第9話 投票
図書準備室は、紙と布と湿気の匂いで満ちていた。棚から外した段ボールと、紐でまとめられた古い目録。窓辺のガラスは黒い雨に曇り、赤い予備灯がその曇りの表面に呼吸のような明滅をくり返している。机を二つ寄せ、三上陽菜が置いた紙箱に、幅の狭い切り込みがひとつ。箱のまわりに四十余の影が立ち、座り、壁にもたれている。誰もが自分の体温の境界を過剰に意識し、他人の呼吸の距離に怯えていた。
「番号順に呼びます。呼ばれた人は、こちらで紙を受け取って、書いて、黙って箱に」
三上は声を張らない。張った声は紙に跳ね返り、場を壊すからだ。彼女の指は落ちついており、シャーペンと紙片の束を、工業製品のライン作業のように流す。相沢凛は列の端に立ち、目を伏せている。睫毛が赤い明滅で影をつくり、その影の中で、彼女は自分の言葉の重さを噛みしめているように見えた。春日透は、背筋を伸ばす。伸ばすほどに背中は露出するが、それでも伸ばす。縮こまると、考えが短くなる。
比良木拓は、投票の列を視界の隅に置いたまま、被服室から持ち込んだ道具を机に並べていった。冷水を張ったステンレスのボウル、氷、保冷剤、体育用具庫から持ってきたバスタオル。タオルは厚みがあるほど吸熱が緩やかになり、皮膚温の落ち方が滑らかになる。あとは体位と圧迫の角度。彼は紙に小さな字で手順を起こし、行ごとに番号を振った。小鷹海はそれを一目見て、眉を寄せる。
「胸骨圧迫は絶対にしない。迷走神経刺激は……片眼の圧迫はやらないで。咽頭刺激もだめ。頸動脈は触り方を間違えると血栓が飛ぶ。冷却と四肢の挙上だけ。呼吸の確認、脈拍の確認、間隔の確認。確認の間隔は誰が決めるの?」
「俺が打つ」
比良木は短く答え、指で机の端を二度叩いた。その二度が合図になる。
「一番——」
三上が番号を呼ぶ。紙が渡り、鉛筆が走り、紙が箱へ落ちる。白い紙片は底で小さく跳ね、布の下へ吸われる。二人目、三人目。手の震えを押さえるために、紙を両手で包む者もいる。目を閉じたまま名前を書こうとして、空白の紙をそのまま落とす者もいた。白票は紙でできているのではない。恐怖の重みでできている。恐怖は重く、しかし音がない。
凛の番が来た。彼女は目を伏せたまま紙を受け取り、何かをひとつだけ書いて箱に落とした。透は彼女の肩ごしに、その指の動きの迷いのなさを見て、胸のどこかが冷えるのを感じた。自分はまだ、迷える。迷えるうちは、生きている方に体が傾く。そう考えた瞬間、自分の番が来た。紙を受け取り、名を——書かない。箱のふちが近い。近さの質感は、毒に似ている。
開票。三上は手袋をはめ、紙箱を開け、紙を一枚ずつ机に置いていく。由衣巫子が布を持って隙間を塞ぎ、音の漏れを減らす。紙は淡々と並び、やがて名前の列が現れた。最も多いのは相沢凛。しかし過半には届かない。微妙に足りない数字が、場の空気を窒息させる。
「再投票に——」
誰かが言い、別の誰かがうなずく。透は手を挙げた。挙げた手は自分のものではないように軽い。軽すぎて、逆に落ちない。
「俺を選べ。代表は俺がやる」
場が静まった。紙の擦れる音も、息の引っかかる音も止み、雨音だけが壁の外で遠のいたかのようだった。凛は揺れた。視線が透の胸の高さで止まり、唇がわずかに開いた。
「あなたが死ぬ必要はない」
その直後だった。渡り廊下の方から、金属のぶつかる鋭い音が走った。床板を叩く足音。柴田の守備班のひとりが、扉を乱暴に開けて駆け込む。
「倉庫の鍵が外れてた! 中のやつが——」
言い終える前に、校内放送が人の声を遮断した。
「三年A組、点呼。……死亡一名。講堂倉庫。呼吸停止」
悲鳴は短く、弱かった。弱い悲鳴は、抑え込まれた自制の裂け目だ。三上の指から紙が一枚滑り、由衣が布を強く握りこんだ。海は駆けた。廊下の角で滑らないように、足裏の雑巾の帯をさらにきつく締め、息を一度だけ止めて曲がる。
倉庫の中は、冷たい空気で満ちていた。冷たいのに、重い。さっき剝がしたはずの密封テープは、内側から丁寧に剥がされ、床に貼り付いた粘着痕だけが残っている。床には白いチョークで描かれた円。円の外に、濡れた素足の跡がいくつか、向きの定まらないまま散っていた。窓の隙間には細い針金が差し込まれ、内側から掛け金を外す仕掛けが残っている。海は膝をつき、倒れている生徒の呼吸の有無を確かめる。舌根、胸郭の動き、頸動脈。時間の伸びが、目の奥に砂を入れる。
「やめて——」
自分に向けて、海は小さく声を出した。蘇生の段取りは、今は別の目的に使われる。背中がこわばり、指先に血が戻らない。誰かが、この生徒に「自力で脱出できる」と信じさせたのだ。酸素の窓を開ければ助かる、と。だが、その呼吸管理は一枚足りなかった。扉の隙間をこじ開け、顔を出す角度で、気道は塞がる。殺さずに殺す、最悪の事故。事故という言葉は、設計の影で小さく笑う。
透が到着したとき、海は動きを止め、目だけで「遅い」と言った。遅いのは時間であって、彼らではない。遅らされた時間。設計された遅延。透は歯を食いしばり、こめかみを握った。相沢凛の案は、眠りを使うが、殺しはしないはずだった。眠りの細工を、誰かが角度だけ変えて死の段取りにした。角度。すべては角度だ。彼は呼吸をひとつ吐き、立ち上がった。
図書準備室に戻ると、凛は再投票を告げた。三上が紙を配る。誰も異議を唱えない。呑み込む音が揃う。だが、票はさらに割れた。名の列は散り、今度は白票が目立って増えた。決まらないことが、誰かの望みだ。決めさせないための設計。決定の瞬間を奪えば、全体は緩む。緩んだ隙に、意図は通る。
三上は動線マップを見直した。投票時間帯に、由衣の低音囮が一度も鳴っていない。由衣は「布を持って移動してた」と弁明した。布の端は濡れ、腕は痺れている。共鳴箱の置き場を尋ね、音楽室へ走る。箱の裏の蓋は開き、電池が抜かれていた。電池の端子に細い爪の跡。薄いゴムの粉。ニトリル手袋の匂いが、ごく薄く残る。
透は叫ばない。叫ぶことは、夜に味方する。彼は三上の視線を受け、比良木の机へ向かった。
「投票は保留。五時に送信を通す。代表は——俺がやる」
凛は頷きかけ、首を振った。その動きに、彼女自身の中の羅針盤の針のぶれが見えた。
「私がやるべき」
「べき、は刃だ」
透は短く返し、自分の声の冷たさに嫌気がさす。そのとき、三上が壁に一枚の写真を貼った。講堂の緞帳の金具に、布の繊維が絡まっている拡大写真。布の色、撚り方、毛羽立ち。そのほつれは、凛のカーディガンの袖口のほつれと一致していた。三上は断定しない。ただ、写真の下に細い字で書く。
「この布は、あなたの背中から裂けた」
室内が凍る。凛は逃げない。ゆっくりと息を吸い、吐き、顔を上げた。
「私は“最小の犠牲”で朝を迎えようとした。殺してはいない。……でも、私の計算が、死を呼んだ」
その告白は、懺悔ではなく、報告に近い。透は近づき、彼女の肩を掴んだ。掴んだ肩は細く、体温は十分に高い。
「なら、一緒に責任を取ろう。俺一人で代表になったら、あなたは残りを背負う。二人で背負って、二人で落とす。全員で戻す。紙にそう書いた」
「紙は、嘘をつかないけれど、現実を甘くする」
凛は目だけで笑い、そして頷いた。「やろう」
四時三十分。訓練が始まった。被服室にマットを並べ、全員を横たえる。靴を脱がせ、靴下も脱がせ、足の指の間に冷えたタオルをはさむ。両手首に保冷剤、両足首に保冷剤。腋窩にはバスタオルで包んだ氷。比良木が順路を読み上げ、小鷹が安全限界を監視する。
「脈拍、六十五。呼吸は十八。冷却開始」
比良木の指が橈骨動脈に触れ、由衣がメトロノームを持たない指で机を一定のテンポで叩く。トン、トン、トン。音は小さく、しかし全員の耳の同じ場所に届く。脈は五十台に落ち、四十台を目指して緩やかに沈む。沈む途中で、海が手を上げる。唇の色、爪床の色、冷えのムラ。危険の手前で踏み止め、広げた冷えを保ち直す。迷走神経反射の波を浅くするために、顎の角度を微調整する。肩の柔らかさで舌根の居場所を変え、上体を心臓より少しだけ下げる。
廊下の赤い点は、呼吸を忘れかけ、また思い出す。渡り廊下の雨は、肺の病のような響きを細く引きずる。誰かがささやき、誰かが黙り、誰かが自分の指を握りしめる。濡れた素足の跡は、いつのまにか被服室の入口の前にも現れ、そこで途切れている。靴を脱いだ誰かは、もう靴を履かないのかもしれない。履けば、音が戻る。音が戻れば、設計者は耳を塞ぐ。
「三十五。三十三。三十一」
比良木の声は乾いている。干からびているのではなく、余分な水分を拒否する乾きだ。由衣の指が刻むテンポは、今夜初めて揺れない。守備班の一人が、恐怖に耐えきれずに上半身を起こしかけ、海がすぐに手を添えて戻す。戻す手の強さは、優しさよりも正確さに近い。優しさは今、緩む。緩めば戻れない。
五時一分前。代表だけが椅子に座る。場所は職員室の前。赤い点の真下。比良木が指で示し、透はうなずいた。
「軽く走る。足踏みでいい。四十台後半を維持。止まると落ちる」
「私がやる」
凛が言い、透が黙ってうなずいた。二人の間の空気は、紙より薄く、布より冷たい。
「一分前の合図は?」
由衣が問う。
「息」
透が答える。声ではない。声は空間を汚す。息は、体の中で完結する。吐き出した息の長さで、全員が同じ波のふちに立つ。
廊下の遠くで、トライアングルが鳴った気がした。幻聴のような、骨の中でだけ鳴る音。由衣は耳を澄まさず、指のテンポを崩さない。陽菜は壁の地図を見た。講堂の緞帳の金具。凛のカーディガンの繊維。渡り廊下の素足の足跡。倉庫のチョークの円。理科室の粉の輪。調理室の虹の皮。すべてが同じ書き手の文字に見え、同時に違う筆圧の寄せ集めにも見えた。設計者の筆圧。彼女は思った。記録の筆圧で、上書きできるか。
被服室の床で、脈は三十台前半に沈んだ。沈む、という表現以外が見つからない。海は一人ひとりの胸の上下を目で追い、名前を心の中で呼ぶ。呼ばれた名は、返事をしない。返事をしないのは正解だ。返事をさせないために、ここまで降りてきたのだから。
透は職員室の前で、凛の横に立った。鍵束の板がポケットの中で冷たい。冷たい金属は、朝の言葉に似ている。触れると痛まない。落とすと痛む。彼は手のひらを机の縁に置き、赤い点の明滅に合わせて一度、息を吐いた。凛がわずかに頷き、足を動かし始める。踵の上げ下げ。筋肉がこすれる音が内側で鳴る。鳴る音は、誰にも聞こえない。
比良木は無線機のランプの間隔を数えた。秒針はない。あるのは、呼吸の数と、赤い点の癖だけ。海は時計を見ない。時計を見る目は、患者から離れる。見るのは皮膚だ。爪だ。色だ。色が嘘をつく瞬間を見逃さない。由衣は指で机を叩く。トン、トン、トン。陽菜はカメラを構えない。記録は壁に貼った。今いる場所は、壁の外だ。壁の外では、記録者も呼吸を合わせる。
四十七。四十八。四十九。凛の心拍は、目標の上限で安定しつつあった。額に汗。汗は毒ではない。汗は、体内に残したままにできないものの出口だ。出口がある限り、入口は開いている。透はその汗の行方を目で追い、目で追いながら、自分の喉の乾きを無視した。
「十秒」
比良木が言った。息が揃う。揃った息は、見えない膜のように廊下を覆う。膜の端で、誰かの裸足がふいに動いた気がした。錯覚だ。錯覚であってほしい。錯覚でなければ、足跡はまた一つ増え、紙の上に新しい線が引かれる。線は、過去形で書かれる。
「五、四、三——」
そのとき、校舎のどこかで、微かに鈴が鳴った。風ではない。意図の音。だが、もう遅い。遅い、という言葉が、今夜で初めて、こちらの味方をした。透は凛の横顔を見た。凛は前を見ていた。前を見る者の背中が、同時にこちらを守る。守られていることを知ると、恐怖は形をなくす。形をなくした恐怖は、朝に似ていた。
「二、一——」
息が落ち、赤い点が吸い、無線機の中の微かな音が、ひとつだけ、違う高さで鳴った。送り出すときの音。戻るときの音は、まだ、ない。まだないものに向けて、透は指を握りしめた。握った指の皮膚が薄く裂け、小さな痛みが現実を結び直す。現実が結び直された瞬間、彼は初めて、箱の中の白票の重さを忘れた。白いものは怖い。だが、白い息は、温かい。
投票は保留されたまま、朝のための作戦が動き出した。箱の中の紙は、紙としてそこにあり、壁の上の写真は、写真としてそこにあり、濡れた素足の跡は、跡として床に残り続けた。残るものが多いほど、消えるべきものははっきりする。消えるべきものが、いま、名前を持たない。名前をつけるのは簡単だ。つけた瞬間に、人が死ぬ。だから、名前は、まだ呼ばない。
五時。目盛りのない時計が、目盛りのないまま、そこへ辿り着く。辿り着いた事実だけが、機械の喉を震わせる。送信の合図は、金属ではなかった。息だった。息は、紙よりも薄く、刃よりも鋭い。彼らは息で、夜を切った。切れた夜の端で、鈴の音の残り香が、やっと消えた。消えたものの場所に、朝の匂いがわずかに滲んだ。怖さは消えない。消えないまま、薄まる。薄まった恐怖の上に、彼らはひとつ、足を置いた。足跡は、濡れていなかった。




