第1話 遮蔽
暴風警報が発令された午後、チャイムが止んでも、三年A組の準備は終わらなかった。文化祭で使う紙張りのアーチは半分まで組み上がり、真っ白な骨格が教室の後ろで宙に立ったまま、誰かの息を待っている。窓の外では海が吠え、風が校舎の角を舐めるたび、ガラスが低く鳴った。誰も笑わず、誰も帰ろうと言い出さず、ただ作業の音だけが薄く積もっていた。
教頭の鵜飼が現れたのは、午後七時を少し回った頃だ。雨合羽のフードから滴る水滴が、廊下に点々と道を引く。彼はドア枠に肘をかけ、濡れた指で眼鏡のブリッジを押し上げると、短く言った。
「旧校舎へ資材を移せ。新校舎の窓は風圧に弱い。旧校舎のほうが耐えられる。今日はそれで解散」
解散、の語尾が風に攫われる。鵜飼は返事を待たず、踵を返した。背中の反射テープが、一瞬だけ稲光を拾って白く跳ねた。
重ねた段ボールや工具箱、布やペンキの缶を手分けして運ぶうち、腕と肩がだるく温まった。旧校舎に繋がる渡り廊下は、波打つビニール屋根が風で引き剥がれるように鳴き、足もとに吹き込む潮気が、運ぶ資材の底板まで湿らせた。誰かが「これ塩で錆びるよ」と呟き、誰かが「明日晴れるって」と返した。明日、という言葉は放心のように軽く、しかし口に出すには少しだけ勇気が要った。
旧校舎は、今や使われていない。音楽室の譜面台には埃が積もり、被服室のミシンには黄ばんだカバーがかけられ、理科室の標本はガラス越しに褪せた目でこちらを睨む。階段の踊り場の壁には、いつの年のものかわからない表彰状が傾き、廊下の蛍光灯は半分が切れていた。空気の匂いは、紙と古い木と塩水の混合だ。三上陽菜がカメラを構え、シャッターを切る音が静かに響く。
「雰囲気ある。スチール撮っておこう。記録って大事だし」
「やめろよ」と笠松迅が苛立たしげに言う。「今は遊びじゃない」
八時を少し過ぎた。渡り廊下の外から叩き付ける雨の音が一段強くなり、校舎全体が、海風の低音に共鳴して震えた瞬間、古びた非常放送が突然鳴り出した。金属を爪で引っ掻いたように歪んだ音。スピーカーの内側に宿るクモの巣まで震うような、嫌な音だ。
そして、廊下の天井から、銀色の板が滑り落ちた。防火遮蔽板。ガシャン、ガシャン、ガシャン。連続する落下音が波打ち、各教室の出入口では重い鉄扉が、鈍い油の匂いを撒き散らして横へ走った。どの扉も、最後に確かな手応えをもって閉じ、内側の世界を確定した。
全館の照明がふっと消え、息を止めたみたいに暗くなる。ほんの間を置いて、赤い予備灯が点滅した。脈をうつように弱く強く、点々が廊下に呼吸を敷く。携帯はどれも圏外を示し、窓の外は黒い雨の壁で覆われ、海はもう見えなかった。
「嘘だろ」と誰かが言う。言葉に向かって風の音が爪を立てる。
すぐに、自動音声が流れ始めた。女とも男ともつかない、乾いた声だ。
「三年A組、点呼を開始します。救助申請は午前五時、心拍反応が一名のときのみ送信されます。繰り返します——」
教室にいた全員の肩が、いっせいに凍りついた。冗談半分に「ひとりだけ生かすゲーム?」とこぼしたのは、後列の誰かだ。笑いは起こらない。ただ、その言葉の形だけが空気に残り、赤い点滅が輪郭を舐めていく。
「違う。違うから」春日透は即座に否定した。口が勝手に動いた。「そんなわけない。避難システムの誤作動だ」
相沢凛が前に出て、声を張る。「まず安全確保。落ち着いて。各室の扉と窓の確認、可燃物の移動、水場の確保。分担して」
凛の声は、風の裏側の硬い筋に乗って届いた。彼女は白いホワイトボードを壁から降ろし、マーカーで大きく書く。非暴力の臨時協定。禁止事項。物資の共用。連絡方法。赤い点滅が、文字の切れ目を血のように照らす。
体育用具庫、被服室、調理室、理科室——水と灯り、そして鍵が資源になる。透は「殺し合いはしない」と、余計に思えるほど繰り返した。繰り返さなければ、自分が最初に疑う側へ落ちる気がしたからだ。言葉の輪郭に自分を括りつけるように、それしか口にできない。
「協定、署名制で」と凛。「同意しない人は別室に移ってもらう。姿が見える範囲で」
「守ってやるから物資は寄越せ」笠松が言う。笑っているが、目の奥は笑っていない。彼は体育用具庫の鍵をつまむように指に絡めた。「冗談だよ。けど用具庫は俺が押さえる。盗まれたら困るだろ。見張る人間が必要」
三上陽菜はカメラを首から下げ直し、半歩だけ後ろへ引いた。「記録しておく。何をどうしたか、後でいるから。責めないで。仕事みたいなもの」
「今はおまえの作品作りの時間じゃない」と誰かが口を尖らせた。陽菜は何も言い返さない。シャッターは切らない。
比良木拓は放送の仕様に違和感を覚え、職員室の機器を調べると独断で離れた。彼は、いつでも独断で離れるやつだった。透は呼び止めなかった。呼び止められない、が正しい。もし彼の背中を掴んだとき、掴んだ手の指が誰の喉に掛かるのか、自分でわからなかった。
最初の点呼は、全員生存。数字の羅列が、息を吐くみたいにスピーカーから落ちてくる。人数は合っている。けれど、いったい、何の心拍をどこで数えているのか。誰の胸の鼓動が、どこに繋がれているのか。
「AEDかな」と誰か。「保健室にあるやつをネットと繋いで——」
「旧校舎の保健室、配線生きてるはずない」と別の誰か。意見はすぐ、風の音に飲まれた。
渡り廊下が軋む。屋根の波板がひと呼吸ごとに膨らみ、骨組みがもげる前の嫌な音を立てはじめている。夜は長くなる予感だけを増やし、時計の秒針は赤い点滅と同期した。透の耳鳴りと、風の声と、誰かの呼吸が、ひとつの輪に結ばれて、ほどけない。
教室の隅で、小鷹海が救急箱を開けて、しばらく黙ってから、静かに蓋を閉じた。彼女は透の袖を軽く引く。「ねえ、半分ない。包帯も止血パッドも、あと絆創膏まで。誰かもう使った?」
透は首を振った。答えを持っていないことが、正しい答えのふりをした。「明日の朝に書き出そう。今は、たぶん、みんな——」
「今、ないの」と海は被せる。声は細いけれど、芯があった。「もう誰か、動いてる。怪我人が出ているか、出るのを想定してるか。どっちにしても、やな感じ」
暗い廊下の先、職員室のドアだけがわずかに開いている。比良木が戻ってきたのだろうか。扉の隙間に赤い予備灯の光が一滴入って、床の上に血のような丸を作っている。透が目を細めた瞬間、ドアが内側から静かに閉まった。気のせいだと思うこともできた。だが、その「気のせい」は、今夜に限っては、ぜんぜん慰めにはならなかった。
凛はホワイトボードの議題を増やしていく。鍵の管理。食料と水の配分、電池の消費計画。トイレの使い方。静かに笑いが起きた。緊張が溢れて床に零れ、乾く前に踏まれた音。誰かがすぐ笑いをやめた。陽菜は記録のためだと言い、天井のスピーカーをひとつずつ撮って回った。四角い古いスピーカーには、薄い短冊のような金属プレートが貼られていて、小さく刻印がある。製品名の欄は削れて読めない。製造番号の欄に、四桁の数字。三つのスピーカーは同じ番号で、ひとつだけ、最後の桁が違っていた。
陽菜はそれを透に見せた。「ね。ずれてる。こういうずれ、好き」
好き、という言葉に、透は軽い嫌悪を覚えた。言葉自体ではない。その言葉を今ここで使える彼女の平衡感覚に。だが彼女は淡々としていて、呼吸が乱れていなかった。彼女の平衡は、もしかするとこの状況では貴重なのかもしれなかった。
十時を過ぎた頃、職員室から比良木が戻ってきた。髪に水滴を散らし、額に汗を貼り付け、目がどこか合焦していない。
「放送、外部じゃない。校内の自動化じゃない、と思う。いや、はっきり言う。あれ、俺たちを数えてる」
「だから、点呼だってば」と笠松が鼻で笑う。
「違う。点呼じゃない。監視。心拍反応、って言ってただろ。心拍のソース、AEDでもスマートウォッチでもない。旧校舎の天井裏、全教室に埋め込まれてるセンサー。赤外線と空気の振動で、心臓の動きを拾えるらしい。職員用の端末があるはずなんだ。どこかに」
凛が息を吸う。「それ、どこ情報」
「現物。いや、現物は見てない。回路図がプリントされてた。日付は、去年。鵜飼の決裁印があった。防災強化の一環、ってタイトル。で、五時に救助申請、心拍が一名のとき。そういうふうに設定されてる。誰が設定したのかは、まだ——」
「ふざけるな」と笠松が前に出た。「じゃ、五時までに全員の心臓が止まってるのを確認して、最後のひとりが助けを呼ぶってことか? 誰がそんな設定を」
誰が、という問いは、風の中で鋭利な金属片のように回転した。鵜飼。校長。教育委員会。業者。防災。冗談。陰謀。どの言葉も沈み、底の泥に絡め取られた。
凛はボードに新しい項目を書いた。音声の発信源の特定。点検口の位置。天井裏の構造図。無駄な動きがない。筆圧は強く、線は迷わない。「協定の条項に追加。暴力の禁止。脅しの禁止。物資は共有、持ち出しは記録。夜間の単独行動は禁止。点検は必ず二人一組で」
「二人一組で、誰と誰が組む?」笠松が言った。笑いが戻る。「俺、相沢でいいよ」
「私は海と」凛は即答した。「あなたは透。透、いい?」
透は頷いた。頷く以外に、自分の体をここに係留する方法がなかった。頷いたという事実だけが、未来の自分に向けたアンカーになる気がした。
最初の巡回は、教室、廊下、階段。どの扉も外からは開かない。鉄扉は内側から開けられるが、その向こうにもう一枚の遮蔽板が落ちているところもある。窓はすべてハンドルが固着して動かない。雨粒が厚く、外の景色はのっぺりした水の壁だ。渡り廊下は膨らみ、しぼみ、骨が悲鳴を上げ、廊下の隅の傘立てが小刻みに震えている。
被服室で、凛と海は裁ちばさみをまとめて鍵付きの引き出しに収め、持ち出しは禁止だと合意した。理科室では硫酸の瓶に二重のガムテープを巻き、戸棚に押し戻した。調理室の包丁は新聞紙で巻かれ、番号と本数がホワイトボードに記された。誰かが「戦争みたい」と呟き、誰かが「違う、これは避難」と訂正した。
体育用具庫の前に、笠松が立っていた。腕を組み、鍵を腰のカラビナにぶら下げ、眉間に薄い筋を寄せている。
「見張りする。誰でも出入り自由。ただし俺と一緒」
「鍵、みんなで管理しよう」と透。「誰かひとりの手にあるの、よくない」
「じゃあ、おまえが持てよ」と笠松は鍵を外して、透の胸に投げた。金属の重みが体に当たり、痛みが短く残る。「なくすなよ、春日。おまえは信じられる」
信じられる、の語尾が、風で削れて、信じられ、に聞こえた。透は鍵を握った。握る手のひらが汗ばみ、冷たい鉄は不吉に馴染んだ。
夜が進む。赤い点滅はあくびをするみたいに一定で、しかし眠気は来なかった。五時まで、という言葉が体のどこにも置けなかった。置いた途端、そこが腐っていく気がしたからだ。だから、透たちは歩き続けた。歩くことは考えを分散させ、筋肉に偽の目標を与えた。
理科準備室で、陽菜が一枚のプリントを見つけて持ってきた。コピー用紙に、熱で歪んだ線。天井裏の配線図。各教室の天井に薄く描かれた四角形の中に丸。丸の隣に、CPRセンサー、の文字。印字が掠れて、RがPに見えたり、CがGに見えたりする。紙の端に朱色の小さな判。鵜飼、と読める。あるいは、読めるように見たいだけかもしれない。
凛はそれを指で押さえ、口角をほんの少しだけ上げた。「これで、点検の当たりが付けられる」
そのとき、スピーカーから音が落ちた。先ほどと同じ自動音声だが、今度は別の文言を読んだ。
「三年A組、点呼。欠員はなし。心拍が二重に同調しています。重複を解消してください」
解消、という言い回しが、冗談のようで、冗談ではなく、喉の奥に刺さって抜けなかった。二重に同調。心拍が。誰と誰が。どういう意味だ。
「重複って何だよ」と笠松。「心臓が二つあるやつがいるのか?」
比良木が首を振る。「センサーのバグか、計測の重なり。もしくは……」
「もしくは?」と透。
「誰かが誰かの上に重なっている。物理的に。センサーには、ひとつの脈しか見えないはずだったのが、同じ位置から二つの脈があるように見える。それが『重複』。たとえば——」
彼はそこまで言ってやめた。言葉の先に、押し潰された体の輪郭が、赤い点滅で浮かびかけたのだろう。透も、同じ図を頭に描き、慌てて手を振るみたいに消した。
「冗談だよ」と陽菜が小さく言う。「まだ何も起きてない」
十一時半。保健室に行くと、ベッドのシーツが一枚だけ剥ぎ取られていた。引き出しの中の体温計の数字が、ひとつだけ汚れて読めない。消毒用エタノールの匂いが強い。強すぎる。誰かが何かを拭った匂い。救急箱の中身は、海の言った通り半分しかなかった。包帯の芯が転がり、ガーゼの袋に爪で引っかいたような破れがある。
凛は、呼吸を整えながら、それでも声は静かに、淡々と覇権を握る。「今から保健室は封鎖。鍵は透。記録。何がなくて何が残ってるか。書ける?」
「書く」と陽菜。「でも、ねえ、どうして封鎖? 必要ならすぐ使えるように開けておけばいい」
「必要なときは、鍵を取りに来ればいい。開いているほうが、必要でないときにも、誰かが触れる」
十二時過ぎ。時計の針の影が赤い呼吸とゆっくりずれていき、点滅と秒針が離婚する。廊下の奥、職員トイレから水音がした。透と凛が近づくと、水は止んだ。ドアは閉まっていて、鍵はかかっていない。開ける。誰もいない。洗面台は濡れていない。鏡は曇っていない。なのに、床に、ほんの小さな水の足跡がひとつ、ふたつ、三つ。途中で消えている。消えた先に赤い点があり、点の下に黒い糸くず。糸くずに触れると、指に湿り気が移る。糸ではなく、髪の毛だった。
「誰か、切った?」と凛。
「たぶん、拭っただけ」
言いながら、透は自分の背中が冷たくなるのを感じた。鏡の中の自分の肩越しに、誰かがのぞき込む錯覚。赤い点滅が、自分の目の中に入って、瞳孔の形を歪める。
戻る途中、調理室のドアが少しだけ開いていた。テーブルの上に、牛乳パック。半分。中身は空。洗っていない。側面の賞味期限の欄に、黒いマジックで四角く塗り潰した痕。理由はない。意味はない。ただ、誰かの手がそこに触れ、そこを塗りつぶしたという事実だけが、やけに近く、むかつくほど近く感じられた。
教室に戻ると、笠松がいなかった。用具庫にもいない。彼は巡回を続けているのだろう。鍵は透の腰のカラビナで鈍く笑っている。凛は目で教室の中を掃き、海に目配せする。「女子は被服室。男子はここ。交代で一時間ずつ睡眠。二人一組の巡回は続ける。五時が来るまでの計画を、今のうちに組む。『重複』の意味は、たぶん——」
そのとき、スピーカーが、咳をしたような音を立ててから、再び話し始めた。
「三年A組、点呼。欠員はなし。心拍数は高い順に七名、平均より二標準偏差上。鎮静を推奨します。救助申請は午前五時、心拍反応が一名のときのみ送信されます。繰り返します——」
平均。標準偏差。統計の単語が、夜の赤い呼吸に混ざる。透は一瞬おかしくなりそうになった。統計が夜に訪れ、夜に鎮静を推奨する。推奨されて、どうしろと言うのか。深呼吸? 安定剤? 眠れ? それとも、減らせ——?
嫌な想像が、透明な触手で足首を撫でた。透はその触手を蹴るために、凛のペンを奪って、ホワイトボードに書いた。笑えるくらい当たり前のことを。
「誰も死なない。誰も殺さない。誰も諦めない」
書いた瞬間、胸が少し楽になった。馬鹿げている。けれど、その馬鹿げた文句だけが、夜の中で最低限の支えだった。自分で自分を縛る紐。緩く、しかし切れないように結ぶ紐。
一点に集まる音があった。教室の隅、天井。赤い点の真下。耳を澄ますと、微細な金属の振動。虫の翅のような速さで、しかしこまやかに揺れている。天井裏のどこかで、何かが動いている。比良木が椅子を持ってきて、そっと乗った。手を伸ばし、指先で天井の角を押す。押し戻すような力が、内側から返ってきた。
「開かない。ネジが内側から止められてる。普通は外からだろ」
「普通じゃないのは確かね」と凛が言う。呼吸は、まだ乱れていない。「ここは、私たちの学校で、私たちの知らない学校」
陽菜がカメラを上げた。ファインダーを覗く目が冷たく、涼しい。「この角度、好き。赤い点が目玉みたい」
十二時四十五分。用具庫の奥から、何かが落ちる乾いた音がした。透と比良木が走る。笠松がそこにいた。床にしゃがみ込み、額に手を当て、息を整えている。彼は笑おうとして、失敗したような顔をした。
「なんだよ。びびったか」
「何が落ちた?」と透。
「バスケットのボール。棚から勝手に転がってきた。地震か、風か、知らん」
用具庫の棚は、金属のフレームにプラスチックの箱が載る構造だ。箱のひとつが、少し手前に出ている。ボールが戻るべき場所に、戻りきらずにいる。戻らないものは不安定だ。少しの振動で、落ちる。落ちた音が、重なって響く。
「おい、鍵、返せ」笠松が言う。「ダメだ。やっぱ俺が持つ。おまえ、信じられるけど、責任は俺のほうが向いてる」
透は鍵を強く握った。渡したら、今後ずっと鍵は戻ってこない気がした。持っていれば、今後ずっと鍵の重さが手の中で腐り続ける気がした。どちらも同じくらい嫌だった。
「朝まで、俺が持つ」と透。「朝が来たら、話し合いで決める」
「五時になったら救助申請、なんだろ」と笠松は言い、口の端を上げた。「朝は来るのか?」
視界の端で、赤い点が息をする。透はその呼吸に合わせて自分の呼吸を落とし、ペースを合わせる。胸の奥の拍動が、天井のそれと同期する。自分の心臓が、分類され、数えられ、平均から何標準偏差上か下かで評価される。心臓が数式の一部になる。自分は、数式に含まれている。
そのとき。三上陽菜が、ドアの前で立ち止まり、首を傾けた。彼女の視線の先、廊下の赤い点の一つが、他の点とは違うリズムで点滅している。早い。二倍速。いや、三倍。脈打つ速度が、急に上がり、また下がり、揺れている。
「これ、変だよ」
近づいて見る。天井の奥から、かすかな擦過音。金属と金属が触れ合う乾いた声。比良木が身を伸ばし、耳を近づけ、そして顔をしかめた。
「センサーが、回ってる。首振りするように」
「なぜ?」
「知らない。けど、人を追ってる」
人。追う。点滅。呼吸。同期。言葉が床に零れ、赤い点が滴を吸う。
廊下の突き当たり、職員室のドアが、音もなく開いた。中の闇から、白い何かがこちらを見た。白い、と最初に思ったのは、予備灯が赤すぎたからだ。実際には灰色か、ベージュか、濡れた紙の色。直後、風の音が強くなって、ドアがまた閉じた。見間違い。見間違いに違いない。だが、陽菜はシャッターを切っていた。画面に、暗く、粗く、白い斑点が写り、それが形になる手前でノイズに崩れる。
一点だけ、時間が止まった場所がある。被服室の鏡台の前。繕い用の糸巻きが三つ、まっすぐに並んでいて、糸の端は三つとも同じ長さで切られていた。誰かが測ったみたいに。誰が測った? 何のために? 疑問形は意味を持たない。ただ、そこに事実がある。糸の端の長さが同じ、という事実。糸は記憶を縫う。記憶の穴を。塞ぐために。穴はどこにある? 天井? 時間?
午前一時。スピーカーは無言だが、沈黙のほうがよほど喋る。沈黙は、言葉よりも多くの指示を出す。誰と組むか。どこに立つか。どの扉を背にするか。どの鍵を誰に預けるか。どの水を先に飲むか。どの睡眠を誰に渡すか。すべて、沈黙が決めている。透は、沈黙の言いなりにはなるまいと決める。決める、という行為自体が、沈黙の術中であることを知りながら。
凛が肩に手を置いた。指は冷たく、しかし確かだ。「透。五分、座って。あなたが倒れたら、たぶん全体が崩れる。リーダーってわけじゃない。でも、あなたが『殺し合いはしない』って言い続ける役」
「俺、そんなに役に立ってる?」
「うん。いちばん単純な役が、いちばん難しい夜もある」
凛は笑わなかった。笑わないことに、彼女の優しさがあった。
陽菜が写真を数枚、机に並べた。スピーカー、天井、職員室のドア。どれも、決定的なものは写っていない。決定的なものは、いつだって写らない。写らないものの輪郭をなぞるために、人は写すのかもしれない。
「ねえ」と陽菜。「朝になったら、これ全部、記事にするのかなって考えた。いや、学校新聞とかじゃない。もっと。外に。けど、救助申請って、心拍一名のときだけ、なんでしょ。朝、来る?」
透は答えない。答えられない。質問に対する答えを用意することが、質問を実体化させるのだと知っていたから。
そのときだ。天井のどこかで、微かな破裂音がした。悪い夢の中の拍手みたいに弱い音。続けて、ひゅう、と空気が吸い込まれる音。教室の全員が一斉に見上げる。赤い点滅が、ひときわ強く膨らみ、すぐに弱まる。心臓のひと打ちが、強く、そして不規則に跳ねる。
スピーカーが、静かな声で言った。
「重複、解消」
短い文だけが落とされ、また沈黙。透は、冷たい指で背骨をなぞられたみたいに体を固くした。誰の上から、誰がどいた。どかされた。どこで。どうやって。誰も、どこも、どうやっても、示されない。示されないことが、もっとも強い指示になる。
比良木が一歩、扉へ出た。「見てくる」
「二人一組」と凛。
「俺も行く」と透。鍵が腰で鳴る。金属音が、天井の薄い金属音と重なり、同じ高さで鳴った。音は兄弟のように似ていた。
廊下に出ると、風の音が遠のく気がした。代わりに、校舎の内側の機械の小さな息づかいが、耳の膜に近くなった。空調の止まったダクトが冷えた蛇のように眠り、電気の死骸が天井裏で縮む。
職員室の前で立ち止まる。ドアの隙間から、赤い光が薄く漏れている。中に、予備灯はないはずだ。あるのは、天井の点だけ。点は呼吸し、呼吸は赤い霧のように室内に漂う。
比良木がドアを押した。開く。誰もいない。机の上に、濡れた足跡が並ぶ。机の上に、だ。床ではない。机から机へ、紙とパソコンのキーボードを渡るように、裸足の跡が行き、そして、壁際で止まり、上へ向かって消える。上へ。天井へ。点検口。蓋は閉まっている。閉まっているのに、消えている。消えるための方法を、考えないようにする。考えないことが、ここでは、思考の最低限の衛生だ。
透は喉が鳴るのを隠せない。比良木は机の上の足跡を、触れずに目でたどる。「濡れてる。海水じゃない。匂いが違う。消毒の匂いだ」
「保健室」と透。
二人は同時に息を吸い、同時に吐いた。呼吸が重なった。心拍が、ほんの一瞬、同調した気がした。スピーカーがそれを数えたのかどうか、確かめる術はない。
戻る途中、渡り廊下の方向から、低い唸りが響いた。屋根がまた膨らむ。骨が悲鳴を上げる。雨は弱くならない。赤い点滅が、押し潰された昆虫の目みたいに教室の窓に映る。中に入ると、凛が立っていて、陽菜が座っていて、海が立ち上がりかけ、笠松がドア枠にもたれていた。
「どうだった?」と凛。
「誰もいない。でも、足跡が机の上」
「重複は?」と陽菜。
透は首を振る。重複、という言葉を口にするたび、喉の内側が擦り切れる気がした。
「寝よう」と凛は言った。「五分でも十分でも。起きているだけでは、夜は終わらない」
彼女の言葉は正しい。正しいが、実行が難しい種類の正しさだ。透は床に背中をつけ、赤い点滅が瞼の裏に映るのを、わざと数えた。一、二、三。数えている間、心拍は少しだけ整う。整える、という行為が、自分の体の所有権を確認する儀式になる。
それでも、眠りは来ない。意識が薄くなるたび、スピーカーの金属的な喉が、あの文句を繰り返す幻聴が差し込む。心拍反応が一名のときのみ。最後の一名。最後の。誰。誰が最後。最後は、助かる。助かるためには。助かるためには。
隣で、誰かが、笑った。小さく、短く、喉の奥で。笠松かと思ったが、違う。その笑いには、牙がなかった。陽菜かと思ったが、違う。彼女は呼吸が静かだ。凛は笑わない。海も今は笑わない。比良木は、笑うという動詞から最も遠い表情をしている。では、誰が。
透は起き上がる。赤い点滅が、ひとつ、ふたつ、みっつ。教室の入口のすぐ外の廊下、その点の下に、影が立っている。細い影。肩が斜め。首が少し傾き、耳がスピーカーを向いている。影は、透に気づかないふりをして、予備灯の点滅と同じテンポで、首を左右へ小さく振った。左右、左右、左右。まるで、何かに同意するふりをするように。
「おい」と透が声を出すと、影は、滑るように動いた。音がない。靴音がない。教室のドアの前で止まり、ほんの少しだけ顔をこちらに向ける。視線が合う。合った、と思ったのは、赤い点の反射が二つ並んで見えたからで、本当に目がそこにあったかは、わからない。
影は一歩、さがった。予備灯の赤は影の輪郭を削り、輪郭から砂のような粒子がこぼれ、床に落ちる前に消えた。透は立ち上がった。追うべきではない。追えば、崩れる。追わなければ、崩れる。どちらにしても崩れる。凛が視線で止める。透は、止まった。
スピーカーが、また喋った。
「三年A組、点呼。欠員はなし。心拍の重複は解消済み。救助申請は午前五時、心拍反応が一名のときのみ送信されます。鎮静を推奨します。鎮静を——」
推奨という言葉が、今度はやけに柔らかく聞こえた。柔らかさは、脅しよりも残酷だ。柔らかい声で言われると、人は自分で選んだと思い込む。
透はホワイトボードにもう一度書いた。さっきと同じ文句を。なぞるように。インクが滲み、二度目の線が一度目を太らせる。太った線は、ほんの少し、強く見える。見えるだけ。けれど、見えることは、今夜の基準では、十分に価値がある。
風は止まらない。雨は壁のままだ。渡り廊下は軋み続け、旧校舎は、内側からゆっくりと誰かの手で撓められているような音を立てる。教頭の鵜飼の顔を、誰も思い出さなかった。彼の印が紙に残っていようといまいと、印は印でしかなく、紙は紙でしかない。ここには、紙ではない現実が封じられ、鍵は透の腰で冷え、赤い点は息を続ける。
午前一時を回った。五時まで、四時間。四時間は短い。四時間は長い。統計は言うだろう。四時間あれば、人は十分に落ち着ける。あるいは、十分に狂える。スピーカーは何も言わない。言わないことが、何より多くを語っている。
教室の隅。救急箱の空きスペースに、誰かの手が入った跡が、粉のように残っている。白く、細かく、指の形。海はそれを見つめ、そっと蓋を閉じた。陽菜はシャッターを切らなかった。凛は目を閉じ、五つ数えて開けた。比良木は天井を見上げ、唇を固く引いた。笠松はドア枠にもたれ、目を閉じたふりをした。
透は、赤い点を見た。点は呼吸する。呼吸は数えられる。数えられるものだけが、救われるのか。数えられないものは、朝までの間に、どこへ行くのか。
音がした。ほんの、紙が破れるような、軽い音だ。どこからかは、わからない。全方向から聴こえて、どこにもない音。全員が顔を上げた。誰も、何も言わない。沈黙は、また指示を出す。
最初の夜が、ようやく始まった。赤い点の呼吸に合わせて、校舎全体の心臓が、ひとつ、多く打った。誰かの胸の奥と、天井の奥が、同時に、ほんの少しだけ痛んだ。誰も、手を当てなかった。手を当てると、数えられるから。数えられると、意味が生まれるから。意味が生まれると、誰かがそれを拾いに来るから。
暴風は、まだ弱まらない。外の世界は黒い雨の壁のままだ。世界は、今夜だけ、この古い校舎の皮膚で覆われ、その内側の血液の流れが、誰かの指先で数えられている。五時まで。救助申請は、心拍が一名のときのみ。透は、ホワイトボードの前に立ったまま、マーカーのキャップを握り潰した。小さな音で、蓋が割れた。割れた蓋の破片が、床に落ちる前に、赤い点滅の中で、いったん、静止した。時間の薄皮が、ほんの少し、波打ったように見えた。
そして、誰かが、また笑った。今度は、前よりも少しだけ長く。僅かに、優しかった。優しさは、残酷だ。優しい笑いは、刃物より深く刺さる。透はその方向を見た。見たはずだ。だが、その笑いは、どこにもいなかった。どこにもいないものの笑いが、今夜の最初の怪我だった。包帯は半分しかない。血は出ていない。痛みだけが、静かに、そこにあった。




