第12話 朝
外気が流れ込んだ。割れた窓枠から、まだ冷たい海の匂いと、濡れた砂の重たい気配が入り、夜のあいだ校舎の内側で熟しつづけていた古い木材とチョークと人いきれの混合臭を、じわじわと薄めていく。防火遮蔽板が重機で押し上げられ、鉄の縁が擦れる高い音が最後の抵抗のように鳴って、それから音はひとつずつ途切れていった。救急車のサイレンが遠ざかりはじめる。廊下を食い尽くしていた白い粉塵は、踏まれて、吸い込まれて、薄明の色に溶けていく。
東の空が、黒から灰に、灰から薄い群青に、そして群青の底からオレンジの糸がにじむ。夜の終わりの色だ。たしかに「終わり」という言葉が似合うはずなのに、目の奥ではまだ終わっていないものがざわざわと残っている。生き残った生徒たちは、防寒シートを肩にかけられ、講堂に集められた。舞台袖の布は湿って重く、天井の照明は消えたまま、臨時で持ち込まれたスタンドライトが白い輪をいくつか床に落とす。輪の中と外で、温度が違う。輪の中に座る者は寒さを言い訳にできるが、輪の外にいる者は言い訳を選ぶ前に沈黙の形を整えなければならない。
担当の警官が、硬い声で言う。「順に、事情を。焦らなくていい。順番に話してくれればいい」——言い回しは配慮を纏っているが、その中にある「順番」という言葉の直線が、誰の喉にもひっかかった。順番。順番に選ばれ、順番に眠らされ、順番に起こされ、順番に名前を呼ばれ、順番に失われた夜だったのだ。今さら、順番の上に自分の声を置くことのむずかしさに、誰も口火を切れない。
春日透は、防寒シートの下で両肘を抱え、膝の上に載せたカメラの液晶を開いた。三上陽菜のカメラ——彼女が壁の地図に貼り、剝がし、また貼り直しながら、夜を「見える」にしていった記録の器。メニューの階層を辿り、最後の一枚を呼び出す。液晶の中に、渡り廊下が現れる。雨に濡れ、均一な水膜に覆われた床。そこに、素足の踵の半月が、ひとつ。半月の縁には粉が薄く残り、水に少しだけ溶けて、鈍い光を孕んでいる。半月の向き。その向きは——校舎の内へ。写真の端には、凛の足の指がぼんやり映り込んでいた。踏み出す。離れるためではない。止めるための足だ。止める必要があるものへと向かう、短い歩幅。
透は液晶を閉じ、カメラを胸の前で両手で包む。冷えた金属の感触が掌に移り、それが体温で少しずつやわらぐ。カメラの重みは軽い。軽いのに、持ち上げると肩が少しだけ下がる。自分より「見る」ことに長けていた者の重みは、物の重さに収まらない。
相沢凛が、透の前に立った。防寒シートの端を腕にかけ、目の下に薄い影を落としている。影は、疲労の影というより、言葉の居場所を探している影に見えた。彼女は口を開く。
「代表は、あなた」
ひどく静かな言い方だった。「私は——」
言い終える前に、透は首を横に振った。振り方はゆっくりで、相手の言葉を消さない。
「代表なんていない。俺たちは、たまたま朝に残っただけだ」
凛は唇を噛み、目だけで頷いた。その頷きは、同意ではなく、次の言葉のための助走のようだった。
「でも、私は投票を言い出した。それで、死が出た」
透は、嘘を持たない声で告げる。
「なら、その事実ごと生きる。言葉で責任を取るんだ。全部、記録に残そう。あなたが嫌いな『物語』の形じゃなくて、手順と、温度と、揺れのまま」
凛の喉仏が、布の下で小さく上下した。「わかってる」とは言わない。ただ、彼女は自分の指先を握り、爪の白い半月を確かめる。彼女の半月は、液晶に写った素足の半月より、まだ濃い色をしていた。
講堂の扉が開き、校門の外のざわめきが、薄く流れ込んでくる。中継車の列。伸び上がったアンテナ。レンズの群れ。呼吸をする黒い箱が、「学校の闇」という見出しを喉の奥で転がしては、より刺激的な言い換えを探しているのがわかる。教頭・鵜飼の不正。遮蔽装置。保険金。業者との癒着。いくらでも踊らせられる言葉は、彼らの踝と膝で軽快にリズムを刻むだろう。けれど、素足の足跡は載らない。白いチョークの矢印も、迷走神経反射の限界も、包帯の巻き方の癖も、写真の反射に写った「使われた手首」も、新聞には載らないだろう。載らないもののなかに、夜の核心があると知っているのは、ここにいる者たちだけだ。
解散の前、由衣巫子がポケットから小さな布袋を取り出した。音楽室から、ほとんど無意識の手つきで持ち出していたやつだ、と彼女は小さく笑う。袋から出てきたのは、細い音叉。彼女はそれを親指と人差し指でつまみ、膝でそっと弾いた。澄んだ音が、薄明かりの中でふくらみ、講堂の高い天井に届いて、そこで少し遅れて戻ってきた。戻りながら、誰もいない椅子の上で音は薄く拡散し、三上陽菜の席だけが空洞として残る。誰も、言葉を足さない。足すべきではないことが、全員の中で同時に了解された。
午前の冷たい陽光は、やがて講堂を出て、処置された廊下に広がり、渡り廊下の波板にぶつかって細かく砕けた。救助隊のテープが剝がされ、警官の聞き取りが順に進み、保護者の車が校門の外に列を作り始める。各自解散——と短く言われ、集合より難しい解散が始まる。散ることは、集まるよりも勇気を要する。集団の中で自分の重心を隠していた身体は、散った途端に、重心の位置を自分で決めなければならないからだ。
後日談は、朝の匂いの中にはまだ混ざらない。だが、既に始まっていることがある。校内の掲示板の空きスペースに、簡易のコルク板が追加され、職員が紙をとめるピンの数が足りないとぼやいた。そこに「記録の掲示板」が設置されるのは数日後だった。名前の欄はない。三上のマップは、識別できる固有名をすべて匿名化され、「動線は誰かの意思を運ぶ」という一文が添えられた。意思は、善にも悪にも運べる。運ぶ道の上で、意思が変質することもある。それでも、運ぶという事実は変わらない。紙の端に、小さく、鉛筆で「戻る道を先につくれ」と誰かが書き足し、あとで誰かが消しゴムで薄くした。完全には消えない。消え残った鉛の粉が、光で銀色に光る瞬間がある。
小鷹海は、保健委員として訓練手順を整理した。冷却の順番、四肢挙上の角度、呼吸の確認の間隔。迷走神経刺激を素人がやってはいけない理由を、子どもに伝わる言葉に置き換え、校医と一緒に救命講習のテキストを作る。自分が夜に口にした「治す権利」という言葉が、今は「治す技術」と「治さない勇気」の両方を必要としていることを、彼女は骨の中の疲労で知っている。講習の日、彼女はトレーニング用の人形の胸に手を置き、圧迫をしないやり方での「見守り」の練習を繰り返させた。「見守り」は、行為だ。何もしないことではない。その説明にいちばん時間がかかった。
笠松迅は、体育用具庫の鍵の管理ルールの見直しを提案した。人数による預かりではなく、時刻と目的のログを必ず残すこと、そして「誰が持つか」ではなく「どのタイミングで解放するか」を先に決めること。暴力を正義と勘違いした自分が、鍵の束を握ったときに何者にでもなれると思ってしまった事実から、彼は目を逸らさなかった。拳を壁に叩きつけた時の赤い痛みではなく、結束バンドを持つときの指のこわばりを、彼は恥じた。謝罪の言葉を紙に書いて配る——それは儀式に見えて、実は彼自身に刻印するための手段だった。受け取った者のうち、何人かは紙を持ち帰り、何人かはその場で破った。破られた紙の音は、夜の紙の音とは違って、軽かった。
柴田大地は、守備班を解散した。解散のための「号令」は出さなかった。班を作ったときの高揚も、班でいることの安心も、いま自分の口から出す言葉には似合わないと知っていたからだ。彼は一人ひとりに近づき、「ありがとう」と「ごめん」を、順不同に言った。順番が崩れても、言葉は届く。届くとき、彼の手はかすかに震えて、震えた手から鍵束が救助隊へ渡った。鍵はようやく「物」へ戻った。誰かの人格や優位の象徴ではない、ただの金属へ。
凛は、生徒会選挙に出なかった。代わりに、「危機時の意思決定」についてのレポートをまとめ、匿名で学校のネットワーク上に投稿した。タイトルも、一文目も、名前を載せるべきではない文章だった。「最小の犠牲」は、道具だ。理念の格好をして、権力に持たれたとき、最短で「多数の犠牲」に変わる。選ぶことそのものが誰かを捨てることに直結してしまう場では、選択の前に道を増やす作業が必要だ——凛のレポートは、理屈の硬さと、夜の温度を両方持っていた。その文章は、誰かを責めるためではなく、自分の背骨を立て直すために書かれたものだと読む者に伝わった。彼女は署名を入れなかったが、読む者のいくらかは書き手の角度で凛を思い浮かべた。思い浮かべたまま、署名がないことに安心した。責任は、名前ではなく、書いた内容の中に固着していたからだ。
比良木拓は、新しい非常回線の図を作った。無線機の脇に残っていたサービスマニュアルの古いページに、自分の書いた線を重ねることはしなかった。別の紙。別の規格。別の色。図の右上には、「心拍一名」の条件を否定する大きな斜線が引かれている。あの一発勝負を通せたからといって、次も同じやり方を選ぶべきではない。成功が再現可能性の証拠ではないことを、彼は最初に記した。図は、学校へ、そして地域の防災ネットワークへ手渡され、専門家の赤でさらに書き足され、線は太く短くなっていった。短くしたのは、間違いの余地を減らすためではなく、迷う時間を減らすためだ。迷うべき場面と、迷うと死に寄る場面は、別にある。
朝の海は、人を許さない明るさで水平線を示していた。透は、海辺の防波堤に立って、三上のカメラを構える。ファインダーの中に、さっき講堂の天井に届いた音の澄みが、そのまま色になって広がっている。シャッターを押す。音は小さい。夜のあいだに耳の奥で鳴り続けた鈴の気配とはちがう、小さな、しかし確かな音。背後で、由衣が音叉を鳴らした。澄んだ音が風にほどけて、波の白い口の端で消える。比良木は近づいて、新しい非常回線の図を透に手渡す。紙の角は、すでに何度か折られて癖がつき、折り目の白い線が朝日に細く光る。そこには、“心拍一名”なんて条件はない。代わりに、“二重化”“承認の分散”“安定化までの時限手順”といった無機質な語の列が、やけに頼もしく見えた。
夕方、透は封筒を一枚用意した。投票の紙束を中に入れ、一番上の紙をそっと抜き取る。角が粉のせいで少し柔らかくなっている。黒い筆圧は薄く、水の気配ににじみかけている。そこに書かれた名を、丸く囲む。自分の名前。夜に、誰かが、誰かを選んだ。その円は、攻撃ではない。自分に向ける刃の輪郭の確認だ。透は円を見つめ、深く息を吸い、ゆっくり吐いた。生き延びたことの責任は、時間とともに軽くなることはない。朝が等しく来るからといって、等しく償われるわけではない。けれど、朝が等しく来るという事実だけは、確かに支えになる。
三上の家の前。ポストの口は古く、色の剝げた塗装の縁が指先にざらりと触れた。透は封筒を差し入れ、落ちる紙の音を聞いた。紙は、落ちるときも静かだ。静かさは、誠実さとは限らないが、不誠実でもない。扉は開かない。開かない扉の前で、透は靴裏で地面の小さな石をひとつ踏み、音を確かめる。何も言わないことが、何かを伝えることになる場面は、たしかにある。
校舎に戻る。旧校舎の渡り廊下では、まだ白いチョークの粉が、板の隙間に残っている。指の腹で触れると、粉は指につき、人差し指と親指の間で簡単に消えた。次に雨が降れば、完全に消えるだろう。消えても、導線は消えない。彼らの足は、別の導線を選べるはずだ。選ぶための恐怖は、夜に置いてこられない。けれど、恐怖を連れて歩く方法は、朝に学べる。
講堂に戻る前、透は渡り廊下の中央で立ち止まった。名簿の読み上げは、もうない。代わりに、点呼の声を自分で始めればいい。夜、機械の喉がやっていたことを、人の喉でやるのは怖い。自分の声が、自分の耳に届く距離で揺れるのを見るのは、もっと怖い。それでも、透は、小さな声で呼んだ。
「いるか?」
返事は、すぐには来ない。朝の音は、遅延してから戻る。由衣が、「いる」と言った。海が、「いる」と言った。比良木が、「いる」。笠松は、照れくさそうに咳払いをしてから、「いる」。柴田は、短く、「いる」。凛は、少し間を置いてから、「いる」。言葉は、呼ばれた名にだけ向かって落ちる。返事の列は、夜の点呼より遅く、しかし確かに揃った。欠けている名前が、二つ。二つは、そして、二つのままだ。増えもしないし、戻りもしない。その事実が、痛みとともに、背骨のまっすぐなところに収まっていく。
朝の光が、全員の顔を公平に照らしていた。公平という語の中にある冷たさは、今朝だけは、刃ではなかった。光は、紙の角と、包帯の端と、カメラのレンズと、音叉の先と、図の線を、同じように照らした。透は、赤くも青くもない光の中で、ゆっくりと息を整えた。呼吸は音ではない。音より薄く、刃より冷たい。冷たいものを胸の奥で温め直しながら、彼は歩き出した。床板が、かすかに鳴った。その鳴りは、夜の罠の合図ではない。朝の、ただの足音だった。
――――
<了>




