第3話 最初の嘘
講堂の扉を押すと、赤い予備灯の呼吸が一気に拡がった。空気は潮気と埃の混合で重く、舞台袖から冷えた薬品の匂いが薄く流れてくる。カーテンの黒はうっすらと濡れて見え、舞台の板は斜めに光を返した。
最初に見つけたのは、倒れている女子だった。舞台袖と舞台の境目、黒いフロアマットの上に横向きで崩れ、額の髪が汗と埃で額に貼りついている。名札は裏返って読めず、白い喉が呼吸のたびに棘のように上下した。
「動かさないで」
小鷹海が駆け寄り、膝をつく。手早く首筋に指を当て、瞼をそっと持ち上げ、反射を見る。意識はある。けれど薄い。頬の色は白い紙の端のように頼りなく、唇は不自然に乾いている。
足もとに、薄い膜が張っていた。照明の死んだ舞台袖でもわかる、ぬめりのある照り返し。洗剤だ。踏み跡が幾つも重なり、滑った軌跡と踵の引っかき傷が、静止画のようにそこに残っている。
「ここ、滑る」
比良木が声を低くして言い、足下にタオルを投げて、周囲の床を吸わせる。タオルの繊維が洗剤を飲んで、すぐに光を失った。
舞台袖の暗がりを、三上陽菜がカメラで舐める。フラッシュは使わない。赤い点滅と、カメラの薄い液晶の白さだけで構図を組む。彼女は床にしゃがみ、黒いゴムのような素材の上に薄く擦りつけられた白い線を見つけた。指で触れると粉が散り、指先が白む。チョークだ。白い線は矢印の形をしていた。舞台の縁に向かって、二つ、三つ、角度を変えながら。
「偶然じゃない。誘導。落ちる方向に、矢が描かれてる」
陽菜の声は、事実を告げる音の高さだった。感情は、写真の画素の外に置かれている。彼女が撮った一枚に、床の白と黒、その間に並ぶアーチ型の靴底の模様が、静かに連なっていた。
被害者の口が、乾いた音で開いた。「押された」
海が顔を近づける。「誰に?」
「暗くて……肩、ここ。ぐ、っと。落ちないようにしたけど、滑って……」
肩の上に、指の形が薄く赤い。握られたのか、支えられたのか、それは判別の境界で揺れている。照明は落ちていた。誰が近くにいたか、証言はすぐに割れた。舞台袖にいた四人が、四人とも違う位置を指し示し、三人が自分ではない方向を見た。見ていないものを見たと告げ、見たものを見ていないように告げる。
講堂の非常扉は、外鍵で閉ざされていた。上の小窓に赤い点の反射が二つ並び、外の黒い雨は窓の曇りガラスにひたすら水平線を描き続ける。ここからは出られない。出られないことを、扉そのものが無言で伝える。
「事故だとしても、危険な仕掛けには違いない」
凛が言った。短く、切るように。「講堂は封鎖。鍵は守備班」
その瞬間、空気が少しだけ傾いた。鍵の重さが一か所に集まり、見えない重心がわずかに移動する。柴田大地が頷き、笠松が手を差し出す。金属の束が移動し、腰のカラビナに掛けられる。音は小さいが、腹に落ちる。
点呼は依然、全員生存。自動音声の淡さは変わらず、しかし語尾のわずかな揺れが、夜更けの呼吸に似てくる。二十三時を過ぎ、やがて零時の針が赤い点滅から浮いて見えるころ、理科室のほうからガラスの割れる音がした。薄い。だが鋭い。耳の奥に切り傷を作るタイプの音だ。
「行く」
比良木と透が同時に言い、理科室へ走る。凛は二人一組のルールを崩さないように陽菜をつけ、海には保健セットを持たせて後から来させた。
理科室は、割れていた。窓の一枚、上部の小さなガラス。床には散らばる破片の円、机の角に当たって跳ねた欠片が細い線を描く。鼻を刺す匂いがする。誰かが吐いた匂い。胃液の酸と、刺激臭。それに混じって、酒精の柔らかい匂い。アルコールが希釈されて流し台に溜まっている。蛇口は閉まっているのに、薄い泡がひとつふたつ、湧いては消える。
窓際に、吐瀉の跡。ほとんど水だが、胃の内容物に混じる、白いパンの粒のような欠片。窓枠には手をついた跡。指が五本、均等に開かれ、掌の中央に古い傷の白い線。流し台へ続く足跡は、途中で重なって薄く消える。まるで誰かが誰かの足跡に足を乗せて歩いたように。
「毒じゃない」
海が言った。ガーゼを折り畳み、吐瀉物の端をそっと拭い、透明な袋に入れる。冷静な作業。「脳貧血を誘う程度の悪戯。洗剤の揮発成分とアルコール。混ぜて、鼻に近づけられたか、自分で嗅いだか。いずれにしても、意識を刈るための強さではない」
「じゃあ、意識を落ちかけさせて……」
透が言い、言葉の先を自分で踏んだ。「拘束するため?」
「『殺さず支配』が進んでる」
凛は断じた。声は静かだが、静かさの奥に凍りがある。「呼吸を奪わない。止めない。でも、自由をいったん外す。外して、その間に構図を組み替える」
構図、という言葉に陽菜が反応した。彼女は割れた窓の外、夜の壁にレンズを向け、角度を少しずつ変えながら、反射の形を追う。破片を拾い上げ、太い破断面に赤い点の光を滑らせる。破片の一枚に、黒いフードの輪郭が映った。顎の線は見えない。鼻梁もない。輪郭だけが、レンズの中に短く現れ、すぐに形を崩した。
「顔は写ってない」
陽菜が呟く。「誰でもあり得る影。けど、影がここに『いた』のは確か」
写真の反射は、目撃者の記憶より誠実に見え、同時に冷たい。冷たさは、慰めに似る瞬間がある。
被害者を保健セットで手当てしながら海がポケットを探ると、金属の触感が指先にぶつかった。鍵。亜鉛の白さ。小さな札。工具室。名前の彫りが浅い。
「どうしてこれが」
凛の目が細くなる。被害者はかぶりを振った。首の筋が弱く動き、額の髪がほどける。
「知らない。持ってない。誰かが入れた」
誰かが、という言葉が四方へ飛び、四方から同時に戻ってきた。凛は工具室の位置をホワイトボードに書き込み、鍵の動線を線で結ぶ。守備班の鎖は鳴らない。柴田が黙ってこちらを見て、笠松の目は笑わない。
「仕掛けのプロはお前だろ」
笠松の手が、比良木の襟を掴んだ。揺さぶる。一度。二度。薄い埃が襟元から浮き、小さな筋を照明の赤が通り抜ける。比良木は叩き落とすように笠松の手を払うこともできた。やらない。代わりに視線を切って、職員室の方角を顎で示した。
「救助の道具は、ここだけだ」
比良木は言った。「屋上じゃない。避難ばしごも、ヘリポートもない。無線機。古いけど生きてる。送信の条件は午前五時。心拍が一名。切り替えはできない。だから、そこを巡って殴り合っても意味がない。無線を壊したら、終わりだ」
その宣言は、火種になった。焚き火の中心に乾いた小枝を一束投げ込むような音が、見えないところで大きく燃え上がる。守備班は用具庫を守っている。無線機は職員室にある。講堂は封鎖され、鍵は守備班の腰に寄っている。鍵と無線と人と、その三点の角度が、ゆっくりと鋭角に変わる。
凛は配置を変えた。守備班は二人を職員室に回し、無線の前で座らせる。記録班の陽菜は所在表を拡張し、鍵の移動も記す。被服室の海は簡易担架を作り、巡回班が見つけた怪我人を滑らせて運べるように用意する。由衣巫子は音楽室で囮の音源を再編集し、手拍子のテンポをずらしたバージョンを複数作る。テンポは人の心拍の真似をして、しかし真似きれないところで人を不安にさせる。比良木は回路図をポケットにねじ込み、天井裏の点検口の位置を書き出す。透は鍵の散らばりを見て、ひとつだけ自分の腰から外し、海に渡した。海は一瞬迷ってから、それを受け取り、白いポケットに沈めた。
零時半。スピーカーが咳をし、点呼を読み上げる。欠員なし。心拍の重複は発生していない。鎮静を推奨。鎮静、という言葉はこの夜に限っては、穏やかではなかった。柔らかい指示は、人の選択を奪う方法のひとつだ。柔らかい縄は細い傷を深く刻む。
講堂の封鎖は、裏目にも見えた。閉じれば安全。閉じれば、そこは独立した領域になる。鍵があれば入れる。鍵がなければ入れない。入れる側と入れない側。その差は、今は小さく、朝までに大きくなる。
透は講堂の扉の前に立ち、耳を扉に寄せた。内側の空気は沈んでいる。沈黙の底に、何かが沈んでいる音。沈んだものは、持ち上げるときに必ず音を出す。その音をいつ聴くことになるのか、自分が聴くのか、他人が聴くのか、それとも誰も聴かないまま朝になるのか。耳の皮膚が、赤い点に薄く焼かれる。
理科室に戻ると、割れた小瓶の破片のうちひとつに、妙な歪みがあるのに気づいた。縁が滑らかに舐められている。自然に割れたなら、もっと荒い刃になるはずだ。誰かが、指で、あるいは布で、破断面を押さえた。指を切らないために。準備が、その優しさを含んでいるとしたら、嫌悪は少し遅れて来る。
「これ、誰か擦った」
透が破片を光にかざす。陽菜がカメラを寄せ、シャッターを落とす。カメラの内部で、破断面の微細な凹凸が画素に変換される。画素は人を裏切らない。人は画素を裏切る。
被害者の女子は、海の処置で少し色を取り戻し、視点が真っ直ぐになった。額の腫れは冷やされ、呼吸はまだ浅いが、音の連続が整っている。
「工具室の鍵、覚えが本当にないのね」
凛が確認する。女子は頷く。頷くという動作は、夜には重い。嘘の頷きは首の筋肉に表情が出る。本当の頷きには迷いが出る。彼女の頷きは、迷いのほうだった。迷いは本当の証拠にはならない。けれど、夜の裁判では、しばしば採用される。
「誰かに、ポケットに手を入れられた覚えは」
「暗いときは……わからない。舞台袖で、肩を……」
肩の記憶はまだ湿っている。湿った記憶は押すと形が変わる。形が変わったことに本人が気づかないうちは、他人がそれを証拠に使えてしまう。
笠松が職員室の無線の前で腕を組み、柴田は扉を背に腰を下ろした。無線機の表面は温度を持たず、硬い。ツマミには白いペイントが剥がれかけで残り、パネルの文字は擦れている。無線の隣に、受話器のようなもの。コードは癖がついていて、バネのように折り返されている。
「ここで助かる」
柴田が言った。宣言というより、呪いのように。「ここで助かる」
同じ文を二度言う。意味は太る。太った意味は刃物で切り分けられない。その代わり、重くて持ち運べない。
「最初の嘘」は、どこから始まったのか。
陽菜は写真を並べながら、自分の中に問うていた。舞台袖の矢印? 被害者の「押された」という言葉? 理科室の窓に映ったフードの影? 工具室の鍵? 嘘はいつでも便利だ。便利な嘘は、案外小さい。便利ではない嘘は、巨大で、すぐに崩れる。最初の嘘が小さいなら、今夜は長い。最初の嘘が大きいなら、今夜は短い。彼女は、どちらを恐れているのか自分でもよくわからなかった。
比良木は、透に小さな紙切れを差し出した。手書きの位置図。無線機。回路盤。心拍センサーらしき箱。天井裏への点検口。その紙の角は指の汗でわずかに柔らかくなっている。
「見ろ」
透は受け取り、凛にも渡す。凛は紙を見ず、比良木の目を見た。目を見ることが、紙を見るよりも重要なときがある。目は夜に弱い。弱さは、信用の一種だ。
「『最初の嘘』は、人を動かすために必要だ」
比良木が珍しく主語の大きいことを言った。「仕掛けには、必ず、入り口がある。信じやすい扉。そこが開いたら、音もなく導線に乗る」
「今、開いた扉はどれ?」
「講堂の封鎖。無線の一点集中。鍵の偏り。意識の偏り」
「じゃあ、閉める?」
「いや。閉めようとして、別の扉を開ける。だから、閉めるふりをして、どれも半開きにする。息が抜ける程度に」
彼の言葉は、理屈というより、配管の図に近かった。空気と水は抜け道がないと溜まり、溜まったものは突然の圧で破裂する。夜もそうだ。夜には、抜け道が要る。抜け道は、安全の保証と、裏切りの通路の両方だ。
零時四十五分。スピーカーが唐突に生き、柔らかい声で言った。
「三年A組、補助情報。『事故』の発生場所は講堂。『事故』は二件。重複した導線を確認。『協定』遵守率は五割。鍵管理は偏在。分散を推奨します」
凛が目を閉じ、ほんの一瞬だけ、呼吸を止めた。協定。事故。遵守率。偏在。どれも引用符の中に置かれたまま、意味がこちらに届かない。届かない言葉は軽い。軽いものは遠くからでも投げられる。遠くから投げられたものは、誰が投げたか見えない。
「推奨に従うのか?」
笠松が言う。凛は首を横に振った。「従わない。けど、選ぶ。選ぶ結果が同じでも、選び方が違う。選び方は、私たちのもの」
笠松は笑わない。そのかわり、受話器のコードを指でつまみ、弾いた。薄い音がした。
被害者のポケットから見つかった工具室の鍵は、守備班ではなく、凛の手で陽菜に渡された。陽菜はそれを透明の袋に入れ、表に「講堂被害者所持」と書いた。ラベルは小さな守り札だ。書いてあるからと言って守ってくれるとは限らないが、書いていないと、夜の間に意味はすぐ腐る。
陽菜はなおも反射を追っていた。理科室の窓の破片に映る影のフードの縁。縁と背景の境界。境界の手前に薄く走る、直線。壁の角ではない。窓枠でもない。複数の破片を寄せ合わせたとき、線はゆっくりと一つの形になる。文字だ。破片を寄せる。平仮名の、は、の片鱗。さらに寄せる。わ。ところがそこから先が見えない。破片が足りないか、全体が崩れているか。
「これ、どうやって映ったの」
陽菜は自問しているのか誰かに問うているのか自分でも判断できない声で言い、破片の角度をまたずらした。は、わ、の、……の。の、の丸の半分の輪郭が、破片の別の面に滑った。言葉は窓に映らないはずだ。映るには、文字がそこに存在しなければならない。存在していないものが、反射の中にいる。反射が嘘をついたのか、言葉が先にあったのか。
最初の嘘は、もしかすると、ここにあるのかもしれない。映っていないはずのものが映っているという、反射の嘘。あるいは、私たちのほうが、見えているものを見えていないことにしているだけの、本当。
零時五十五分。渡り廊下が強く鳴り、波板が内側に押し込まれる音が、腹の底に鈍く響く。教室にいた生徒たちの顔が同じ方向を向いた。赤い点滅が揃って膨らむ。均一。均一さは、暴力とも安全とも親戚だ。
凛は配給の時間を前倒しした。甘さを口にすると、人はほんの一瞬、自分の体の所有権を取り戻す。所有権は夜に奪われがちだ。奪われたまま朝になることもある。奪い返すたび、夜の厚みが少し薄くなる。薄くなったところに、冷たい空気が差し込む。
守備班の中で、柴田と笠松の短い会話があった。言葉は少ない。視線と肩の角度と呼吸の長さで交わされる。二人は無線の前に座る時間を交代で取り、片方は用具庫、片方は廊下を見張る。鍵の重みは分散しない。分散させられないものは、必ず集中して火種になる。火は、火のそばがいちばん冷える。
透はホワイトボードの前で、太くなった文字をもう一度なぞった。誰も死なない。誰も殺さない。誰も諦めない。三度目の線はさらに太くなり、ハッキリと恥ずかしい形になった。恥ずかしさは、夜においては防腐剤だ。恥の薄い膜が、言葉を腐敗から守る。
彼はペン先を止め、外を見た。黒い雨の壁。壁の向こうは海。海の向こうは何もない。ここは学校。学校の中に、知らない学校がある。知らない学校の中で、知っている人間が知らない顔をする。顔は影に似る。影は反射に似る。反射は嘘に似る。似ているものを重ねると、重複が生まれる。重複は、解消される。解消されるとき、誰かが、どく。
そのとき、講堂の扉が、音もなく開いた。守備班の二人は扉の内側にいたのか外側にいたのか、遠目にはわからない。扉はすぐに閉じた。閉じるときの隙間から、冷たい空気が廊下へひと筋流れ出し、赤い点の呼吸が一呼吸分だけ早くなったように見えた。
「今の、誰が開けた?」
「施錠は?」
問いが重なり、答えは重ならない。重ならないことが、最初の嘘の延長線上にあるのだと、誰もが薄々理解している。理解していながら、それを口にする者はいない。口にした瞬間、それは固有名になり、固有名は夜に弱い。夜は固有名を食う。
理科室の流し台の泡は消え、水面は鏡になった。鏡のゆらぎに赤い点が入り、点は丸から楕円に、楕円から線に変形し、また丸に戻る。その丸の中に、小さな文字の破片が一瞬だけ浮いた。の。は。わ。のわ。音ではない。言葉でもない。形の残像。陽菜はそれを捉えきれず、シャッターが遅れて落ち、画面には何も写らなかった。
最初の嘘は、口から放たれたのか。映像から溢れたのか。手から滑り出したのか。鍵の歯の隙間から洩れたのか。答えはどれだっていい。嘘は、扉だ。扉は、誘導線の始まりだ。誘導線を辿って落ちるか、誘導線の上に立って跳ぶか。選ぶのは、今だ。
凛は教室に戻り、短く告げた。「講堂の封鎖は継続。ただし、見張りは守備班と記録班の混成にする。鍵は守備班の手元だが、開閉は記録班の同席なしには行わない。無線は職員室で二名固定、交代は一時間。被服室は開放だが、物資の受け渡しは必ずサイン。囮は音楽室で運用開始。テンポは不規則、二教室に一台。理科室は封鎖、原因が確実に掴めるまで入室禁止」
命令ではない。構図の更新だ。構図が更新されるたび、枝の伸び方が少し変わる。分岐はひとつだったものが二つになり、二つが三つになり、どれかがやがて枯れる。枯れる枝の音は静かだ。静かさは、ここでは、大抵、正しい。
比良木が最後に、短く付け加えた。「もし、無線を奪いたいなら、俺を殴れ。俺は動かない。殴って奪ったという事実が残る」
笠松が彼を見た。見ただけ。柴田の拳は動かない。凛は何も言わなかった。陽菜は写真を撮らない。海は包帯を折る。透は、ペンを置いた。講堂の扉の内側で、何かがゆっくりと位置を変えた。位置が変わる音はしない。音がないことが、眠気の代わりになる。眠らなければ朝は来ない。眠れば、朝は来る。どちらを選んでも、扉は開く。誘導線の矢印は、もう描かれてしまっている。
最初の嘘は、誰の口から放たれたのか。多分、それは——と透が思ったところで、スピーカーが息をして、また沈黙した。答えは、宙に置かれたまま、赤い点の呼吸に合わせてわずかに揺れた。揺れは揺れでしかなく、揺れの中に人は立つ。立っている限り、落ちることはできない。落ちない限り、まだ、こちら側だ。夜は、こちら側の外側に長く伸び、その先に、朝があるかはまだ誰にもわからない。




