んでいく安心。それが今、逆さになっている。整っているほど、壊しやすい。壊しやすいほど、壊した事実が目立たない。

 比良木が立ち上がり、粉の白をまとったまま、倉庫の外の廊下を見た。油の線はここまで伸びていない。糸は切れて落ちている。切れているということは、誰かがここを通った。通った者は足をひねらず、滑らず、糸に足を取られないように歩ける者だ。歩き慣れている。夜に。

「鍵を隠す場所はいくつもある」

 彼は淡々と言った。「鍵そのものを解体することもできる。分解してカラビナとリングに分け、リングだけ捨てれば、鍵はただの金属の板になる。板は、鉄製の机の裏に、簡単にくっつく」

 彼はその場で片膝をつき、机の下を一つ、指で探った。何もない。別の机。指に粉が付き、冷たさが皮膚に吸い込まれる。粉は全てを均一にし、均一は隠す。凛は倉庫から一歩下がり、廊下と講堂の間の空気を見た。見えるものは少ない。見えないものは多い。多いものが勝つ夜だ。

「どうする」

 柴田が問う。問いは短い。短さは、選択の催促だ。笠松は肩を回し、痛みの角度を確かめ、怒りを歯に押し当てて噛み砕く。噛み砕けないものは、舌の下に隠した。舌は言葉を作る。重くなった言葉は、凶器に似る。

「鍵を探す。見張りの線はそのまま。職員室前に二名固定。講堂前に一名、渡り廊下に一名。倉庫は封鎖——」

 凛は自分の声がわずかに細くなっているのを自覚した。細くても、線だ。線は引ける。引かれた線は、また誰かに角度を変えられるだろう。変えられるたびに、こちらは選び直す。

「そして、——」

 言葉の先に、透が自分の名を置きかけたとき、スピーカーが軽く咳をした。粉にむせたような咳。それから、短い音。通知音。赤い点がひとつ、ひどく大きく膨らみ、元に戻る。

「三年A組、補助情報。『鍵』は——」

 その先は、言わなかった。言わないのが指示だ。沈黙が一番の命令だ。誰かが配線に指先を触れたのだろうか。誰かが静電気を逃がしたのだろうか。あるいは、最初から、ここで途切れるように設計されていたのか。凛は息を止め、透は息を吐き、海は吐けない息を喉に押し戻した。

 倉庫の床に散らばる縄の細い繊維が、微かな風で動く。動くたびに、切断面の白が翻り、テープの透明が光り、毛布の繊維が静電気で立ち上がる。立ち上がった繊維は、誰かの汗の塩を吸い、冷たくなる。冷たさは眠りの表情を装う。眠りは人を信じさせる。信じた結果が、この床だ。

「鍵のない扉は、扉じゃない」

 透が静かに言った。自分に向けて。鍵は管理の象徴で、管理は秩序の仮面だ。仮面を剥がした顔は、目だけで笑う。笑いは音を持たない。音がない笑いは、恐怖の温度だ。

「でも、穴ではない」

 凛が続けた。唇の血の味を飲み込みながら。「穴にするのは、こちらの足だ。落ちるかどうかは、こちらで決める」

 その言葉は強がりではなかった。強がりではないことが、より怖かった。言葉が体の重さを持ち、体がそれを背負う。背負ったものは肩に残る。残った肩は、朝になっても痛いだろう。痛みは、忘れない。

 由衣の太鼓は、もう鳴らなかった。囮は十分に機能した。機能した囮は次の段階に入る。沈黙。沈黙は、音より多くを語る。語られないうちに、こちらはまた、線を引き直す。線を引く手が震えるかどうかは、もう問題ではない。震えながら引いた線は、予想より真っ直ぐで、予想より曲がっている。真っ直ぐと曲がるの両方が、朝へ通じる道だと、今だけは思うことにした。

 鍵は消えた。消えたものは、どこにでもある。どこにでもある、という事実が、今夜いちばんの謎だった。謎は、解かないほうが重く、解いたほうが軽い。重さは、まだ必要だ。軽くなってしまえば、朝に掬われる前に流れてしまう。流れないように、透はホワイトボードの前に戻り、黒い文字の上に、もう一度、指でなぞる仕草だけをした。誰も死なない。誰も殺さない。誰も諦めない。文字は粉を吸って、ほんの少しだけ太った。粉は、夜の花粉だ。吸い込めば咳が出る。咳が出れば、生きている。

 廊下の波板が肺の病のように鳴り、赤い点は一定の速さで呼吸を続ける。一定は狂気の礎だ。狂気の上に、設計図は薄い橋のように架かっている。橋を渡る足は、油で滑る。滑らないように糸が張られる。糸を避けるために、目を凝らす。凝らした目は、見逃す。見逃したものが、一番近い。近いものは、遠くなりやすい。遠くなる前に、透は凛を見た。凛は透を見た。二人の間に、同じ赤い点が二つずつ反射する。四つの点が、ほんの一瞬だけ、同じ呼吸で膨らみ、痩せた。夜は、それを見ていた。夜は、見ているだけだった。見ているだけで、十分だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ