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午前五時の生存者――五時ちょうどに、生きているのが一人だけなら——救助が来る。  作者: 妙原奇天


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第11話 最後の点呼

 五時ちょうど。赤い点が、息を吸った。吸いきった刹那、名簿の自動音声が喉を開いた。「三年A組、点呼を開始します」。その第一音と同時に、無線機の小さな世界で色が入れ替わる。送信ランプが赤から緑へ。緑は冷たい。春日透は、その冷たさを自分の胸の内側でなぞるように呼吸を整え、相沢凛の横顔を見た。凛は一度だけ深く息をつき、指先で三十秒のカウントを切り始める。指の動きは、時計の針ではなく、心臓の弁に似ていた。

 被服室。比良木拓が声を落とす。「足先から温める。四肢の末端、次に腋窩。急に心臓へ戻すな」。ステンレスのボウルに張ったぬるい水の匂いが、夜の終盤の金属臭に薄く重なる。保冷剤はすでに布に包まれ、毛布の下で取り上げられていく。由衣巫子はメトロノームの代わりに自分の声を選んだ。ゆっくりだった夜のテンポを、少しだけ上げる。短く、細く、途切れさせない。「いち、に、さん、し」。その拍に合わせて、名簿の読み上げが重なる。機械の声が人名を呼び、声の間に浅い呼吸の音が挟まり、床板が重く応える。

 十秒。誰かの指が動く。寒冷で眠らされていた筋肉が、最初の拒否をやめる。二十秒。胸郭の上下が順に揃い、脈の拍が一段階上がっていく。爪床の色が、白から、薄い桃色へ。凛が職員室の扉の縁に手を置き、指で刻んだ拍の数を心の中で反芻する。二十五秒。戻ってくる。戻ってくる音は、静かだ。戻らない音も、静かだ。

 戻らない。ひとりだけ。三上陽菜だ。

 粉塵で倒れたとき、胸郭の動きが浅すぎたか。迷走神経反射が深く長く沈みすぎたか。小鷹海はすぐに三上の顔に手を寄せ、気道の角度を調整する。顎先をわずかに上げ、舌根の居場所を変える。鼻翼の広がりと胸骨のわずかな上下を目で追い、頸動脈の拍を指先に探す。薄い。いる。いるが、遠い。遠さは、皮膚の厚みで測れるほどの差しかないのに、こちら側からは地平線の距離に思える。

「刺激入れる。強くはしない。合図で息を合わせる」

 海の声はここまでの夜で最も低い。指の腹で三上の胸郭に軽い圧をかけ、次に胸骨の上を撫で、指先で眉間を一度だけ擦る。痛みで無理やり引き戻さない。痛みは、戻るべき場所の目印にだけ使う。

 三十秒。凛の指が止まり、職員室の窓へ走る。外はまだ黒い雨の壁だが、遠くのその向こうに、回転灯の赤い円が、夜の皮膚を薄く切り裂いていた。遠い。けれど、確かに動いている。「来る」。凛は息で言い、透は背中で聞いた。

 透は走った。赤い点の呼吸が廊下の天井で乱れ、渡り廊下の波板が肺の悪い音を薄く残す。被服室の戸口を足で押し開け、床に膝をついて三上の顔を覗き込む。睫毛に白い粉が薄く残っている。瞼の皮膚はうすく、冷えて、光を吸わない。脈は微弱。微弱という言葉は、卑怯だ。生きている側の希望と、死にかけている側の苦痛を、同じ音で包むから。

 しばらく遅れて、凛が辿り着いた。彼女は「ごめん」と言いかけて、言わずに膝をつき、三上の胸へ片手を当てる。自分の拍を合わせるみたいに。彼女の指先が震える。震えは、恐怖の形だけではない。震えは、食い違いを体の内側で修正している証拠でもある。修正して、間に合わせる。間に合わせたら、朝に連れていける。

「戻って」

 凛は、囁きではなく、短い息で言った。呼び戻す声は小さくていい。大きい声は、現実を傷つける。透は三上の手を取った。彼女の手は、温度を失いかけた布の手のように軽い。指の間に、破れたカーディガンの糸が絡まっている。黒に近い灰。きしむほど撚られていて、その撚りの中に粉が沢山入り込んでいる。三上のカメラは、彼女の右側、毛布の折れ目のところに伏せられていた。レンズは下を向いているのに、最後の数枚は凛の横顔をきちんと捉えていた。粉の曇り越しに、真っ直ぐな線で。

「私が、壊した」

 凛は小さく言う。謝罪の形ではない。事実の輪郭を自分の口で確かめるための言葉。透は否定しない。否定は、夜には甘い。甘いものは、喉で詰まる。

「生きてる者の責任を果たそう」

 彼はそれだけを言った。責任という語は、夜の間使い続けられて刃こぼれしているはずなのに、今はなぜか、よく切れた。凛の瞳孔がわずかに締まり、指の震えが一瞬止まる。

 三上の胸の下で、か細い拍が一度だけ跳ねた。跳ねて、沈む。海は呼吸の導線を変え、頬に掌を当て、耳元に自分の息をわずかにかける。体は、別の体の息に呼ばれると、戻りやすいことがある。誰とも入れ替われない臓器の仕事なのに、帰り道だけは、驚くほど他者的だ。

 救急隊が鉄扉を切断する音が校舎に入り込む。刃が鉄に入るたび、空気が嫌な匂いを出す。火花の金属味。音は硬く、しかし人を安心させる成分を含んでいる。外からの音は、夜の密室を物語ではなく現実に戻す。渡り廊下の防火遮蔽板が持ち上げられ、救助のブーツが床に入る。医師が駆け寄り、簡易モニタが三上の胸の横に置かれる。表示は……細い水平。何も書かれていない線より怖いのは、何かが書かれているふりをして水平な線だ。

 再度の蘇生は、成立しなかった。

 音がひとつ、抜けた。廊下の赤い点の呼吸、遠くの雨、救助隊の指示の声、器具の金属音、足音。それらの全てが、ひとつの音が抜けたあとの穴を埋めようとしている。埋めようとして、埋まらない。埋まらない穴は、時間をそのまま落とす。落とされた時間が、床下で鈍く沈む。

 教頭・鵜飼はすぐに拘束された。救助の手が校舎に入り込むと同時に、彼の両手は別の種類の結束で固定される。鵜飼のスマホが押収され、画面には保険会社とのやり取り、遮蔽の手動作動ログ、施工会社の内規のPDF。だが、致死罠の設計図は出てこない。物理的な線は、どこにも残っていない。設計者は、記録を残さない。残さないことを設計している者だ。凛は救助隊の事情聴取で黙っている。口を閉ざすことが、言い逃れではなく、言葉の温度管理になる場がある。今がそれだ。

「彼女は殺していない」

 透は繰り返した。繰り返すたび、言葉の刃こぼれは少しずつ減っていく気がした。比良木は配線図と手順書を救助隊に手渡し、「このやり方はギャンブルだった」とだけ告げる。事実の位置をはっきりさせるための線引きだ。由衣は共鳴箱を抱えて、涙をこらえる。箱は軽いのに、抱える腕はきつい。低音を鳴らしていた空洞が、今はやけに静かだ。笠松は拳で壁を叩く。壁は痛まない。自分だけが痛む。「何もできなかった」と吐き捨てる声は、誰の耳にも届かない高さで、しかし部屋の隅でいつまでも輪郭を保った。柴田は救助隊に通路確保で素直に協力し、震える手で鍵束を返す。鍵は、ようやく人の手から離れた。

 名簿の最後の読み上げが終わる。機械の舌が、夜の総括を短く言う。「死亡二名」。その言葉は、長い夜より重い。重さは、肩にではなく、背骨の一番下に溜まる。立っている者の姿勢を、内側から少しずつ壊す。凛はその重さを、背負い直すことをやめない。彼女は三上のカメラを拾い上げ、透に渡した。手はまだ震えている。

「これを、あなたが持って」

 透は受け取り、レンズの蓋を指で撫でた。粉の薄い膜が、指腹に移る。記録の体温は、まだ残っている。

「動線マップはあなたの物語にして。私のじゃない」

 凛は言った。言い終えて、自分の言葉に少し驚いたように息を吸う。彼女は、物語を嫌う。物語は、責任の輪郭を柔らかくするから。

「みんなのだ」

 透は首を振った。言ってから、言葉の居場所を探した。みんな、とは誰だ。ここにいる者たち。今はいない者たち。もういない者たち。壁の紙に貼られた線と、床に残った水のひかり、粉の匂い、共鳴箱の沈黙。物語は、物ではない。けれど、今は確かに、手に持てる重さをしている。

 救助隊が運び出す動線は、夜の設計とあまりにも違う。太く、まっすぐで、他者のために広い。床に置かれた器具の影がきれいに揃い、誰も滑らないように、濡れた場所に布が敷かれる。均される湿り。均された湿りは、もう証拠にならない。証拠ではなく、衛生になる。生者のための猛々しい整理整頓が、夜の中に割って入る。

 凛は事情聴取の椅子に座り、しばらく何も言わなかった。救助隊の若い隊員がペンを握り、紙の上に質問の順番を整える。凛は、自分の言葉を選ぶ前に、自分の沈黙の形を選んでいる。透は遠くからそれを見て、凛の肩の線が、三上の写真に写っていた角度と同じだと気づいた。角度は、いつも犯人を示すわけではない。角度が示すのは、その人の重心だ。重心は、嘘をつかない。

 体育用具庫の前で、笠松は一度だけ座り込んだ。片手で肩を押さえる。粉まみれの床に汗のしみが落ち、すぐに形を失った。彼は黙って立ち上がり、扉の蝶番に指をかけてみて、何も言わずに戻した。力で壊すべきものと、壊してはいけないものの区別は、夜が教える。夜にしか教えない。

 講堂の緞帳にはまだ、凛のカーディガンから裂けた糸が絡まっている。三上の拡大写真は壁から剥がれかけ、その角が、かすかな風で震えるたび、紙のこすれる音を出す。紙の音は、夜に似合う。夜は、紙に似合う。比良木はその紙を外すか迷い、外さなかった。外すべき時刻は、もう少し後だ。外さないことで、今は誰かの位置が守られる。

 鵜飼は連行される前に、短く目を閉じた。目の閉じ方が祈りに似ていたので、透は不快になった。祈りは、ここでは免罪符ではない。彼は一歩近づきたい衝動を喉で止め、自分の爪の先に入り込んだ粉の白を、親指の腹でそっと落とした。白はすぐ散る。散った粉は、足元の水膜に薄く溶けて、朝の光で見えなくなるだろう。見えなくなることが、救いに似ているから、なおさら赦せない。

 被服室の隅で、由衣は共鳴箱を膝に置き、蓋の裏を開けた。抜かれていた電池の収まりを確かめ、端子を指で軽く触れる。微かな痛み。静電気は、玩具の罰に似ている。彼女は電池を戻さなかった。戻せば鳴る。鳴った低音は、今はきっと、三上の胸に届かない。届かない音を鳴らすことが、今夜の最後の侮辱になってしまう気がした。

 点呼は終わった。最後の読み上げの後、機械は黙る。黙るという仕事を、機械はうまくやる。人は、黙るのが下手だ。黙ると、罪と責任と偶然の配分を、頭の中で何度も並べ替えてしまうから。透は職員室の扉の縁に手を置き、爪で古い塗装の厚みを感じた。これを剥がすのは簡単だ。剥がした下に別の色が出てくる。別の色は、明るいのか、暗いのか。それを確かめる時間は、まだ来ていない。

 外では、回転灯の赤が波板の影を切り刻み、救急車のドアが開いて閉じる。担架が滑り、ストレッチャーの金属が軽く鳴る。鳴るたびに、夜が一枚ずつ剥がれていく。剥がれた夜は地面に落ち、雨で溶けて、側溝に流れる。流れていくものを、誰も止めない。

 凛は立ち上がり、透の方へ歩いた。歩幅はまだ、渡り廊下で靴を脱いだときの短い癖を引きずっている。素足の記憶は、靴に戻っても消えない。

「ねえ、春日」

 凛は、名前を呼んでから、言葉を選ぶのをやめた。「今、私が何を言っても、正しくない」

「言わなくていい」

 透は答え、カメラを胸の前で持ち直した。ストラップに白い粉がまだ残っている。指先で払う。払っても、少し残る。残った粉は、今日中には落ちないだろう。落ちないものを、無理に落とす必要はない。

 海がそっと近づき、凛の手首に新しい包帯を巻いた。凛はそれに気づかなかったふりをして、包帯の端でわずかに笑った。笑いは、誰にも見せない。見せない笑いは、少しだけ体温を上げる。体温は、責任の重さをほんの少しだけ軽くする。軽くなった重さは、また肩に戻る。

「行こう」

 比良木が言った。言葉の方向は出口に向いているが、顔は壁の地図に向いている。地図は、誰の物語にもならない。けれど、誰の歩幅もそこに刻まれている。透は頷き、カメラを肩にかけ、最後にもう一度だけ被服室を見渡した。床に、濡れた素足の跡が一つ、消えかけて残っている。踵の半月は、もう輪郭を持たない。朝が、ゆっくりとその上を撫でている。

 最後の点呼は終わった。終わりは、次の始まりの形をしていない。ただ、空白だ。空白は、怖い。だが、空白にしか入らない言葉がある。透は胸の中で、その言葉をまだ呼ばなかった。呼んだ瞬間、誰かがまた落ちる。落ちないように、彼は息を整えた。息は音ではない。音よりも薄く、刃よりも冷たい。冷たいものを胸の奥で温め直しながら、彼は歩き出した。廊下の赤い点が、少し遅れて、その歩みに呼吸を合わせた。

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