アサガオの髪留め
僕の住む地域には「時を超えることが出来る神社がある」という噂が存在している。誰が言い始めたかは分からないし、神社が何処にあるのかは誰も知らない。地域に根付く都市伝説として、老若男女問わず知れ渡っているだけ。
おとぎのような話は信憑性がなくて、僕も信じていなかった。
けど、入道雲が空の背景になって、太陽がじわじわとアスファルトを焼く日に、嘘だと思っていたおとぎ話が本当だったことを僕は知ってしまった。
◇◇◇◇◇
蝉時雨が耳を貫く猛暑の日。額に浮かぶ汗が頬を伝ってアスファルトにこぼれ落ちる。じんわりと滲む背中の汗が気持ち悪くて、パタパタと服を仰ぐ。
誰かの風鈴の音が心を撫でていき、夏を感じる。
猛暑のせいなのか夏休み期間中だというのに、人の気配がほとんど感じられなかった。
母さんが「掃除をするから外に行け」と言わなかったら、こんな猛暑の日に僕は外には出ない。慌てて出てきたから、スマホも家に置いてきてしまった。
涼しい場所を求めて図書館へ向かっているせど、僕は田舎に住んでいる。
図書館までは歩くと三十分の道のりで、釘を踏んでパンクしてしまった自転車のことを呪いたくなっていた。
たまに吹く生暖かい風は無いよりはマシで。それでも、額の汗が引くことはなくて、白く絹のような僕の肌が焦げてしまうことを憂う。おぼつかない足取りはフラフラと空を揺蕩う雲のように、野焼きの匂いが満ちている田んぼ道を一人歩いていた。
昔は涼しくて過ごしやすかった、っておばあちゃんが言っていた事を、ふと思い出す。エアコンが無くても、風が吹けば十分な涼しさで全く苦がなかったって。
いったいぜんたいどうして、今はこんなにも暑くなってしまったのだろうか。昔に戻って過ごしやすい夏とやらを味わってみたい。
こんな猛暑とはおさらばしちゃって、過去に戻れたらいいのに。
そんなことを思っていると、突然横から突風が吹いて体勢が崩れそうになる。不思議な風が吹いて、視線を横に向けるとそこには石段があった。
こんなところに石段なんてあったかな?と思い近付いてみることにした。
見覚えのない石段は、普通で特におかしなところはなかった。忘れているだけで、元々あったのかもしれない。それに石段は嘘みたいに暑くなくて、涼しかった。
僕は好奇心が抑えられないで登ることにしてみる。上の方はよく見えないけど、冒険心が擽られて気持ちは昂る。
ワクワクが止まらない足取りは石段を軽快に登っていく。一段、二段、と石を踏むとタンッと木霊して静かに溶けていく。蝉の声が徐々に静かになっていき、最後の一段を迎えた時には時間がピタリと止まったように聞こえなくなっていた。
最後の一段を登り切ると、赤い鳥居に少し寂れた神社がそっと佇んでいた。
木々が揺れてざわめく、来ることを分かっていたように。
「うわあ〜、涼しい」
境内を歩く。人の気配は無くて、少し薄気味悪かった。線香の香りだけが鼻をくすぐる。
境内を一通り歩いていると、掲示板に古いチラシが貼られていた。雨風に晒されたのかグチャグチャになってて、色も褪せていた。
とりあえずお参りだけして帰ろうと思い、お賽銭箱に財布から五円を取り出して投げ入れる。本坪鈴を鳴らして願い事を言う。
「どうかこの猛暑を耐え忍ぶことが出来ますように」
お参りも済んで、境内を後にしようと振り返った時、目眩がしてその場に膝から崩れ落ちる。徐々に意識も薄くなっていき、プツリと糸は切れてしまった。
「……お……い」
ぺちぺちと頬を叩かれる優しい感触。
「んっ……ん?」
閉じていた瞼を開ける。麦わら帽子を被った少女が僕を覗き込んでいた。黒く大きな瞳はじっと見つめてくる。
「あ、良かった。死んでなかった」
あっけらかんに笑いながら少女は言った。
さっきまで神社にいたはずなのに、どうして僕は大の字になって青空を仰いでいるのだろう。状況の理解ができなくて、言葉が出てこなかった。
「あれ? やっぱり死んでる?」
「あ、いや。生きてます、めっちゃ生きてます」
「良かった。ねえ、どうしてそんなところで寝てたの?」
僕も聞きたかった。
どうして、自分は神社じゃなくて、こんなところで寝てしまっているのかを。
体を起こして辺りを見渡すと、田んぼがどこまでも広がっていた。見慣れた景色に一瞬は胸を撫で下ろすけど、野焼きの煙が上がっていなくて、見慣れた無人野菜の販売所の看板もどこにもないことに気付く。
ここは僕の知っている田んぼ道じゃないと脳が理解し、心臓が早鐘を打つ。
「あれ……ここどこだ?」
「え、もしかして自分がどこから来たか覚えてないの?」
「違う……覚えてはいます。けど、違くて」
「ん〜? どういうことだ? 暑くてどうにかしちゃった? こんな猛暑だもんね〜」
麦わら帽子の少女は太陽を見ながら言うけど、僕にとっては、そこまで暑くなくて過ごしやすいぐらいだった。
それに格好も白のワンピースで、今の時代ではあまり見ない。
向日葵畑が似合いそうな可憐な少女は、風に煽られる麦わら帽子を抑えながら儚げに笑う。
「あの、神社見ませんでしたか? ここにあったはずなんですけど」
「神社? ここには無いけど、少し先にはあるよ。どうして?」
首を傾げて、僕の質問の意味が分からないとでも言いたげな表情をしている。
やっぱり、ここは僕の知っている場所じゃない?
でも、僕の住んでいる地域にも不思議な神社から少し行った先に、景時神社かけときじんじゃというところがあって、少女の言っている神社がそこならば僕は。
「あの、その神社の名前って?」
「景時神社っていうところだよ。もしかして、行きたいの?」
息を吸うように少女は言葉を吐いた。
じゃあ、僕がいま居るこの場所はあの神社を見つけた場所と同じ?いや、でも景色に見覚えはない。
その時、脳裏に浮かんだ「時を超えることが出来る神社」の噂。
まさか、そんな訳ない。頭で必死に否定するけど、この状況を無理矢理にでも納得するには十分すぎるものだった。
混乱する頭は視界をぼやけさせて、一体何が正解なのかが分からなくなっていく。
「大丈夫?」
言葉を無くして、呆然と座り込む僕を心配した少女は視線を合わせて、おでこに手を当てる。
「うーん、熱はなさそうだね。歩ける? ここから少し先に行ったところに私の家があるんだ。少し休んでいくといいよ」
「え、いやでも」
知らない場所に来て、突然の提案に僕は困惑する。少女からは悪意とかそういった類は感じれないけど、今会ったばっかの人間を信じていいのか。
葛藤が頭の中で渦を巻いて、ぐるぐると思考を巡らせていると、手をギュッと握られて驚く。柔らかく豆腐のようで、優しさが込められた温かい手だった。
「まあまあ、怖いのはわかるけど一旦落ち着くためにも行こ?」
諭すように優しく言う少女の声色は天使の歌声のようだった。
単純な僕は一度混乱する頭を整理するために行くという名目を作って、少女の手を握り返した。立ち上がって、この先にあるという少女の家に向かう。
「ね、名前なんて言うの?」
田んぼ道を二人で歩いていると、おもむろに聞かれる。
「夏野大陽なつのたいようって言います」
「夏野くんか。私はね、明石時乃あかいしときの。見た感じ、年齢同じに見えるけど何歳?」
「十六歳です」
「あっ、やっぱり同い歳じゃん。じゃあさ、敬語やめていいよ」
「……え、いやでも」
「いいの、そっちの方が仲良くなれるでしょ」
屈託なく笑顔に射抜かれて、僕は敬語を辞める。
「じゃあ、はい。やめる」
「うん、よろしい。じゃあ、大陽君だね」
時乃と名乗った少女は、白いワンピースをふわりと風に揺らしながら僕の名前を呼んだ。
不意に呼ばれた下の名前に、僕の胸は情けなくも動揺してしまった。
見慣れているけど、見慣れていない田んぼ道を君と歩く。どこまでも道は続いて、ここは自分のいたところではないと、風景が囁いてくる。いつもは見惚れる入道雲が今は怖かった。
「ここだよ、私の家は」
五分ぐらい歩くと立派な平屋が現れて、君はここが自分の家だと言うが、僕は見たことがなかった。こんなにも立派な作りなら絶対に覚えているはず。でも、僕の記憶の図書は「覚えていない」と叫んでいる。輪郭が強くなっていく「過去へのタイムスリップ」。
「お母さん〜! ちょっと男の子休ませていい?」
君が扉を開けて叫ぶと奥の方から、艶やかな髪の女性が現れる。
「男の子? 別にいいけど、どうかしたの?」
「いやね、道端で倒れていたの。心配だからちょっとだけ休ませていい?」
「あら、そういうことなら早く上がってちょうだい。お茶用意するわね」
「だって、上がって」
「お、お邪魔します」
靴を揃えて中に上がらせてもらう。
蚊取り線香の匂いと木の匂いが鼻腔の奥をくすぐって、ビーズの幕をくぐる。丸い小さな木の机に並べられた座布団が三枚。
きっと、ここがリビングなんだな。それに見慣れない家電の数々は、僕が違うと否定したかった現実を「現実」だと認識させる。
「ねえ、あれってなに?」
「……あれ? あぁ、テレビのこと? 見たことないの?」
テレビは知っているけど、テレビと呼ばれたのは僕が知っている薄型のやつじゃなかった。木箱のようなボテっとした形、サイズ感に似合わない小さな画面、何かを回すためのツマミは「タイムスリップ」を脳裏に滲ませる。
「いや、僕の家のとは違うなあって」
「あ〜、そういうこと。大陽君の家のやつはどんな形してるの?」
「紙みたいにぺっらぺっらに薄いよ」
「面白い冗談言うんだね、テレビが薄いなんて」
僕の本当が、君にとっては冗談らしい。
あぁ、そうか。認めないとダメなんだな。僕は「過去へタイムスリップ」してしまったんだ。
さっきまで抱いていた葛藤や焦燥は、現実に起こってしまった嘘のような出来事を認めてしまったら存外なんてことがなくて。あまりにも現実離れしすぎているから、逆に落ち着けた。
「お茶持ってきたわよ、それでえーと」
「夏野大陽です」
「大陽君ね。私は君江きみえ。それで、大陽君はどこから来たの?」
お茶を持ってきてくれた君江さんがコップを差し出しながら、僕に聞く。
素直に「未来」と答えても変な人だと思われてしまうだろう。だから、僕は記憶が曖昧なフリをした。
「それが名前は思い出せるんですけど、いまいち覚えてなくて」
「あら、それは大変じゃない」
「あ〜! だから、さっき覚えてるけど違うみたいなこと言ってたの? 記憶がごちゃごちゃになってるんだよ、きっと」
君が勝手にさっきの言動と結びつけて理由の補強をしてくれる。
「大丈夫なの? 家の人は覚えてる?」
「い、いえあんまり」
「困ったわねえ……ここから病院も遠いし」
「じゃあさ、思い出すまでここにいてもらうおよ! ねえ、お母さんいいでしょ?」
君が机から身を乗り出してコップのお茶が揺れる。
「え、でも迷惑じゃ」
「ん〜、そうねえ。そうしましょう、思い出すまでここに居なさい。行くあてもない子を放り出したりできないわ」
「そうだよ、大陽君はいま迷子の犬と同じなんだよ!」
迷子の犬に例えられたのは、少しだけ納得がいかないけど言っていることは正しかった。
僕は「未来」から「過去」へ来てしまった。そんな人間が頼ることが出来る人間なんて誰一人としていない。この世界では僕の知っている人はみんなまだ産まれてないのだから。
だから、迷惑とか出会ったばっかりとかグダグダ言っていたら外で死んでしまう。僕は君の家にお世話になることにする。
寝るところは客間に布団を敷くからそこで寝ていいとの事で、服とかはどうにかすると言ってくれた。
君が客間まで案内してくれるといい僕は立ち上がる。
廊下には黒い電話が置いてあって、流石の僕もそれが何かは知っていた。家に置いてある一つ一つが僕に過去を教える。
「客間はここだよ、その横が私の部屋だから覗いちゃダメだよ」
「覗かないよ」
「ほんとかなあ?」
ニタニタと笑いながら君が言う。途端、ジリジリと大きな音が鳴って肩がビクッと跳ねる。
「あ、電話だ。ちょっと待ってて」
君が客間から出て廊下に置いてある電話に出る。僕は座ってゆっくりと息を吐く。
部屋に一人になると「過去」へ来てしまったことが現実なんだと頭が理解していく。風鈴の音と蚊取り線香の匂いが肌を撫でる。
これからどうなるのだろうかという不安は常にあって。でも、なんでかは分からないけど、不思議と帰れる気はしていた。僕は元々ここには存在していないはずの異分子。アニメとかで見た事がある、正常な未来へ進まない存在は強制的に排除されるって。
だから、僕はここに居てはならない存在。本来は居ない存在だから、きっといつかは帰ることが出来る、根拠なんてものは無いけど。
そうやって頭を整理していると、電話を終えた君が戻ってきた。
「お待たせ〜。ねえ、家にいても暇だしさお散歩行こ」
「お散歩? いいね、行きたい」
「じゃあ、決まりだね!よぉし、行くぞ!」
「わっ、ちょ!」
僕は君に腕を掴まれて外に連れ出される。
カラッと乾く太陽も、雄大な入道雲も、田畑もいつの時代も変わらずに人の営みに溶け込んでいる。こうしてみれば、存外僕から見た世界ははあまり変わっていないんだな。
気温だけが上がって、住む人が変わって、空から見下ろした時の風景だけが時代の波によって壊されていく。
「あ、景時神社行く?」
「どうして?」
「大陽君、神社探してたでしょ? もしかしたらなにかを思い出すきっかけになるかもよ」
そうだ、今の僕は記憶が曖昧な少年という設定だから君がそういうのは当たり前か。
僕は「じゃあ、案内お願い」と話を合わせて、君とこの時代の景時神社へ向かう。
道中すれ違う自転車は僕のいた時代とは随分と違っていた。みんなが新しく来た人間のことを物珍しそうに見る。視線が向けられるのはむず痒かったけど、田舎というのは大抵が顔見知りだから、知らない人が来ればこうなるのも分からなくもなかった。
「ここが景時神社だよ。とりあえず、上に行ってみよっか」
僕の時代よりも綺麗な石段に、石造りの鳥居は、これからの時代を生き抜く強さを感じさせた。新緑の木々も揺れて、小鳥が羽を休めながら鳴く。優しく風が吹き、僕らのことを歓迎しているようだった。
境内は丁寧に清掃されていて、葉が一つも落ちていなかった。透き通った空気が僕らを包む。
この時代も僕の時代も神社は変わらずで、なんだか安心感があった。境内を回っていると、掲示板に貼られた一枚のチラシが目に付いた。
「景時神社納涼祭?」
「あ、そうそう! 一週間後にねここでやるんだよ」
「あぁ、そっか。毎年やってるわ」
「えっ、なにか思い出した!?」
ぼそっと呟いた言葉に君が驚いた顔をしながら聞いてくる。別に何かを思い出した、という訳では無いけど毎年やっていたなあ、としみじみと思っただけの事で、そんな大層な理由はなかった。
しかし、僕の時代でも一週間後に景時神社納涼祭は行われる。つまり、僕は日付だけはそのまま過去にタイムスリップしてきたってことになる。
「いや、なんかこうパッと思いついたみたいな?」
「これが思い出す鍵なのかな……? よし、じゃあ行こう! 景時神社納涼祭に。そうしたらさ、なにか思い出せるかも」
僕の瞳を真っ直ぐに捉えて離さないビー玉のような君の瞳。吸い寄せられて、見惚れて、断るなんて言葉をつい忘れてしまう。
首は縦に振られて、僕はこの時代の景時神社納涼祭に行くことになった。
景時神社を後にした僕らは近くをウロウロした。川に行ったり、畦道を意味もなく走ったり。スマホが無い時代だから、体を動かすことが、時間を潰す方法で小学生に戻ったみたいで楽しかった。
汗を垂らして、無邪気に笑って、純白のワンピースを着た君は太陽に照らされて、儚い天使に見える。空が夕暮れに染まり始めて、僕らは帰ることにした。
家に帰ると玄関に靴が一つ増えていた。君がそれを見て「お父さんが帰ってきたみたい」と呟いた。僕はその言葉を聞いて背筋がピンと伸びた。
何故だが分からないけど厳格な人かもしれない、という予感が頭の中に溢れる。
リビングに行くと和装に身を包んだ厳格な雰囲気を放つカッチリ頭の男の人がいた。
君のお父さんはとても、威圧感があって、僕は腰が引けそうになりながらも「あ、今日からお世話になる夏野大陽です」と言葉を絞り出す。
鋭い眼光が僕の瞳を貫いて、口がゆっくりと開く。
「おぉ、君が大陽君か、私は武。 君江から話は聞いとるよ。記憶が曖昧なんだって? そりゃ大変だろうに。そう、固くならんでいいから、いくらでもゆっくりしていきなさい」
鋭かった眼光が途端に優しくなって、放たれていた威圧感は嘘のように温和で僕は気が抜けてしまった。
「はい、これからお世話になります」
「ところで、大陽君は野球は好きかね?」
「野球ですか? いや、そこまで……」
「勿体ない! 野球はね!」
突然、武さんの長い長い野球話が始まった。あのピッチャーは、あの投手は、と目を輝かせながら言われるが、僕はそもそも野球に疎い。
しかも、この時代となれば全くもって知らない。日本語なのに知らない言語を聞かされているみたいで、気付いたら横にいた君は自分の部屋に帰っていた。
僕は一時間ほど野球トークに拘束されて、解放された時には頭がぼーっとしていた。魂が半分抜けていたから、話された中身のほとんどは覚えていなかった。
客間で疲れた頭を癒そうと横になっていると、扉が開いて君が入ってくる。横になっている僕の横に座る。
「お疲れ様。お父さんの野球話長かったでしょ?」
「……まあ、うん」
「ごめんね、お父さん野球大好きなんだ。いつも、野球の話になるとあんな感じなんだ」
「でも、楽しかったよ」
「野球の話が? 私はぜーんぜん楽しくないけどね」
「好きなことはあるの?」
「編み物! 自分で形作っていくのが楽しいんだ。そっちは?」
「僕はね……」
僕らは語り合った、好きな事を。
何も知らなかった君の心が僕に伝わって、教えていなかった僕の心が君に伝わって、そうやって話と心を通わせて僕らは互いに互いを知り合った。
些細な会話だけど、この部屋ではそれが全てだった。
少ししたら君江さんが「夕飯が出来た」と僕らに教えてくれてリビングに行く。
白米、肉じゃが、天ぷらなどが用意されていて美味しいそうな匂いが鼻とお腹をくすぐる。
手を合わせて口に入れると、ジュワっと旨みが広がって濁流のように体に流れ込んでくる、
「お口に合うかは分からないけど」
「いえ、とても美味しいです!」
「良かったわ、おかわり沢山あるからいっぱい食べてね」
「はい!」
美味しい夕飯を食べて、見慣れないお風呂に浸かって。
僕はこの一日だけでも知らないものを沢山見た。どれもこれも、古いはずなのに真新しくて新鮮で世界の色が、僕の中にあったパレットが塗り替えられていく。客間に敷かれていた布団に入って僕は夢の世界に行く。
こうして僕の一週間が始まった。
まずは朝起きて君江さんに朝の挨拶をし、その後は洗濯などの手伝いをした。洗濯機を使うのかと思っていたけど、洗濯板とやらを使った方が綺麗に落ちるからと言われて、毎日必死に腕を動かして服を洗った。洗った洗濯物を干して、次は箒を使って縁側を掃除。
居候の身だからやれることはなんだってやった。君はそんな僕をずっと応援していた。
君江さんからは「貴方もやりなさい」と叱れていたけど君は絶対にやらなかった。
終わったら君と遊びに出かけて、また家に帰ってきで夕飯を食べる。
時には武さんとキャッチボールをして、スイカ割りもした。見ず知らずの僕を家族のように扱ってくれて、とても楽しかった。
そうやって、僕が生活に慣れてきた頃の話だ。
君が明日に迫った納涼祭の手伝いをしに行くからと言って早々に家を出ていったこの日は、久しぶりに一人の時間が出来た。
僕はすることも無いから外を気ままに歩いていた。すっかりとこの風景も見慣れて、恐怖とかそんなものは抱かくなっていた。
周りの人達も僕がいることに慣れたのか、外を歩けば「坊主!」と声をかけてくれることが増えた。
草木の匂いを風が運んで、蝉が鳴く気持ちのいい夏の日は現代では考えられない。
君と過ごす時間は楽しくて、別れを告げる日が訪れてしまうことが僕は悲しかった。いっその事帰れなかったらいいのに、と思うけどきっとそれは無理なんだろう。
僕がいた世界では、母さんや父さんが待っている。だから、帰らなくちゃならないのは分かっているけど、君江さんと過ごした時間や武さんと過ごした時間はかけがえのないものだ。
そんな時だった。横から突風が吹いて、僕は体勢が崩れそうになってしまい、あの感覚を思い出す。風が吹いた方に視線をやると、あの石段が佇んていた。
「あっ……」
何も言わずにそこにある石段は「帰りなさい」と告げているようだった。
嫌だ、帰りたくない。
そう思うとまた突風が吹く。
「なんでだよ……なんで別れを惜しむぐらいまで仲良くさせたんだよ……」
僕はその場に膝を折って顔をうずめる。
帰らないとダメなのは分かっている。僕はこの世界には存在しない人だから。母さんも父さんも待っているから、帰らなくちゃならないのは知っている。
でも、君と別れるのは、君の家族と別れるのは胸が張り裂けてしまいそうだ。心臓が握りつぶされたみたいに痛い。
「ねえ! 大丈夫!?」
遠くの方からあの優しい声が聞こえてくる。駆けてくる足音が近くなって、顔を上げると息を切らして、肩を揺らしている君が僕のことを心配そうに見ていた。
その顔を見ると、目頭が熱くなって帰りたくない気持ちがいっそう強くなる。
「……大丈夫。大丈夫だよ」
でも、僕は君に心配されたくなかった。心配をかけると、君は優しすぎるからきっと悩みを分け合えてしまう。
「本当に?」
「本当、本当! ほら、こんなにも動ける! それよりさ、明日の準備どう? 完璧に進んだ?」
僕は立ち上がって変な動きをして虚勢をはる。話題を変えて、何事も無かったように取り繕う。
「もちろん、完璧だよ。明日びっくりするよ、楽しみだね。納涼祭」
「うん、楽しみだ」
君が笑って、僕も釣られて笑う。
そうだ、僕はまだ帰れない。君との約束を果たせてないから。だから、その約束が果たせたら帰るよ。僕がいた世界に。
時間は止まらない、止まってくりゃしない。刻々と時間は進んで、明日はやってくる。
納涼祭は夕暮れ時に始まる。陽が完璧に沈んだ頃、花火が盛大に打ち上がって一番の盛り上がりを見せる、と君は教えてくれた。
僕はそれまでに最後のサイクルを終わらせて、縁側で風鈴の音に耳を澄ませていた。
ひんやりとした感触が突然頬に触れて、後ろを振り返ると瓶ラムネを持った君が悪戯げに笑いながら立っていた。
「あげる、飲も」
「ありがとう」
横に座った君はプシュッと瓶ラムネを開けて、ゴクッとひとくち飲む。僕も封を切って、ひとくち流し込む。炭酸が喉を痛めつけながら通過して、後に襲ってくる清涼感は夏の暑さを打ち消してくれる。瓶の中に入ったビー玉は太陽の日を吸収して光る。
「今日楽しみだねえ」
「うん、楽しみ」
「早く夕方にならないかな?」
「そう急がなくても時間は進むよ」
時間は誰にも止められないから美しさを持つ。でも、僕は美しさが今は憎かった。
そうしてやってきてしまった時間。君は浴衣に着替えてくると言って、部屋に行ってしまった。
僕はリビングに残って、全体を見渡した。
一週間だけしかいなかったけど、ここともお別れなのかと思うと、悲しくて、やるせなくて、まだ残りたい気持ちは、もちろんあるけど残れない。
悲しみにうちしがれてると、淡い青色のアサガオ柄の浴衣に頭をお団子にした君がリビングに。
「どうかな、似合ってる?」
少し照れくさそうに浴衣をヒラヒラさせる姿は可憐で、僕は見惚れて言葉を失ってしまった。
「あれ? おーい」
「あ、ごめん。うん、とても似合ってるよ。可愛い」
「あ、ありがとう」
二人して照れて、後ろにいる君江さんはニヤニヤと笑っていた。君は下駄を履いて、僕はいつも通りの格好で外に繰り出した。
すっかりと道は人で溢れて、行く方向はみんな景時神社の方だった。矢印にならうように流れに沿って僕らも着いていく。
「何しようかなあ〜。金魚すくい、射的、色々やりたいね」
楽しそうにやりたいことの計画を立てる君を見て僕は安らぐ。
神社に着くと人で溢れていて、肩と肩がぶつかって君を見失いそうになるから、僕は咄嗟に手を握ってしまった。
「えっ、あっ」
目を丸くして驚く君。僕もつい握ってしまったけど、どうしたらいいか分からなくてオドオドとしてしまう。
「は、はぐれたら危ないから」
「あ、あぁ! そういう事か、大陽君ったら頭いいね」
適当に吐いた嘘の言葉、滲む手汗は緊張の証。
人で溢れる階段をはぐれないようにと、強く手を握りしめて登る。境内はもっと人がいて、どこを見渡しても人の頭の海だった。
「あ、射的! 行きたい!」
「よし、頑張るか!」
目を輝かせて射的を見つけた君のために僕は人を掻き分けた。そうして、人の海を泳ぎきって僕らは射的をした。
景品はそこまでいいとは言えなかったけど、君がアサガオの髪留めを見つけて「あれが欲しい!」と指をさした。
僕は射的に自信はなかったけど、試しに一回やってみると奇跡的に命中してゲットすることが出来た。
「はい、これあげる」
「やったー! ありがとう、大切にするね! 似合うかなあ?」
「さあ、どうだろ?」
「こういう時は似合うよって言うもんだよ!」
怒りながらもアサガオの髪留めを点に掲げて嬉しそうに笑い、無邪気な笑顔はとても可愛らしくて、愛おしさがあった。
僕らは色々な出店を回り、納涼祭を楽しんだ。繋いでいる手のことなんかすっかり忘れて。
そして、やってきた花火の時間は一番の盛り上がりを見せた。空に打ち上がる花火は儚く散っては、また命を芽吹かせた。
僕はそっと君の横顔を見る。
もう、これで終わりなんだな。きっと、もう会えない。僕らは生きている時間が違うから、会える保証なんてどこにもない。
この花火が儚く散るように、僕らの関係も散ってしまう。目が段々と熱くなって、溢れそうになってしまう涙を必死に堪える。視線を空に移して、最後の花火を目に焼き付けた。
終わりを迎えた納涼祭、家に帰っていつものように「おやすみなさい」と客間で横になる。
風鈴だけが響く家。僕はみんなが寝静まったと思い、そっと靴を履いて扉を開けた。
後ろを振り返って、月夜に照らされる廊下を見る。一週間しか居なかったけど、沢山お世話になって沢山の思い出が出来た。
「お世話になりました」
頭を下げて、振り返らないように足を進めた時「ねえ」と声が響いた。
僕は振り返らずともわかった、君だということは。
「どうしたの?」
「どこ行くの?」
「……ちょっとそこまで」
「ちゃんとどこ行くか教えてよ」
「……僕のいた場所に」
「分からないよ、ちゃんと言ってよ」
君の声が潤んでいく。胸の奥がじんわりと温かくなる。
「僕は元々ここの人じゃないんだ。時をかけることが出来る神社があるって言ったら信じる?」
「……大陽君の事は信じてるけど、今だけは信じたくない」
「信じたくないかあ……でもね、本当なんだ」
「嘘だと言ってよ。おとぎ話みたいな話でしょ? まだ、大陽君とやりたいこと沢山あるんだよ……海に行ったり、山を登ったりさ」
君の声が詰まって、息を吐く回数が多くなる。
「ごめん、どれも叶えれそうにないや」
僕の声も潤んでいく。鼻が詰まって、息が上手くできない。後ろを振り返って、君の顔を見てしまったら帰れなくなってしまう。だから、振り返れない。
「でもね、どうしてだろうね。信じたくないのに、嘘みたいな話なのに。大陽君が元々居た人じゃないって、信じちゃう私がいるのは」
それは君がとても優しい人だから。困っている人にすぐに手を差し伸べることが出来る人だから。
僕は君に救われたから、恩返しがしたかった。なのに、出来そうになくて。
「ごめんね」
「……また会える?」
「分からない」
約束したい。また、会えるって。君にまた会いに行くって。でも、出来ない。出来ないんだ。
僕だって、まだ君といたい。
「嫌だなあ……まだ居て欲しいな」
「君江さんと武さんに、急に居なくなってごめんなさいと謝っておいてくれる?」
「大陽君が言いなよ」
「僕は言えない」
「本当に行くの?」
「待ってる人がいるからね」
「……じゃあ、もう止めても無駄かあ」
涙がボロボロと頬を伝う。拭っても、拭っても溢れて止まらない。月が目に染みる。
「大陽君、行ってらっしゃい! 今まで楽しかった、ありがとう!」
「僕も楽しかったよ、ずっと、ずっと忘れない!行ってきます……!」
僕は振り返らずに君の家を後にした。
涙を振り切るように走って、走って、あの神社に行く。振り返ってはダメだと言い聞かせて、思い出は心に閉まって。この時代に別れを告げる。
次、目を覚ました時僕はまた田んぼ道に寝転がっていた。鼻をくすぐる野焼きの匂い、ゆっくりと立ち上がって周りを見渡すとそこは僕のいた場所だった。
あぁ、帰ってきてしまったんだな。
喪失感に襲われながら、僕はふらついた足で君の家へ向かった。居ないことは分かっていた。でも、一縷の望みをかけて行くけど現実は無情だ。あったはずの家は更地になって、草木が生い茂っていた。
そうだよな、当たり前だよな。随分と昔の話だ。居ないのは当たり前だもんな。
そうやって、君がいない現実を冷たく突きつけられ僕は家に帰ろうと重たい足を動かす。じゃり、じゃり、と砂を踏みしめる音が今は痛かった。
ふと、一人の老人とすれ違い、横目で見ると髪には見覚えのあるアサガオの髪留めが付けられていた。
僕はつい足を止めて「時乃……?」と声をかけてしまった。老人は不思議そうに僕の顔を見る。
「坊や、どうして私の名前を?」
老人は首を傾げる。
「あ、いや。こう、なんというかそんな感じがして。……あ、あのそのアサガオの髪留めはどこで?」
「あぁ、これかい? 随分と昔の話だけどねえ、とある人から貰ったのさ」
「とある人って?」
「名前や顔はもう忘れてしまったんだけどね、とても優しい人だったんだよ。射的でね、パンッとこれを取って私にくれたのさ」
あぁ、僕を忘れてしまっているけど君だ。時子だ。良かった、また会えた。皺が増えて、髪も白くなったけど時乃だ。嬉しい、もう会えないと思っていたから。
「その人は今どこに?」
「さあ……ある日突然どこかに行ってしまってねえ。でも、きっと元気にしてるじゃないかなあ」
「そうですか……ありがとうございます。ごめんなさい、急に話しかけてしまって。その、アサガオの髪留め似合ってます」
「あら、ありがとう」
時乃は去って、小さくなった背中を僕は見えなくなるまでずっと見ていた。
君が、時乃が忘れてしまっても僕はずっと覚えている。そのアサガオの髪留めがある限り。
ではまた。