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第十一章 拡がる声 ― 信じる者たち ―

夜の街は、光っていた。

 ビルの壁面。高架下の情報ボード。駅前の透過スクリーン。

 どこもかしこも、同じ短い言葉を映している。

 > 《匿名の青年、駅前で発言》

 > 《“管理される安心だけが安全じゃない” 拡散》

 > 《SNS上で賛否拡大》

 紗菜は、部屋の明かりを落としたまま画面を見ていた。

 暗い室内に、ニュース映像の白い光だけが揺れている。

 切り抜かれた動画の中で、帽子を深くかぶった青年が立っている。

 顔はよく見えない。声も少し加工されている。けれど、言葉だけははっきり届く。

 > 「誰かの武器になりたくない」

 > 「管理される安心だけが、“安全”じゃない」

 > 「信じる不安を、捨てないでくれ」

 たった数十秒の映像。

 それが、一晩で世界をざわつかせていた。

 紗菜の端末が震える。

 また通知だ。

 リポスト。引用。タグ付け。知らない相手からのメッセージ。取材依頼。批判。応援。憶測。

 数が多すぎて、もう読む気にもなれなかった。

「……すごいことになってる」

 声に出すと、現実味が増した。

 部屋の隅で、遼が静かに画面を見ている。

 帽子もマスクも外していた。

 あの広場にいたときと違って、今はただ一人の青年に見える。だが、その目だけは違った。

 映像を見つめる眼差しに、妙な落ち着きがある。

「……言葉だけが先に飛んでいくんだな」

 遼がぽつりと言った。

 紗菜は画面から目を離せなかった。

 画面の向こうでは、コメンテーターたちが順番に何かを言っている。

 だが、誰一人として本当に“あの場の空気”を知らない気がした。

「なんか……変な感じ」

「変?」

「うん。顔も分からないし、誰かも分からないのに……みんな、その人のことより、言ったことのほうを見てる」

 遼は小さくうなずいた。

「……それでいいのかもしれない」

「え?」

「俺が誰かなんて、本当はどうでもいい。届くなら、言葉のほうだ」

 紗菜は答えられなかった。

 そうなのかもしれない。

 でも、その言葉を置いたのが遼だと知っているからこそ、怖かった。

 通知がまた震える。

 紗菜は反射的に画面を伏せた。

 もう見たくない。けれど、見ないのも怖い。

「……ごめん」

「何がだ」

「私が、あそこに連れてったから。私が、あのとき止められなかったから。……私が動いたせいで、こんな……」

 言い切る前に、遼が首を振った。

「違う」

「でも――」

「君は、言葉を消さなかっただけだ」

 紗菜は息を止めた。

 遼の声は強くない。

 責めるでも、励ますでもない。

 ただ事実を置くような、静かな声だった。

「消されるほうが、たぶん嫌だった」

「……」

「俺は、あの時代で、たくさん見てきた。言えなかったこと。言わせてもらえなかったこと。最初から無かったことにされたものを」

 紗菜はゆっくり顔を上げた。

 遼は画面を見たまま続ける。

「だから、残ったならそれでいい」

「……ほんとに?」

「ほんとだ」

 それ以上、遼は言わなかった。

 だが、それだけで少しだけ救われた気がした。

 ニュース画面が切り替わる。

 今度は解説番組だ。

 画面の脇に、世論分析グラフが並んでいる。

 > 《管理を支持 48%》

 > 《自由を優先 44%》

 > 《判断保留 8%》

 数字が上下するたび、コメンテーターの口調も変わる。

『未確認人物を“自由にしておくべき”という論調は、現実的ではありません』

『ただ、今回の発言が人々の不安を突いたのも事実です』

『問題は人物ではなく、情報統制のあり方です』

 正しいようで、どこか薄い言葉ばかりだった。

 紗菜は唇を噛む。

 その頃、防衛省庁舎の一室では、別の光が並んでいた。

 窓のない会議室。

 壁面いっぱいに、駅前広場の映像が映し出される。

 複数の角度、複数の時刻、複数のドローン記録。

 同じ場面が、無機質に切り分けられていた。

「顔認識は」

「逆光と帽子で精度が出ません。歩容認識も一般群衆との重なりが多すぎる」

「周辺端末の通信履歴は」

「抽出中です。ただ、現場で匿名プロキシが大量に噛んでいます。意図的に攪乱された可能性もあります」

「投稿拡散の起点は?」

「複数。自然発生的な切り抜きも多い。ただし、最初期の拡散群に高校生アカウントが混ざっています」

 会議室の空気は静かだった。

 怒号も焦りもない。

 だが、その静けさがかえって冷たい。

「確保はまだいい」

 年配の幹部が短く言った。

「今動けば、相手を英雄にする」

「では?」

「包囲する。情報空間で。映像解析、接触者特定、ワードの可視性制御。表向きは安全対策の強化で通せ」

 若い職員が一瞬だけ顔を上げた。

「……投稿制限までやるんですか」

「制限じゃない。整理だ」

「ですが――」

「今は世論が先に走っている。走らせたままにするな」

 壁面の画面に、遼の姿が止まる。

 顔は見えない。

 けれど立ち方だけは妙に真っ直ぐだった。

「妙だな」

 別の職員が言った。

「何が」

「喋り方です。今どきの煽り動画にしては、熱の乗せ方が違う」

「感想はいい」

「……失礼しました」

 会議は続く。

 誰も大声を出さない。

 だが、見えない網は、確かに狭まり始めていた。

 一方その頃、天野蓮は一人で映像を見返していた。

 執務室の照明は落ち着いた白。

 机の上に資料が散っている。

 選挙対策、討論会の原稿、支持率の推移。

 その真ん中で、蓮だけが別のものを見ていた。

 匿名の青年。

 逆光の中の短い言葉。

「……三回目です」

 秘書が控えめに言った。

「何が?」

「その映像を見るの」

「そうか」

 蓮は目を離さなかった。

 秘書は少しためらってから続ける。

「危険です。今この件に寄るのは」

「寄る?」

「世間は割れています。ここで擁護に見える発言をすれば、攻撃材料になります。逆に批判すれば、支持している若い層が離れます。どちらにせよ――」

「違う」

 蓮が静かに遮った。

「これは、賛成か反対かの話じゃない」

「……では?」

「この言葉が、本物かどうかだ」

 秘書は黙った。

 蓮は椅子に深く座り直し、映像を止めた。

「目立ちたい人間の言葉じゃない」

「そう見えますか」

「見える。支持を集めたいなら、もっと上手くやる。敵を明確にして、拍手の起きる言い方をする。でも、この人は違う」

「……」

「人を煽っていない。勝とうとしていない。ただ、失ったものを知っている人の喋り方だ」

 秘書は少しだけ表情を変えた。

 蓮は画面の青年を見たまま言う。

「こういう言葉は危うい。でも、危ういからこそ消されやすい」

「次の会見、触れますか」

「触れる」

「強めに?」

「いや」

 蓮は短く息を吐いた。

「雑音として処理させない。それでいい」

 同じ頃、都内の小さな戦史資料室では、老いた研究員が一人、古い記録映像を再生していた。

 狭い室内。

 棚いっぱいの資料。

 紙の匂い。

 古びたモニターに、白黒の映像が映る。

 若い兵士たち。

 出撃前の短い記録。

 映像は粗く、音も悪い。

 だが、そこに映る姿勢や沈黙には、妙に生々しいものがあった。

 研究員は、その横に匿名演説の切り抜きを並べる。

 何度か見比べてから、眉をひそめた。

「……似てるな」

 誰に言うでもない独り言だった。

 顔ではない。

 声でもない。

 もっと別のもの。

 息の入れ方。言葉の前の間。覚悟を飲み込んだあとに残る静けさ。

 今の時代の若者には、あまり見ない空気だった。

「まさか……」

 だが、そこで言葉を止める。

 すぐに結論を出せるほど、軽い違和感ではない。

 それでも、確かに何かが引っかかった。

 研究員は古い手記ファイルを開く。

 黄ばんだ文字が並ぶ。

 > 『我らは命令に従う。しかし、空だけは最後まで美しかった』

 その一文を見たとき、研究員の目が止まった。

 匿名の青年が言った“空”の話が、頭の中で重なる。

 夜は、まだ深かった。

 紗菜の部屋では、ニュース番組が別の話題に移ろうとしていた。

 けれど、画面の片隅にはまだ小さく、あの映像が残っている。

 紗菜はソファに座り込んでいた。

 膝を抱えたまま、ぼんやりと窓の外を見る。

 未来都市の灯りが、静かに滲んでいた。

「……もう、後戻りできない気がする」

 遼は窓際に立っていた。

 夜景の向こうに目を向けている。

 その横顔は暗くて、よく見えない。

「後戻り?」

「うん。なんか……このまま、どんどん大きくなって。私のせいで、遼が見つかるかもしれないし。誰かに利用されるかもしれないし。なのに、止めたほうがいいのか、このままでいいのか、もう分かんなくて」

 沈黙が落ちた。

 遠くで車の流れる音がする。

 空には、無人輸送機の小さな灯りが一つ、水平に流れていった。

 遼がゆっくり口を開く。

「……届くべき場所に、届いたんだと思う」

 紗菜は顔を上げた。

「え?」

「言葉だ」

「……」

「全部の人間に届かなくていい。分かってくれる全員に届かなくてもいい。でも――」

 遼は少しだけ空を見上げた。

「誰か一人でも、自分で考えようと思ったなら。誰か一人でも、“預けるだけじゃ駄目だ”って思ったなら……意味はあった」

 紗菜の胸が少し熱くなる。

 大きな希望ではない。

 世界が一気に変わるような、綺麗な言葉でもない。

 でも、その小ささが本物だった。

「……遼は、怖くないの?」

「怖い」

「え」

「怖いさ。言葉は、出したら戻せない」

 遼はそこでほんの少し笑った。

 悲しそうでもなく、諦めたようでもなく、ただ静かな笑みだった。

「でも、命令よりはいい」

「……」

「命令は、人を止める。言葉は、人に考えさせる」

 紗菜は、遼を見た。

 この人は、本当に別の時代から来たのだと、改めて思う。

 同じ夜景を見ていても、見えているものが少し違う。

 端末がまた震えた。

 紗菜は今度は逃げずに画面を見た。

 トレンド欄の上位に、例の言葉が並んでいる。

 引用の中には、短い感想が無数にあった。

 “怖いけど、考えた”

 “管理される安心って、なんだろう”

 “正体不明なのに、なぜこんなに刺さるんだ”

 “信じる不安を捨てないでくれ、が離れない”

 紗菜はその一つ一つを見て、静かに息を吐いた。

「……ほんとに、届いてる」

「ああ」

 遼は短く答えた。

 同じ瞬間、別の場所ではそれぞれの夜が動いていた。

 天野蓮は次の会見用メモを閉じ、立ち上がる。

 防衛省の解析室では、新たな映像補正結果が上がる。

 戦史資料室の研究員は、古い記録と新しい映像を並べたまま夜を越そうとしている。

 誰もまだ真実には届いていない。

 だが、確実に近づいていた。

 人物ではなく、まず言葉へ。

 言葉から、存在へ。

 紗菜は窓の外を見た。

 夜の向こうに、薄く青が残っている。

 明ける前の空だ。

 遼も同じ方角を見ていた。

「……空、ですね」

「空だな」

「まだ、決まってない感じがする」

「何がだ」

「いろいろ」

 遼は少しだけ目を細めた。

「決まってないほうがいい」

「え?」

「決まってる未来しかない時代は、息が詰まる」

 紗菜は思わず笑った。

 ほんの少しだけだったが、胸の重さが緩んだ。

 画面の中では、まだ議論が続いている。

 正しいとか、危険だとか、管理だとか、自由だとか。

 答えはまだない。

 けれど、もう一つだけ確かなことがあった。

 あの駅前で置かれた言葉は、もう誰にも回収できない場所まで飛んでいった。

 そしてその声は今、確かに誰かの中で、考える火になり始めていた。

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