第2話 分岐
ホワイトボードに凛が書き出した字は、赤い予備灯の呼吸に合わせて、わずかに膨らんだり痩せたりして見えた。彼女は端から順に、骨子を読み上げる。武器化し得る物資はリスト化して封印。移動は必ず二人以上。水と食料は時間で配給。
声はよく通った。けれど、挙手を求められた手は半分にも満たない。上がりかけた手首が風見鶏のように揺れ、柱の影に引っ込んだ。誰かの喉で乾いた咳が一度だけ跳ね、すぐに飲み込まれた。
「守るには拠点がいる」
そう言ったのは柴田大地だった。野球部で鍛えた肩幅、短く刈った髪。彼は黒いジャージの胸に指を突き立てるようにして続ける。
「体育用具庫は扉が厚いし、窓も少ない。そこを中心に物資を集めて、『守備班』を置く。巡回もする。鍵は守備班が一括管理。緊急時の動きが早い」
答えは議論ではなく、構図の提示だった。彼の近くに立っていた数名の男子が自然に頷き、笠松がゆっくりと合流した。腕を組み、鍵束を睨みつける癖のある目で周囲を測る。均衡は、目に見えないところであっさり偏った。
「鍵の集中は危険だよ」
透は言った。喉の奥がまだ金属の粉でざらつく。「一つの場所に権限が集まると、そこが倒れたときに全部止まる。鍵は分散して預かって、記録して、署名して——」
「記録だの署名だのは、朝が来てから紙でやればいい」と笠松。「今は力を集めるほうが大事だ。鍵が欲しいなら、守備班に入ればいい」
凛は視線だけで透を制し、柴田に向き直った。
「守備班を名乗るなら、班の規約と責任を決めて」
「任せろ」と柴田は即答した。早い。準備していた速度だ。「班員は常時二名以上で用具庫前に立つ。物資の貸し出しは記録して返却時刻を明記。鍵は班長が管理——」
その言葉の先は、まるで既に印刷されていて、読むだけでいい紙のように滑らかだった。既に紙があるのかもしれない、と透は思った。どこかに、こういう夜のための、事前に用意された台本が。
比良木拓は会話から半歩外れ、職員室の前にしゃがみ込み、壁の低い位置に埋め込まれた鉄の扉を開けていた。中には回路盤。太い配線の束、ひび割れた絶縁体、古びたブレーカー。彼は指先で埃を払い、配線の一本に沿って目を細める。古い無線機のベースユニットが、その下の棚に眠っていた。灰色の箱、曲がったアンテナ。さらに、その横に、名のわからない小さな黒い箱が二つ。配線を辿ると、天井へ向かって何本もの細いケーブルが上っている。
「午前五時、自動送信の機構は、ある」
比良木が低く言う。「実在。回路が組まれてる。教頭の印の書類、さっき見たやつと一致する。ただ、送信条件の切り替えは手動不可。ログも閲覧不可。開けるには特殊な鍵かパスが要る」
「誰の鍵?」と凛。
「鵜飼か、校長か、業者。あるいは——」
あるいは、という言葉は風で流された。あるいは、ここの誰か。考える前に、その仮説は舌の上で腐り始める。
教室に戻ると、小鷹海が被服室の鍵を開け、白いカーテンを引き、机の上に包帯、消毒液、テーピング用テープ、脱脂綿を並べていた。並べる手つきに少しも迷いがなく、手順が体に入っている。体育の救護係の経験を持つ彼女は、医療物資をひとつずつ小分けにし、“一単位”という概念を作った。包帯一巻きは一単位。消毒液はキャップ二杯で一単位。テープは肘なら半単位、足首なら一単位。
「物資は通貨になりうる。だから価格を先に決める。交換条件を明文化しておけば、もう少し穏やかにやり取りできる」
彼女の声は落ち着いていて、それが余計に事態の異常を際立たせた。患者のいない仮の診療所は、すでに患者の影でいっぱいだ。痛みの予感が列を作る。誰もまだ血を流していないのに、包帯の価値が上がっていく。
「音でごまかすのはどうかな」
音楽室から戻った由衣巫子が、両手にメトロノームと木のバチを抱えて現れた。メトロノームは三台、カチ、カチと乾いた舌を鳴らし、バチは律儀に光を跳ね返す。
「天井のセンサーが動体と呼吸を拾うなら、音で相手の位置の推定を狂わせられる。カチカチを別の教室で鳴らし、足音をバチで刻み、手拍子を録音してスピーカーから流す。囮」
「自分らの耳も狂う」と笠松。「寝ぼけるだけだ」
「囮は、囮だよ」巫子は静かに言う。「本物と入れ替えるには、偽物が必要」
彼女の言葉には、信仰に似た硬さがあった。音への信仰。リズムの正しさが人を救う、という確信。赤い点滅が、その確信に小さな陰を落とした。
三上陽菜は、配布されたメモ帳の罫線に時刻と名前を記していく。誰がどこにいるか、いつ移動したか、何分戻らなかったか。表計算のセルのように枠が埋まっていく。
最初はみな黙っていたが、やがて反発が起きた。
「監視みたいで嫌だ」
「信用してないの?」
「書かれたくない。誰と一緒にいたかとか」
陽菜は「記録だよ」とだけ言って、ペンを止めなかった。彼女の手は器用に、心拍のような一定さで動き続ける。表の枠は、呼吸の枠に似ていた。枠があると、中身は安心する。枠があるから、不安も増える。
二十二時の点呼。自動音声が、全員生存を告げる。教室の空気が、一瞬だけ軽くなる。軽くなった分だけ、床に小さな粉塵が落ちる。床の粉塵はすぐに靴底に踏まれ、形を失う。誰もそれを気にしないふりをする。
理科室を巡回していた二人が戻ってきたのは、その五分後だった。青白い顔、息は荒く、言葉が追いつかない。
「南京錠が——」
「外されてて、薬品が——」
凛は走った。透も続く。理科室の棚のひとつの扉が、愉快犯のいたずらみたいに無造作に開いている。南京錠は床に落ち、小さな傷を作ったまま転がっていた。棚の最上段、塩素系洗剤のボトルが二本ない。消毒用アルコールの大瓶は影も形もない。過酸化水素の小瓶も一本欠けている。
透明な液体が静かに欠け、世界から少しだけ色が失われる。足元のタイルに、円形の水の輪が乾きかけ、輪郭が白く浮いていた。誰かの掌の跡のようだ。
「殺す準備じゃない」
凛が言った。声は固く、速い。「殺さずに無力化する準備。呼吸を奪い、視界を奪い、動けなくさせる。塩素は混ぜ方次第で刺激臭でも毒でもないただの嫌がらせにもなる。アルコールは火よりも消毒に使えるけど、目に入ったら終わり。過酸化水素は泡で視界を潰す。誰かが、誰かを動けなくする気でいる」
「非致死なら、まだ止められる」
透はそれでも前向きに言った。言った瞬間、自分の言葉が赤い点滅に吸い込まれて、薄くなるのを見た。薄くなっても、言葉は存在を主張する。薄い紙でも、紙は紙だ。燃えやすい。破れやすい。それでも残る。
「先に仕掛けたほうが勝つ」
笠松の声が、背後から静かに落ちた。焚き火に砂をひと掴み投げるような音。「向こうが動く前に手を打てば、誰も怪我しないで済む」
「誰も?」と凛。
笠松は笑わなかった。
渡り廊下の向こうから、鈍い落下音がした。講堂側。舞台装置か、照明か、何か重たいものがひとつ、階段のひと段を踏み外して落ちたような音。いちどだけ、重く、正確に。
誰かが走った。走る音は二つ、三つ、すぐに増えて五つになり、廊下の角で分かれ、赤い点滅に吸い込まれた。
分岐は静かに始まった。見えないところで、意思と恐れのグラフが分かれ、二本、三本と枝を出し始めた。見えるのは枝の影だけだ。影は床に落ち、誰かの靴底に押しつぶされる。
講堂の扉は重かった。鍵はかかっていない。押すと、赤い呼吸が大きな空間に広がった。舞台の上、暗幕が緩く揺れ、鉄骨の梁が遠い海鳴りのように軋む。舞台袖で何かが倒れていた。照明のハンガーに引っ掛けられていたアルミ製の梯子が、横倒しになっている。足元に、黒いテープが切られて散らばり、銀色のネジが数個、光を跳ね返す。
「落ちただけか?」と誰か。
「いや、違う」
比良木が舞台下手の壁を手探りで辿り、スピーカーの裏に片手を差し入れ、何かを引き抜いた。細いコードの先に、小さなプラグ。プラグの根元が、硬い何かで固定されていた跡。接着剤。無理に剥がすと、表面の塗装が少しだけ剥ける。
「音を流す準備。講堂のスピーカーを乗っ取って、囮を作るつもりだった。もしくは、もう作った。誰かがこの空間の『位置』を、耳でずらそうとしてる」
由衣巫子が自分の抱えたメトロノームをぎゅっと握った。彼女の準備はここにも、別人の手にも、同時に現れていた。音の信仰はいつも、複数の教会で同時に祈りを始める。
講堂の観客席の間を歩くと、椅子の背に白い綿埃が細い列を作っていた。列は十列目の中央で途切れ、そこから左に折れて、通路へ、扉へ。誰かがそこに座り、立ち、歩いた。その誰かは、白い綿埃を気にしない人だった。白いものを白いままにしておける人。あるいは、自分の色のほうが濃い人。
透の耳の奥で、呼吸が少しずつ速くなる。スピーカーはまだ沈黙しているのに、音が多い。音が耳のすぐ外側で増え、脳の内側で減る。音の数と質が一致しない夜は、意識の足場を削る。
守備班は用具庫へ戻り、扉の前に立った。柴田は人を二人ずつ配置し、交代の時間を決め、カラビナに慣れた手つきで鍵を付け替え、ひとつずつ腰に吊るしていった。金属が触れ合う音が、群れの主張のように明るい。明るさは、凶器と親戚だ。
凛は被服室で海と物資の目録を整え、透に配給の目安を伝えた。紙コップに入る量が一単位。二時間ごとに一単位。水は残り三ケース。缶詰は二十四。乾パンは五袋。飴は三十個。飴は、あっという間に足し算の対象になった。飴三十。人間三十七。足りない。足りないという数字が体温を奪う。
三上陽菜の表は一段と精密になり、教室の壁に貼られた。列は時刻、行は名前。灰色の鉛筆の線が、人の動線を鉄道の路線図のように結ぶ。重なっては離れ、離れては戻る。その線を見て言う者がいた。
「誰が誰と一番一緒にいるかが、丸見え」
「いいだろ。見えたほうが安心だ」
「安心しない」
「安心する」
意見の数は心拍数に比例した。スピーカーが「鎮静を推奨します」と言う未来が、ふいに近く感じられた。
渡り廊下の膨らみは収まらず、屋根の波板は肺の病を患ったみたいに咳をする。黒い雨の壁は厚さを変えず、外界を一定の距離に保つ。時間は赤い点滅に巻き取られ、二十二時半は二十二時二十分になり、二十二時五十七分になった。正確さはこの夜のどこにも存在せず、唯一正確なのは、呼吸の回数だけだ。呼吸は数えられ、数えられるものは記録される。記録されたものは、使われる。
理科室の薬品棚に戻ると、南京錠は別の扉にかけ直されていた。誰が、いつ。戻してくれたのか、紛らわそうとしているのか。鍵穴に、白い粉が薄く残っている。鍵の歯で削れた金属粉と混ざって、紙の匂いがした。紙の匂いは、ここでは誰の匂いでもあり、誰の匂いでもなかった。
「分岐させないために、分岐を受け入れる」
凛がぽつりと言った。自分に向けて。ホワイトボードの端に、小さく「枝」の字を書き、「枝管理」と添えた。「班の自律性を認める。守備班も被服室班も記録班も囮班も、全部の『班』の動きを互いに見えるようにする。今は、重なることがいちばん危ない。重複は、解消されたばかり」
彼女は無意識にその言葉を使った。重複。スピーカーの言葉。夜の喉が思い出す。重複、解消。誰の上から、誰が、どいた。
被服室の鏡に、透は自分の顔を見た。赤い点が瞳の中心に入り込み、瞳孔を小さな穴に変える。穴から外を見ているのは自分なのか、外から自分を覗いているのは赤い点なのか、判然としない。背後で海が包帯を折り、巫子がメトロノームのねじを巻く音がする。均一のカチ、カチ。誰の心拍とも一致しないテンポ。だからこそ救いになる。あるいは狂気になる。
教室の隅で、透は守備班の輪に近づいた。鍵を、渡せないわけではない。渡せば少しは楽になる。責任の重さは金属の冷たさに似ている。放せば指は暖かくなる。けれど、放したときに冷たさが移る相手を見た。柴田は正義に似た顔をしている。正義の顔は強い。強い顔は、鍵を抱くのに向いている。向いているから、向かないときがある。
「鍵は、朝まで俺が預かる」
透は繰り返した。言葉の骨組みを太らせるために。同じ繰り返しは、意味を厚くする。厚くなった意味は、刃物で簡単には切れない。
「朝は来るのか?」
柴田が言い、笠松が笑わずに見た。
ふいに、講堂のほうから音がした。落下音ではない。複数の何かが同時に軽く触れ合う音。拍手の前の指の準備運動。指先と指先が確かめ合う瞬間に鳴る小さな音の連続。由衣巫子がメトロノームを止め、耳を澄ませた。
「……手拍子?」
「録音じゃない」
比良木が首を振る。「反響が違う。生の音」
凛が即座に二人一組の巡回を再編した。透は比良木と講堂へ。凛と海は被服室周辺。柴田と笠松は用具庫で待機。陽菜は教室に残り、時刻と所在を記録。巫子は音楽室に戻り、囮の準備を続ける。
講堂の扉を押すと、音は途切れた。遅れて、舞台の上でメトロノームが倒れる硬い音がした。巫子の持ってきていたものとは別の、講堂に残されていた古いメトロノーム。誰かがここにも囮を置いたのか、それとも、巫子の発想は誰でも辿り着く簡単な線路だったのか。簡単な線路ほど事故は多い。
舞台袖に、人の影が動いた。透が踏み込むと、影は舞台上に出た。白い糸の束を手に持っている。糸の端は三本、同じ長さで切り揃えられている。被服室で見た、均一の端。影は糸を指に絡ませ、三つ編みにしようとして、やめた。糸は床に落ち、舞台の上で細い蛇のように身をよじり、赤い点の光を吸って褪せた。
「誰だ」
透の声に、影は答えず、舞台の縁から飛び降りた。足音がなかった。板の上で鳴るはずの乾いた音がない。靴底は、床を選んでいる。音を殺す場所と、音を鳴らす場所。影はそれを熟知している。熟知は、夜の中でいちばん怖い能力だ。
追えば、崩れる。追わなければ、崩れる。二つの崩壊の間で、透は一瞬だけ止まった。比良木が先に動いた。扉を出て、渡り廊下へ、講堂から校舎へ戻る方向とは逆へ。彼の動きには迷いがない。迷いがないことは、時に正しく、時に危うい。
渡り廊下の真ん中で、風がビニール屋根を内側から叩いた。音は海の拳のように鈍く、波の背骨みたいに長い。比良木は立ち止まらず、廊下の柵の内側を走り、途中の非常扉に手をかけた。開かない。内側の遮蔽板が落ちている。彼はすぐに手を離し、講堂側の引き戸に手をかけ、こちらも確認して戻ってきた。車輪のように、効率のいい円運動。無駄がない。効率だけが人を救うわけではない。けれど、効率がなければ、人は持たない。
教室に戻ると、陽菜が表を前に腕を組んでいた。眉間に薄く筋が寄っている。普段は緩んだ顔が、今は、締め切り前の編集者のような厳しさを持っていた。
「所在表、穴が出た」
「誰」
「二分間、小鷹海」
透と凛は視線を交わし、すぐに被服室へ向かった。カーテンの隙間から、海の横顔が見えた。額に汗、頰は少し蒼い。包帯をたたむ手は動いていない。テーブルの端、包帯の山の横に、アルコールの小瓶。さっきはなかった。瓶の口は閉まっている。量は、目で見て少し減っているように思えた。思えるだけかもしれない。
「手を洗ってただけ」と海は言った。「消毒。調理室の蛇口、冷たすぎて痛かったから」
凛は、彼女の手の甲の赤みと、指の爪の白さを見た。「どれくらい?」
「数えてない」
数えていないことは、言い訳にならない。けれど、罪でもない。赤い点の呼吸が、答えの代わりに間を埋めた。
用具庫の前では、柴田が眠気を指で押し戻すみたいに目頭を掴み、笠松が無表情で廊下の奥を見ていた。鍵の束は二人の間に吊るされ、小さな振り子のように揺れる。振り子は時間を測る。時間は人を削る。削られながら、二人は立っていた。守る者の姿は、夜に映える。映える姿は、狙われやすい。凛は何も言わなかった。言うべきことは多すぎ、少なすぎた。
そのとき、スピーカーが軽く咳をした。金属の喉の中で、埃がひとつ、方向を変える音。続けて、淡々とした声。
「三年A組、補助指示。『協定』の遵守率は六割。鍵管理に偏りがあります。分散を推奨します。繰り返します——」
凛が顔を上げ、透が凍る。推奨。沈黙の指示よりも、ずっと柔らかく、ずっと具体的な「介入」。協定という単語の引用符。誰かがこの会話を聞き、何かを評価し、指示を送っている。機械か、人か。赤い点の呼吸が、その両者の境界に薄い膜を張った。
「分散、だってよ」
笠松が笑わずに言った。「機械に言われて従うのか?」
「従うんじゃない。選ぶの」と凛。「機械が言ったからではなく、私たちが決めたから」
その違いが意味を持つかどうか、透にはわからない。けれど、意味を持たせ続けない限り、この夜はどこにも行けない。意味は地図だ。地図がなければ、分岐は分岐でしかない。
鍵は一本、透の腰から外され、凛の掌を経て、海のポケットへ渡った。もう一本は比良木へ。もう一本は陽菜へ。守備班は二本を持ち、一本は巫子が預かった。鍵が分散されるたび、誰かの肩の線が少し下がり、誰かの肩の線が少し上がった。均衡は視覚では測れない。体感だけが物差しだ。
夜はさらに深くなった。二十三時。二十三時二十分。二十三時四十分。スピーカーは点呼をせず、沈黙のほうが多くを語った。講堂の囮は動かない。音楽室の囮は準備が整い、巫子がスピーカーに小さな録音機を繋いで、手拍子と足音の短いファイルを流した。カチ、トン、トン。トン、カチ、トン。廊下の端で、センサーの赤い点が一瞬だけ速度を早め、すぐに戻った。追いかけた何かを見失った者の目のように。
配給の時間。紙コップに水を注ぎ、飴を数えて配り、乾パンの袋を切る。ほんの少しの甘さが喉を通る。甘さは生存の証拠に近い。甘さを舌で確認するたび、心が一秒だけ現実に戻る。現実は苦く、甘い。両方で、人は夜を持つ。
透は窓際に立った。外は黒い雨の壁。壁の向こうに何があるのか、想像は容易い。海、町、鵜飼の家、彼の机の引き出しにしまわれた回路図、決裁印。壁のこちらに何があるのかも、容易い。人、鍵、呼吸、鎮静の推奨。容易すぎる想像は罠になる。罠を避けるための想像は、罠と背中合わせだ。
「透」
凛の声。近い。「五分、座って」
「まだ動ける」
「動けるけど、止まらないと、動けなくなる。今は、止まる『勇気』が必要」
勇気にそんな種類があると、初めて知った。止まることが、動き続けるより難しい夜。透は椅子に座り、額を指で押さえ、ゆっくりと息を吐いた。呼吸が赤い点のテンポからずれ、また合う。ずれるたび、夜が少しだけ柔らかくなる。合うたび、固くなる。
誰かが笑った。短く、今夜まだ聴いたことのない調子で。優しくも残酷でもない、空気の隙間を埋めようとする種類の笑い。教室の出入口のほう。陽菜が顔を上げる。表の上、二つの線が、同じ時間に同じ位置で重なっている。重複。線を指でなぞる。名前が二つ。由衣巫子。小鷹海。被服室の前。正確には、その手前の角。
「記録、更新」
陽菜の声は、紙の端のささくれをちぎるみたいに静かだった。
凛は立ち上がった。分岐は、もう始まっている。枝は放っておけば増え、切れば増える。どちらにしても増える。ならば、せめて枝の伸びる方向を、こちらで選ぶ。凛が向かう。透も立つ。鍵が腰で鳴る。金属の音は、夜の中で唯一、温度のない音だ。温度がないから、体温を奪う。奪われながら、歩く。歩きながら、決める。決めながら、怖がる。怖がりながら、進む。
被服室の角を曲がると、カーテンの向こうに二人の影が見えた。巫子はメトロノームを持ち、海は包帯を両手で延ばしている。その中間に、誰かの背中。見たことのない背中。背骨の並びが均一で、肩甲骨の出方が、少しだけ古い教科書の図に似ている。背中は振り向かない。巫子のメトロノームが、カチ、とひとつ鳴り、止まった。
背中が消えた。音もなく。消えたというより、視界の穴に落ちた。穴は赤い点の中心にあり、点は呼吸を止めない。呼吸は続く。続いてしまう。誰かがそこに立っていた事実だけが、残る。
夜は分かれ、合わさり、また分かれた。分岐は、静かに、しかし確実に太くなる。太くなった枝の上に、朝は来るのか。来るなら、どの枝に。来ないなら、枝はどこへ。透は、答えを用意しないことを選んだ。用意すれば、答えに引っ張られる。引っ張られれば、枝は折れる。折れた枝の先にいるのは、誰だ。
スピーカーは黙ったままだった。黙ることで、言葉より多くの指示を出すやり方を、誰かがよく理解している。赤い点の呼吸は一定で、一定さは狂気の礎になる。一定さに身を委ねれば、眠れる。眠れば、夜は短くなる。眠らなければ、夜は長くなる。長い夜は、分岐の数を増やす。増えた分岐は、誰かを選ぶ。選ばれた誰かが、朝、心拍一名として送信される。その朝は、救いか、嘲笑か。
教室に戻り、透はホワイトボードの前に立った。マーカーのインクはもう少ない。キャップは割れている。割れた蓋の破片は机の隅で静かに眠り、赤い点の呼吸に合わせてほんの僅かに影の長さを変える。透は同じ文句を、三度目になぞった。誰も死なない。誰も殺さない。誰も諦めない。
文字は太くなり、丸みを帯び、子どもの字のように見えて少しだけ恥ずかしかった。恥ずかしさは、夜の中で珍しい感情だ。珍しいものは、価値がある。価値があるものは、狙われる。狙われることを、今夜だけは、許すことにした。
渡り廊下が、また大きく鳴った。遠い雷のような空洞音とともに、屋根の波板が内側に一気にしぼみ、それからはじけるように戻った。空気が薄くなる。誰かが浅く息を吸い、吐く音が、教室の四隅に散った。
分岐は、もう戻らない。枝は伸び、節を作り、葉を出し、見えない花を咲かせるだろう。花は匂いを持つ。匂いは記憶に貼りつき、記憶は人を動かす。動いた人は、記録される。記録は使われる。使われた記録は、誰かの手の中で意味に変わる。意味は地図。地図は、出口か、袋小路か。
夜は深まる。教室の空気は冷え、赤い点の呼吸は、まばたきのように一定だ。透はその光の間に、わずかな暗闇の縁を見た。縁は薄く、しかし滑りやすい。そこに指をかければ落ちる。落ちないために、人は互いの袖を握る。袖を握れば、袖は伸びる。伸びた袖は、朝の光に乾くか、夜の湿りに腐るか。どちらにしても、今は握るしかない。
分岐は静かに始まった。もう止まらない。止めない。止められない。そんな言葉の違いを、今夜は区別できない。区別できないまま、透はマーカーを置いた。指先に残った黒いインクの臭いが、不思議と安心を連れてきた。紙の匂い。墨の匂い。ひどく人間的な匂い。
その匂いを嗅いだ瞬間、教室のどこかで、誰かが深く息を吐いた。ため息ではない。呼吸の、選択。生きるほうへ体を傾けるための、小さな角度調整。透は目を閉じ、同じ角度で、同じほうへ、ほんの少しだけ傾いた。赤い点が、瞼の裏で、星のように脈打った。星は遠い。遠いものを見つめると、近いものが見えなくなる。見えなくなるから、怖さは静かになり、静かになった怖さは、長く続く。長く続くものは、朝に近い。そう思えるうちは、まだ、こちら側だ。




