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午前五時の生存者――五時ちょうどに、生きているのが一人だけなら——救助が来る。  作者: 妙原奇天


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第4話 共存の設計図

 ホワイトボードの表面には、すでにいくつもの線と矢印と、重ね書きされた誓約の文言が層をなしていた。相沢凛はそれらの上に、さらに濃い字で新しい見出しを書いた。非致死統治。赤い予備灯がその言葉の輪郭を呼吸に合わせて膨らませ、痩せさせる。チョークではない。インクだ。だが、夜はあらゆる言葉に粉じんの気配を降らせ、触れた指先を白くした錯覚を生む。


「多数の生命を守るために、最小の犠牲で朝を迎える設計が必要だと思う」

 凛は口火を切った。声は低いが、波形は硬い。揺れない音が、教室の四隅の影を薄くした。

「“犠牲”という単語は使いたくない。けれど、時間が私たちを選ばせる。選ばないことで全員が落ちるなら、選ぶ。ここに、案を提示する」


 ボードに三つ、太い記号を打つ。(A)(B)(C)。ペン先が紙ではなく樹脂を掠める音が、耳の裏を撫でる。

「A。志願者、代表を一名。『最後まで目覚めている者』。B。代表以外は倉庫に拘束し、低温・安静で心拍を落とす。混乱を抑え、深い眠りへ誘導。C。午前五時ちょうどに、代表のみ職員室で心拍を維持。送信が成立した瞬間、すぐ全員解放、蘇生措置」

 呼吸の合間に、すでに用意していた単語が滑らかに出てくる。彼女は言葉を選ぶのではなく、言葉に選ばれているように見えた。


「危険すぎる」

 春日透は即座に反対した。反射に近い拒絶。喉から出た音が自分の耳を刺す。「失敗すれば、全滅だ。誤差が出たら? 時計の狂い、スピーカーの遅延、回線のラグ、何かひとつ噛み合わなければ、五時に“心拍一名”が成立しない」

「理論上は可能だ」

 比良木拓が静かに言葉を継ぐ。「天井裏のセンサーは閾値を越える変動のみ集約する。倉庫側の温度を下げ、毛布で外部の微細振動を遮断。深眠を安定させれば、心拍は緩慢になり、統計的には『沈む』。ただし——」

「ただし?」

「タイミングの誤差と低体温のリスクが高い。倉庫の断熱は弱い。床冷えが強い。代謝が低い者はすぐに危険域に入る。倉庫は一つではないから、管理がばらける。数が増えるほど乱流が起きる」


「救命は賭けじゃない!」

 小鷹海が声を荒げた。普段の彼女に似合わない音量。被服室で包帯を折り畳む手を止め、ホワイトボードに体を向ける。「心拍を落とせば助かるなんて、幻想だよ。低体温症は静かに進む。眠れているように見えて、呼吸が浅くなって、次がない。私は治療を政治の道具にしたくない。誰を眠らせ、誰を起こすかの決定に、医療の言葉を巻き込みたくない」

 凛は頷いた。頷きは短く、しかし間を置いた。「海の懸念は正しい。だからこそ、志願者——代表を選ぶ必要がある。強度のある者。抵抗力、判断力、そして——」

「諦めない言葉を言い続けられる者」

 透が自分の胸を刺すように言った。ホワイトボードには自分の書いた文句がなお黒く残っている。誰も死なない。誰も殺さない。誰も諦めない。書き足した線は太り、恥ずかしいほど丸くなった。恥は防腐剤だ、と昨夜思ったことを思い出す。今夜も多分そうだ。


「議論している間に襲われる」

 柴田大地は短く言い切り、体育用具庫の鍵束をカラビナごと腰で鳴らした。「見張りを厚くする。講堂と渡り廊下、それと職員室。守備班を中心に交代で展開。囮がどうとか投票がどうとか、その間に背中を刺されたら終わりだ」

 守備班の数名が、彼の言葉と同時に体を動かす。視線、肩の角度、足の向き。群れの足場が固まる。鍵は金属のまま、意思を持つふりをした。


「囮は機能するか、実験したい」

 由衣巫子は静かに言い、メトロノームのねじを巻いた。「二階南端の空き教室でカチ、と鳴らし続ける。私は北側階段へ移動。センサーが音の密度を動体と誤認するなら、追われるべき足音がずれる。五分。五分で結果が出る」

 凛は頷き、許可する。巫子はひとりで走らない。記録班の一人が後ろに付く。二人の影が赤い点の呼吸をまたぎ、廊下の角に吸い込まれる。


 三上陽菜は、すでに“非致死統治”の標題の下に、格子の表を描き出していた。拘束管理の表。列には名前、行には時間、セルには状態。手枷、毛布、体温計測の時刻、巡回者のサイン。表は秩序の顔をしていて、その実、秩序よりももっと古い衝動——人を並べ、数え、管理したいという欲望——に近かった。陽菜自身がそのことに気づいているのかどうか、透にはわからない。ただ、彼女の筆致は気味がいいほど滑らかだった。


「南京錠が足りない」

 海の声が被服室から飛んだ。硬い。先ほどの怒りの余熱が、いまは純粋な事実へ変わっている。「倉庫の鍵は三つのはず。棚の裏に置いといた。ひとつ、ない。誰かが先に抜いてる」

 誰か。四方へ飛び、四方から戻ってくる。凛はボードの隅に「南京錠×2」と書き、矢印で「行方」を描く。矢印は空中で解け、床に落ちずに天井へ昇る。


 一時の点呼。自動音声が眠そうな機械の喉で「全員生存」を読み上げた。心拍の平均は、標準偏差の内側。鎮静を推奨します。推奨は柔らかい命令だ。柔らかさは、抵抗を削る。


「投票しよう」

 凛が言った。静かだが、言葉は鋼鉄のように硬い。「すべてを強制したくない。案に同意しない者は、別案を提示してほしい。私は手順を設計する。あなたたちは選ぶ。多数で決める。選び方は、私たちのものだ」

「互いを眠らせる前提が、信頼を殺す」

 透は声を上げた。言いながら、声の中の震えが自分の骨に共鳴するのを感じた。「『非致死』の名で、互いの自由を封じていくのは、今は間違っている。誰かが“代表”に選ばれた途端、残りは『眠らせる対象』になる。眠らせる手の善意は、次の瞬間、暴力に変わる」


 凛は透を見た。透も凛を見た。互いの目の中に赤い点が二つずつ反射し、四つの点が一瞬だけ同期する。呼吸はずれる。ずれが安堵になり、同時に痛みになる。

「私の案は、統治じゃない。設計だ」

「統治だよ」

 割って入ったのは笠松迅だ。守備班の輪から半歩出て、腕を組む。笑わない顔がいつもより細く見えた。「設計のふりをした統治。言葉の名前はどうでもいい。鍵と力がどこにあるか、それだけだ。俺らは守る。守るには集める。集めるには、従わせる。従わないなら、従わせる」

 彼の言葉の端に砂が混じっていて、かすかなザラつきが残る。守備班の肩の線が厚くなる。


 クラスは、見えるほどに割れた。(1)凛の案を支持する者たち。秩序と計画に賭ける群れ。(2)透の非拘束・分散自衛に頷く者たち。鍵の分散、見張りの分散、自由の分散を掲げる群れ。(3)守備班の掌握に寄る者たち。力に近い位置に立ち、そこからの配給を受け取りたい群れ。三つの円が薄く重なり、重なりの狭間に、誰でもない者たちが落ちていく。落ちるというのは物理ではない。話題から落ちる。視線から落ちる。保護から落ちる。落ちた者は、静かに、危うい。


 廊下から、硬い木板の外れる音がした。古い掲示板だ。長い釘が抜けきれず、最後の一枚の繊維を引き裂く乾いた悲鳴に似た音。次いで、ほんの小さな、人間の声の悲鳴。誰かが驚いた、あるいは肩を擦った音。透と比良木が同時に動いた。凛も半歩遅れて続く。陽菜は表を胸に抱え、ペンを耳に挟む。


 掲示板は床に斜めに倒れていた。掲示の裏面の木地は湿気で膨れ、角は欠け、釘の穴の周囲に黒い斑点が浮いている。倒れるべき方向に倒れ、誰も下敷きにはなっていない。倒れるべき、という言葉が口をつくのは、そこにまた白い線があったからだ。チョーク。床に、壁に、そして掲示板の裏に。矢印。ここへ落ちろ、と。そこから二歩離れた位置に、誰かの靴の踵が斜めに擦った跡。避けた。避けさせるように、あるいは避けられないように。設計だ、と比良木が言いかけてやめた。言葉が設計を喜ばせる気がしたからだ。


「誰かが、動線を描いてる」

 陽菜がシャッターを切り、写真の裏でつぶやく。「見えない線と、見える線。見える線は囮で、見えない線が本線。見えているから、見えない」

 彼女の言い回しは詩的に聞こえたが、夜は詩を許す。詩は意味の重さを片側に寄せ、軽いほうを空に浮かべる。


 凛は掲示板の釘穴を指で探り、指先に付いた粉を軽く嗅いだ。湿った紙の匂いのほかに、消毒の匂いが混じる。海が眉をひそめる。「どこでも匂う。誰かがどこでも拭ってる。どこでも“清潔”にしてる。清潔は親切の顔をして、足跡や指紋を消す」

「清潔の設計」

 透が無意識に口に出した。口に出した途端、言葉が意味を持ち、意味がこちらを噛む。


 巫子の囮は、機能した。二階南端の教室からカチ、カチ、と規則的な歯車の舌打ちが廊下に漏れ続け、そのタイミングに合わせるように、北側階段の踊り場の赤い点が一瞬だけ速度を早めた。笠松が階段へ走り、空振りを食らう。踊り場には誰もいない。足音は別の方角、メトロノームのリズムの裏へ逃げる。笠松は手すりを叩き、苛立ちを手のひらに集めた。その苛立ちは、すぐにどこかへ移されるだろう。移された苛立ちは、別の誰かの肩を重くする。


「投票のやり方を決める」

 凛は教室に戻り、ボードの別の隅に手順を書いた。無記名、一人一票。票の箱は透明。集計は三人で同時。異議は即時受け付け、証跡は写真で残す。「この手順に異論があるなら、それを先に投票で決める。手順の投票に参加した者だけが、案の投票に参加する」

 言葉は網だ。網で網を決め、網で魚を分ける。その網目からこぼれるものが、いちばん鮮やかに動くことを、夜だけは忘れがちだ。


「俺は投票しない」

 柴田が言った。簡潔。「守る側は手続きの外側にいないと、守る意味が消える。俺らは扉の前に立つ。投票してる背中は守れる」

 守れる、の語尾が、風に片方だけもっていかれて、守れ、に聞こえた。命令形は、夜に馴染む。


 透は、ボードの文字を見たまま、空気の厚みが変わるのを感じた。統治、設計、分散、自衛、掌握。単語はどれも、心臓の動きを模倣する。増えたり減ったり、強くなったり弱くなったり。言葉の心拍は、誰にも測れない。測られた心拍だけが、装置に認識される。測れない心拍は夜を支え、朝が来れば忘れられる。


 被服室の片隅で、海が白い毛布を折っていた。折るたび、折り目に小さな静電気が走り、薄い音がした。「眠らせるためじゃない。震えたときに使うため。ここに並べておくだけでも、みんなの体は少し暖かく感じるの。錯覚でもいい。錯覚が命をつなぐ夜もある」

 錯覚。透はその言葉に助けられ、同時に刺された気がした。自分の「誰も死なない」という文句も、ひょっとすると錯覚の仲間かもしれない。錯覚が、今夜は必要だ。必要であること自体が、怖い。


 投票の紙はノートを切り離したもので、縁にギザギザの毛羽が残った。陽菜は「案1」「案2」「案3」と書いた紙片を三枚ずつ配り、必要ないものは破って捨てるよう指示した。破る音が一斉に広がる。破られる紙が案の数だけあり、案の数だけ破られた端が床に落ちる。破片は赤い点の呼吸のたびに影の長さを変え、やがて誰かの靴底で薄く潰れた。


 集計の前に、一瞬の間が生まれた。間は危険だ。間に、音が入り込む。渡り廊下のほうで、さっき外れた掲示板とは違う、もっと高い音が鳴った。ガラスと金属の中間。音の優劣を判断できない耳は、ただ「違う」とだけ伝える。

「確認する」

 比良木が言い、透が頷き、二人で角を曲がる。赤い点の呼吸が速度を上げ、増やし、また戻す。呼吸の乱れは、誰かの走り去った後の空気がまだ整っていない証拠だ。廊下の先、曲がり角の壁に、小さな白い線が新しく描かれていた。今度は矢印ではなく、短い直線が三本、わずかにずれて平行している。導線の予告、あるいは、こちらの読みを試す「問題」。


 問題は解かないのがいちばん難しい。解けば、答えに縛られる。解かないでいると、問題に縛られる。比良木は線を踏まず、透も踏まず、凛も踏まず、陽菜が写真を撮る。海はため息を飲み込み、巫子のメトロノームが遠くでまたカチ、と鳴る。


 講堂側から、笠松の短い罵声が聞こえた。囮に二度目の空振りを食らったのだ。苛立ちが重くなり、力は方向を欲しがる。方向は、最も目に見えるものへ割り当てられる。今は、それが「案」だ。凛の案。透の案。守備班の案。案は顔を持たないが、顔の後ろに案がいる。


 投票は行われた。透明の箱に紙が落ちる音が、雨音と混ざって薄く響く。箱の底の紙片が、落ちるたびに微かに跳ね、互いの存在を指先で確かめ合うように重なった。集計は凛、陽菜、透。三人の指が同じ速度で紙を広げ、同じ速度で「1」「2」「3」を寄せる。結果は——


 そこへ、スピーカーが息をした。まるで結果を遮るタイミングを選んだように。「三年A組、補助情報。『投票』が実施されました。遵守率は六割。偏在する鍵の位置を更新します。倉庫、講堂、職員室、用具庫——」

 凛が顔を上げ、透が凍る。機械は彼らを見ている。投票という行為自体が通知になり、通知はどこかへ届き、届いた先からは指示が返る。生き物は、見られると形を変える。形を変えるものを設計と呼ぶか、統治と呼ぶかは、呼ぶ側の自由だ。


 結果は拮抗した。凛の案支持は十四。透の案は十三。守備班案は十。差は一枚。差は数字で、数字は刃物に似ている。鈍いが、細く、長い。誰かの喉の奥を少しずつ削る。

「少数意見を殺さない枠組みにしよう」

 凛は言った。勝者の言葉ではなかった。敗者の言葉でもない。「案は採択された。でも、『眠らせる』は合意形成の外側に置く。志願、だけ。強制の部分は全部、外す」

「代表はどうする」

 笠松が皮肉を付けずに問う。凛は透を見ない。透は凛を見ない。二人とも、ホワイトボードの同じ一点を見ていた。誰も死なない、の“誰も”。“誰も”という言葉は、夜に最も破かれやすい場所だ。

「代表は私がやる」

 凛が言った。静かに。「作った案の責任は、作った者が取る。午前五時、職員室にいるのは私」

 教室の空気がわずかに沈んだ。沈む、というのは、底が近づくことではない。表面張力が強くなることだ。触れたら破れる。破れたら溺れる。


「なら、俺があなたに付き添う」

 透は体のどこかが勝手に発したような声で言った。「二人一組だ。代表を一人にするなら、俺がいる。心拍が二重になったら? 装置が『重複』を検知したら?」

「そのときは私が——」

「そのときは俺が、離れる。俺は、離れられる」

 彼は今言ったことの重さを、言い終わってから理解した。離れる、というのは、存在の枠から外へ出ることだ。心拍一名を成立させるために、心拍の枠から自分を外す。外れて戻れるのか。戻れなければ、言葉は骨になる。骨は残るが、しゃべらない。


 凛は首を振った。「付き添いは、陽菜に頼む。なぜなら、記録する人間が必要だから。記録は私たちの防壁になる。透は、眠らせない側の旗を持ち続けて。あなたの言葉が、眠りに傾く群れの足首をつなぎ止める」

 透は頷いた。頷きは重かった。肩にかけられた見えない布の重さを、首の筋が受け止める。「じゃあ、俺は歩き回る。鍵を分散させ、目を分散させ、眠りすぎを揺らし、目覚めすぎを撫でる。馬鹿みたいだけど、それが今夜いちばん難しい」


 守備班は配置を強化した。講堂前には二名。渡り廊下には一名ずつ、視界が交差するよう角と角。職員室前には柴田ともう一人。用具庫には笠松。彼らが立っていると、扉は扉らしく見える。扉らしく見えるものは、守られやすいが、同時に攻められやすい。異物は、形をくっきりさせると弱くなる。


 海は被服室で保温の準備をしながら、凛の横顔をちらりと見た。嫌悪ではない。恐怖に似た、尊敬に似た、呼び名のない感情。「救命は賭けじゃない」と言った自分の言葉を、彼女は裏切っていない。賭けないための設計を、賭けだと言われる場所に置いた。置かれた設計は、今、票を得た。票は、責任の形を紙から体へ移す。体は、眠るか、震えるか、立つか。


 巫子の囮は三回目で、笠松ではなく、別の足を引き寄せた。北側階段を駆け下りる影。フード。顔は見えない。影は、赤い点の真下でほんの少しだけ、立ち止まる癖がある。点が息をし、それに合わせて首が傾き、また動く。彼らは赤い点に礼拝する。礼拝者は信者か、設計者か。巫子はメトロノームを止め、音源を差し替え、テンポを微妙にずらした。囮が囮であるために、本物のリズムから半歩ずれる。


 倉庫の南京錠は二つで足りない。三つ目の錠前は見つからない。倉庫の扉を閉める音は、重く、きしんだ。閉めずにいられるのか。閉めたままでいられるのか。凛の案は“拘束”を外したが、倉庫はやはり倉庫で、倉庫は眠りを呼ぶ。中に入った者は、毛布に包まれ、体温を分け合い、赤い点の呼吸を遠くに置く。遠くに置けた者は、朝の手前まで眠る可能性がある。朝が手前にある保障は、ない。


 透は歩いた。歩きながら、鍵をひとつ、海のポケットに入れ、ひとつ、由衣のバッグに結び、ひとつ、陽菜の胸ポケットへ滑り込ませた。「預ける」とは言わない。「持ってて」と言う。言葉の選び方ひとつで、鍵は重さを変える。重くしないための分散。軽くしないための分散。両方を同時にやることは難しい。難しいことをやっている間に、夜は深くなる。


 凛はボードに、最後の線を引いた。代表 相沢凛。記録 三上陽菜。付添 ——(必要時のみ)。五時直前の行動計画、チェックリスト。脈の確認、呼吸の確認、体位、無線のスイッチ、時計の同期、赤い点の位置、声を出さない合図。声を出さない合図、という言葉が、教室の中でひどく生々しく響いた。声は奪われやすい。奪われた後に残る合図ほど、暴力に近いものはない。


 廊下の隅で、誰かが短く笑った。優しさのない笑いでも、残酷さのない笑いでもない。隙間を埋める笑い。笑いは、夜の中では危険だ。笑いの方向へ人は集まり、集まった場所に設計が敷かれる。透はすぐにその方向へ目をやり、何も見つけないまま、ホワイトボードの文句をもう一度なぞった。誰も死なない。誰も殺さない。誰も諦めない。今夜、この三つの“ない”は、設計でも統治でもない。祈りだ。祈りは、計算の外にある。外だから、数えられない。数えられないものが、まだ、こちら側に残っている。


 赤い点は呼吸し続ける。渡り廊下の波板は、肺の病のように鳴く。講堂は眠りを装い、無線機は沈黙に牙を隠す。倉庫の毛布は静電気で指先を刺し、被服室の鏡は目を曇らせる。理科室の破片は今も“の”の半分を反射し続け、工具室の鍵は透明の袋の中で白く眠る。掲示板の裏の白線は、誰も見ていないのに、足を挙げた者のふくらはぎの筋肉を冷やす。どこかで、誰かが動線を設計している。誰か、が、今夜いちばん多義で、いちばん近い主語だ。


 凛の案は採択された。けれど、眠りは強制されない。眠らない者は歩き、眠る者は毛布に潜り、半分眠る者は壁に背をつける。眠りの分布は、地図にならない。地図にならないものを、夜は好む。地図は朝のものだ。朝に近づくほど、夜は地図を嫌う。嫌う夜の中で、設計図は紙を離れ、呼吸のリズムへ移る。呼吸が設計を背負い、設計が呼吸を導く。導線の矢印は足音の下で擦れて、粉になり、粉は誰かの靴底へ、それから、教室のホワイトボードの下へ、薄い白い帯として積もる。


 そして、一時半。スピーカーが、まだ言葉を持っていることを思い出したように、喉を鳴らした。

「三年A組、補助情報。『共存の設計図』が登録されました。遵守率——」

 そこで、ほんの一瞬、音が途切れた。機械のため息。あるいは、誰かの指が配線に触れたきのこりの静電気。続くはずの数値は出ず、かわりに赤い点が一拍分、呼吸を忘れた。忘れた呼吸は、すぐに思い出される。思い出した呼吸は、前より少し、浅くなって戻ってきた。


 忘れと、思い出し。その間に、人は決める。決めたことを、いつか忘れる。忘れたことを、いつか思い出す。思い出したときに、まだ互いの袖を掴める距離にいるかどうかが、今夜の設計の成否だ。袖は伸びる。伸びた袖は、朝の光に乾くか、夜の湿りに腐るか。


 透は手のひらを見る。インクの黒が薄く残り、指の腹には白い粉じんの気配。白と黒は混ざらない。混ざらないから、境界が見える。境界が見えると、越えたくなる。越えたくなる衝動を計画に変えるのが設計で、衝動のまま走るのが暴力だ。今夜は、その中間を歩くしかない。歩く先で、また白い線が待っている。線は、矢印でなくてもいい。何でもいい。たとえば、ただの小さな点。赤い点。呼吸している点。点の下で、私たちは、まだ生きている。生きているから、怖い。怖いから、生きる。


 誰かが、遠くで「おやすみ」と言った。やさしい言葉ほど、夜では刃になる。刃は光る。光は赤い点に負ける。赤い点は呼吸を続ける。続ける呼吸の上に、凛はマーカーを置き、透は歩き、陽菜は写真を撮り、海は毛布を折り、巫子はテンポをずらし、柴田は扉の前に立ち、笠松は手すりを握る。比良木は配線の音を聞く。誰かは動線を引く。誰も、まだ、諦めない。

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