第九章 境界線 ― 選ばれる存在 ―
夜明け前の空は、まだ薄い青を残していた。
雲は低く、風はない。街は眠っているはずなのに、世界だけが静かに目を覚ましているようだった。
遼は、離れの縁側に腰を下ろし、両手を膝の上に置いたまま動かずにいた。
昨夜、紗菜が眠ったあとも、目を閉じることができなかった。
記念碑に刻まれていた名前。
自分と同じ年で、同じ空を見上げ、同じ命令を受けて散った仲間たち。
――未来では、俺たちは「歴史」になっている。
それは誇らしくもあり、残酷でもあった。
彼らは戻らない。
だが、自分だけが、こうして生きている。
「……不公平だな」
呟きは、朝の空気に溶けて消えた。
背後で障子が静かに開く音がした。
振り返ると、紗菜が立っていた。制服姿。まだ眠気の残る目をしている。
「……早いですね」 「君こそ」
紗菜は縁側に腰を下ろし、少し間を空けて隣に座った。
二人の間に、言葉はなかった。
「……昨日、学校でね」 紗菜がぽつりと言った。 「みんな、あなたの話をしてました」
遼は何も言わない。
「“もし本物なら危険だ”って。
“国が管理するのが普通だ”って」
風が、木々を揺らした。
「……それが、正しいんだと思う人もいるんですよね」 「……そうだろうな」
遼は空を見上げたまま答えた。 「俺たちの時代も、同じだった。
“正しい”という言葉は、いつも強い側にあった」
紗菜は唇を噛んだ。 「でも……私は」
言葉に詰まる。
「私は、あなたが危険だなんて思えない」
遼は、ゆっくりと紗菜の方を向いた。
その目には、驚きよりも、深い静けさがあった。
「……ありがとう」 「え?」 「君がそう言ってくれるだけで、俺は……ここに来た意味があったと思える」
同時刻――
防衛省地下、非公開分析室。
無機質な光の下、ホログラムに浮かぶ数値が更新される。
> 生体一致率:98.3%
> 歩行解析:旧日本軍操縦士データと高一致
> 行動傾向:戦時訓練記録と符合
「……もう偶然じゃないな」 担当官の一人が、低く言った。
別の男が腕を組む。 「公表すれば、国が揺れる。
隠せば……いずれ暴発する」
室内に、短い沈黙が落ちる。
「管理対象として確保する」 誰かが言った。 「それが、最も“合理的”だ」
誰も反論しなかった。
――合理的、という言葉は、いつも静かだ。
翌日。
紗菜のスマホに、見知らぬ通知が届いた。
> 【投稿内容の一部が制限されています】
> 【公共の安全に配慮してください】
息が止まる。
確実に「見られている」。
学校では、友人たちの視線がどこかよそよそしい。
「ねえ……あのゼロ戦の人、ほんとに危なくないの?」
「本物かな?」
「知らね〜よ、大人達が考えんだろ?」
紗菜は、何も答えられなかった。
正しさは、いつも簡単だ。
難しいのは、「人を見ること」なのだと、今になって気づく。
夜。
遼は庭で空を見上げていた。
「……不思議だな」
「え?」
「百年経っても、人は同じところで立ち止まる」
紗菜は隣に立ち、同じ空を見上げる。
「じゃあ……私たちは、どうすればいいんですか」
遼は、少し考えてから答えた。
「選ぶしかない」
「管理される安心を取るか」
「信じる不安を取るか」
遠くで、街の灯が瞬いた。
ニュースでは、また新しい見出しが流れている。
> 《政府関係者「未確認事象への対応指針を検討中」》
誰の名前も出ていない。
だが、歯車は確実に回り始めていた。
遼は、静かに拳を握る。
「……俺がここに来た意味が、少しわかってきた」
紗菜は、その横顔を見つめた。
怖さと同時に、決意の気配を感じ取る。
――信じるか、管理するか。
それはもう、遠い政治の話ではない。
一人の少女と、一人の青年の前に突きつけられた、現実だった。
夜空には、雲ひとつない青が広がっている。
その静けさの下で、
世界は、次の選択を待っていた。




