第10話 崩壊
四時四十三分。相沢凛が「職員室の扉を今開ける」と言い切った、その瞬間だった。空気が、咳払いの一歩手前で固まる。次の呼吸の手前にある真空に、誰かの動きが滑り込む。床のきしみも、靴の擦過音もない。ただ、視界の端で赤い点が吸いこむように暗くなったとき、消火器の噴口が机の陰から突き出され、粉が水平ではなく、低い角度で吹かれた。子どもの腰の高さ。白い粉塵が床の皮膚からめくれ上がって、室内の空気を塗り替える。凛の手から取っ手が離れ、三上陽菜がボードに背中からぶつかる鈍音が、紙の層を押し潰して広がった。
視界が白く崩れる。白は、音を奪う。比良木拓の「下」という短い声も、海の咳も、笠松の罵声も、粉の中で同じ距離に置かれる。鼻と喉が同時に砂を飲み、瞼の裏がかゆく、涙腺が言う通りに開く。誰かの足が走り去る。軽い。靴か素足か、それすらわからないほど粉は粒を細かくし、音の輪郭を削る。三上が倒れ込むとき、壁のマップの角が肩甲骨に食い込み、画鋲が床へ飛んだ。紙が一枚、二枚、空気の中で迷子になってから落ちる。由衣巫子のメトロノームは、粉の匂いにむせた指が針を止めてしまったまま、針先を左から右の途中で使い果たし、そこから戻らない。基準の音が消える。揃えるための糸が切れ、切れた音が音を呼ぶ。
春日透は、口で数え始めた。「いち、に、さん、し」。数える声のリズムを、自分の耳の奥で聞き返す。粉で喉が乾くほど、声は短く鋭くなる。短い刃が空気を刻むたび、比良木の指が橈骨動脈に触れ、別の指が無線機のランプの間隔をなぞる。「取る、取り直す、落ち着け」。短い指示が粉の間を泳ぐ。凛は目を細め、襟元で口と鼻を覆って、白の層を突き抜けて前に出る。
「私が代表。職員室へ――」
透は追い、肩と肩が廊下の枠の内側でぶつかる。ぶつかった瞬間、二人の呼吸がひとつの音になり、すぐ分離する。「あなたが死ぬ必要はない」「同じことを、私も言える」。返しは鏡のように正確で、鏡の前で時間が無駄になる。鏡の中で消耗している間に、背後で紙が引き裂かれる音がした。
「そんな地図、燃やせ!」
笠松迅の怒号が、粉の厚みを押し破って飛ぶ。彼は壁のマップに手を伸ばし、一枚を掴んだところで、海に手首を押さえられた。海の指は包帯の端を固定するときと同じ角度で笠松の腱を抑え、力と痛みの関係を最短の直線にした。守備班の二人が間に割って入り、柴田の肩が画鋲の入った箱を蹴り、画鋲が床に散る。散る針を足裏の雑巾が受け止める。踏めば刺さらないが、踏まなければ、転ぶ。秩序は、その程度の薄さで形を保っていた。
紙が剥がれるさまは、地図の喪失ではない。忘却のデザインだ。三上は咳き込みながら、床に散った写真をかき集める。指の腹に粉が吸着し、ピンセット代わりに使っていた爪の先が鈍る。彼女は背中の痛みを歯の奥へ押し込み、写真の端と端を合わせて、壁に貼り直す。粉でテープが効かない。効かないテープは、無力を暴く。暴かれた無力を見て、笠松が歯噛みし、柴田が眉間の皺を深くし、凛は視線を紙から扉へ引き戻した。
そのときだった。天井の内側で、穴を通すような音がした。講堂の方角から、細い水音が最初の一滴を落とし、次の一滴をさきほどより容易に落とし、三つ目は考えなしに落ちた。誰かが屋上のドレンを塞いだのだ。水は排水の仕事をどこかで奪われ、別の道を選ばされた。選ばれた道は渡り廊下へ続き、床面が均一に濡れていく。均一は、安心のふりをして、証拠を消す。足跡が、床の上で意味を失う。濡れた床は、靴底のパターンの代わりに、水の紋様だけを配る。
「最後の隠蔽だ」
三上が喉の痛む声で言う。凛は唇を引き結び、透は粉の薄い輪郭の外側へと足を出した。足元の水は、赤い点の明滅を飽和させ、薄い光の層を均しく作る。均しは、設計の終盤にしか使われない手だ。証拠が見えなくなるように、全体を明るくする。明るさは、よく、盲目を生む。
四時四十九分。透と凛は、職員室の手前で同時に立ち止まった。赤い点の下に二人分の影が重なり、その重なりが、彼ら自身の重みを可視化する。粉の匂いと水の湿りと汗の塩のあいだで、言葉は、よく切れた。
「代表は透」
凛が先に言った。「私は心拍再開のタイムキーパーになる。誤差の責任は、私が取る」
彼女の目は静かだった。自分の計算が死を呼んだと認めた目の静けさは、激情の対義語ではない。炎が芯だけで燃えるときの色に似ている。最小の犠牲という理念は、彼女の中でまだ燃えている。燃え方を変えただけだ。
五時まで、残り七分。被服室に戻ると、床が広い体温で埋まっていく。靴が並べられ、靴下がひとつのカゴにまとめられ、足の指の間に冷えたタオルが挟まれる。由衣はメトロノームの代わりに、自分の声でテンポを刻む。「いち、に、さん、し」。針がない声は、緊張でかすれ、しかし揺れない。比良木が脈拍を確認し、小鷹が安全ラインを叫ぶ。
「三十五を切るな。呼吸は浅く、長く。息を吐いて、吐いて、止めて。吸うのは短く」
笠松は渋々、指示に従う。寝転がっても、肩は格闘の記憶で盛り上がったままだ。柴田は扉に背をつけて立ち、粉で重くなった空気を体で砦にする。誰かが唇を噛んで血の味を持て余し、別の誰かが自分の名前を心の中で呼び戻す。名前は、体温を持っている。体温は、いま、武器だ。
残り三分。職員室前で、透は軽いランニングで脈拍を四十八前後に維持する。足踏みは床の水を静かに叩き、靴底が薄い音で自分の場所を確認する。凛は時計を見つめ、針のない時間の刻みを、赤い点の明滅で代用する。五時ちょうどで扉を開け、心拍センサーの前に透を立たせる。段取りは、紙の上では完璧だ。紙の上で完璧なものは、現実では必ず、どこかが破れる。
そのとき、停電。音はなかった。音の代わりに、赤い点が一度だけ息を忘れ、非常灯も遅れて追従するように、闇に沈んだ。古い配電盤が水でショートしたのだ。暗闇は、視界ではなく、体の内側の楽譜を奪う。テンポが消え、内耳の規範が崩れる。不安のアドレナリンが、透の心臓に早鐘の譜面を押し付ける。四十八から五十二へ。五十四へ。跳ねた。跳ねたことを自覚した瞬間、さらに跳ねる。
「復電する、三十秒耐えろ!」
比良木の声が闇の中で正しい大きさを選ぶ。大きすぎず、しかし誰の耳にも届く。横たわる生徒の何人かの脈が、逆に落ちた。三十三、三十一。空虚に吸い取られるように。海が「握る、放す」の刺激で呼吸のリズムを戻す。手のひらで手の甲を、指の腹で頬を、脛を、胸骨の上にある“重み”だけを選んで撫でる。撫でる刺激は、叩くより深く届く。
暗闇の中で、由衣の声だけが続く。「いち、に、さん、し」。彼女は自分の鼓膜の振動でしか拍を確認できない。それでも続ける。止めた瞬間、戻れない自分に出会うのが怖いから。三上は壁の方向に手を伸ばし、そこにあるはずの地図の紙の端を、暗闇の視覚で探る。紙がある。あるとわかる感触が、暗闇の中の唯一の色だ。
復電。赤い点が咳をし、非常灯が薄い緑の庇を落とす。残り四十秒。凛が透の腕に手を置く。掌の温度が筋の乱れを平らにする。触れた瞬間、透の脈が四十九から四十八へ、そして四十七へ戻る。戻りきらない。戻らない時間こそが、今夜の敵だ。
「今」
凛が言い、二人は職員室へ。扉を押し開けると、無線機の前に、鍵束が置かれていた。リングは解かれ、鍵は扇形に広がって、まるで古い花のように並べられている。上に、白いチョークの粉が薄く乗っていた。最後の誘導――“ここがゴールだ”という印。凛は一瞬で理解する。設計者は、勝ち筋を用意していた。勝ち筋の形をこちらの地図と完全に一致させることで、“選択”を奪う。それでも、彼女の顔は暗い。
「でも、私の誤差が、もう一人を殺した」
あの倉庫で。チョークの円の中で。“自力で脱出できる”という希望の角度を、誰かが、殺す角度へと反転した。反転は簡単だ。簡単だから、許せない。
五時、十秒前。透の脈は四十六。指先は冷えているが、胸の奥は熱い。熱は、戦うための熱ではない。生きるための熱だ。他の脈は三十二から三十五。落ちすぎれば、戻らない。戻らなければ、紙は凶器になる。比良木は無線機のランプの間隔を、赤子の呼吸を聞くように数え、海はひとりひとりの胸の上下の薄さを目でなぞり、由衣は指で机を叩き続け、三上は壁の上にまだ残っている線の意味を信じようとし、笠松は歯を食いしばり、柴田は扉の隙間の影を目で押さえる。
職員室の床は均一に濡れている。渡り廊下から流れ込んだ水が、部屋の角に溜まり、冷たい池の輪郭を作っている。池の底に、誰かの小さな石が沈んでいる。石は、今夜のどこかで拾われ、指で転がされ、ポケットから出され、そこへ落とされたのだろう。落とし穴のない罠は、罠であることに疲れる。疲れた罠は、自分に飾りをつける。チョーク粉の花と、鍵の扇。飾りつけられた罠は、祭壇に見える。祭壇は、儀式を呼ぶ。
「十」
凛の声は乾いて、透明だ。透は足踏みを続ける。四十六。四十七。四十六。無理に下げようとすれば、呼吸が乱れる。乱れは全員へ伝播する。呼吸は空気の共有であり、恐怖の共有だ。彼は鼻で吸い、口で吐き、吐き切らずに止める。止めたとき、赤い点がちょうど吸う。点と呼吸の一致が、世界の境界を一瞬だけ薄くする。
「九、八」
比良木が、被服室に向けて手の甲で合図を送る。紙に記した手順のうち、ここで捨てるべき分岐を、捨てた。捨てる行為は、いつも救いに似ているが、救いではない。海は脈を触れる指を滑らせ、三十五を保てず落ちていく者にわずかな熱を戻す。戻す熱は、指先から移るのではない。声のない指示で移る。指示は、相手の皮膚の言語で書かれる。
「七、六」
由衣の指は、机を叩くのをやめない。共鳴箱の低音は戻らない。戻らないのに、彼女の骨の中ではまだ鳴っている。メトロノームの針は止まったまま。止まった針は、止まることに飽きない。彼女は、針の代わりに、自分の歯で内側の唇を軽く押し、痛みで拍を作る。
「五、四」
三上は壁の地図に視線を走らせ、紙の端にわずかに付着した粉の模様を見た。粉は、ここへ鍵束を置いた“手”の軌跡を、紙の上に二次的に写していた。指の幅、指の腹の強さ、置いたときの躊躇いのなさ。凛のカーディガンのほつれと同じ筆圧だ。筆圧は、嘘をつかない。ただ、誰のものでもあり得る。
「三」
笠松が息を止め、柴田が目を細め、海が最後の名前を心の中で呼ぶ。呼ばれた名が、返事をしないのは正しい。返事をさせないために、ここまで降りた。
「二」
透は目を閉じない。閉じると、別の夜に入る気がした。見ているものを見続ける。鍵の扇も、チョークの粉も、赤い点の呼吸も、凛の横顔も。
「一」
凛が扉を開け、透をセンサーの前へ押し出した。押し出す力は優しく、迷いがない。無線機の中で、微かに高さの違う音が混ざった。送信に向けて回路がたわむ音。たわみは、折れる一歩手前の余裕だ。余裕の内側で、何かが笑う。笑い声の正体は、まだ名前を持たない。
送信の瞬間は、金属ではなかった。息だった。被服室で揃えられた浅い長い呼吸と、職員室で四十六を保つ呼吸とが、目に見えない一本の細い糸で結ばれ、その糸を、今まさに、誰かが歯で噛もうとしていた。噛むために、靴を脱いだ足が、扉の外に立っている。濡れた床の上で、裸足の踵が、最後の半月を刻む。均一に濡れたはずの床に、それでも、わずかな違いが浮かんだ。違いは、ほんの数グラム。粉と水と塩の混合比が、そこだけ違う。
五時。時間は、目盛りを持たないままそこへ辿り着いた。辿り着いた事実に、機械の喉が答える準備をする。準備の間隙に、設計者の指が、どこかで、別の指を撫でた。撫でられた指は、合図を誤読する。誤読は、死に似ている。
透は、凛の手を短く握った。握り返す力は強くも弱くもない。ちょうど良いが、ちょうど良いという感覚自体が不気味だった。ちょうど良さは、罠の美徳だ。美徳は、刃の背に宿る。背で切られたものは、痛みに気づかない。
無線機のランプが、ひとつ、違う間隔で点いた。音は、まだ、来ない。来ない音の前で、誰かの足音のない足音が、職員室の外で止まった。止まることも、合図になる。
崩壊は、音を立てない。音が鳴るとき、それはもう、片付けの時間だ。今まさに、崩れるのは、信頼の最後の継ぎ目だった。継ぎ目が、指先の汗で滑る。滑る前に、透は息を吐いた。吐いた息は、白くはない。白いのは、粉だけだ。粉は、今夜のために用意された雪の代用品。代用品の雪は、冷えずに、むせる。
赤い点が、呼吸を忘れ、また思い出した。思い出した呼吸の長さは、五時を過ぎた者が吸うべき長さだった。長さを測るものは、もう、どこにもない。測れないものの中で、透は、まだ、数えていた。いち、に、さん、し。数え終える前に、彼は、自分の声が、誰かの耳に届かない距離へ滑っていくのを感じた。距離は、設計されている。設計者は、最後に、距離を弄ぶ。距離は、背中で測る。背中は、相手に向けるためにある。
扉の外の裸足が、音もなく、半歩、引いた。引くという動作は、攻撃の準備だ。準備の音が、鈴の金属に一瞬だけ触れた。鳴らない鈴ほど、よく聞こえる。凛の横顔が、その瞬間、笑った気がした。笑いではない。計算が、合う気配。合うという言葉の中に、合わないものが混ざった。混ざったものの名は、まだ、呼べない。
送信は、始まった。あるいは、始まらなかった。両方の可能性が、紙の上で、同じ黒で印刷されている。黒は、白の上にしか立ち上がらない。白は、今夜、粉のせいで、軽く、重い。重さの単位を忘れたまま、朝だけが、名乗り出ようとしていた。




