短編2 ふたりでむかえる朝
アレックスが瞼を開くと、そこにはリドリアの寝顔があった。
耳を澄ますと、聞こえるのはリドリアの寝息だけ。
朝6時の鐘の音でいつも目覚めるのに、それより先に起きるなんて、と自分でも驚く。
あくびを噛み殺したら、ふわり、とまつげにリドリアの呼気がふれた。
それぐらい間近に彼女の顔がある。
いつもは同時に起きるので、彼女の寝顔を見たのは初めてで新鮮だ。
閉じられた瞼を縁どるまつげは長く、翼を伏せた水鳥のようだ。眉はきれいな弓なりになっていて、目覚めているときは、この眉が本当によく動く。笑うと眉尻が下がり、怒ると眉根が寄る。驚くと跳ね上がり、いぶかしいときは警戒した犬の尾のような動きになる。
アレックス自身が「鉄壁の無表情」と言われるだけあって、あまり表情が変わるほうではないので、最初はリドリアが別種の生き物のように思えた。もちろん、向こうも自分のことを同じように感じていたことは知っている。
だがそれがいま、とてもいとおしい。
アレックスは起きるでもなく、リドリアの寝顔を見続ける。
小さな顔。まるで猫のようだと思って、昨晩の彼女を思い出した。
初めて抱いた彼女の身体。しなやかで細い彼女は、アレックスに抱き着いていたかと思うと、次の瞬間には逃れ出るように跳ねる。
その動きがなにかに似ていると思ったら、ネコ科の動物に似ていると思った。
優雅な仕草でありながら、艶っぽい色を宿す瞳。
そらせた白い喉から洩れる呼気の甘やかさ。
喘ぐ声を聴くたびに、柔らかくたおやかな彼女の身体を強く抱いた。
(あ……)
ふと、思い出す。
ふたり抱き合って眠りに落ちる前。
『お風呂……いまならまだお風呂のお湯があったかい……』
呟くようにリドリアが言っていた。
『お風呂……。お風呂もいっかい、入って寝る……』
呪文のように繰り返す彼女の言葉を聞きながら、いつのまにか自分も眠ってしまっていた。
(風呂を、つかうだろうか)
自分だけなら水浴びでもいいだろうが、彼女はそうもいくまいと思ったものの、いやなんか彼女なら寒稽古だといって水浴びしてそうな気もしてきた。
(まあ……だけど)
ここまで眠り込んでいるのを見るのは初めてだ。
よほど疲れているのだろう。その疲れさせた原因が自分だという自覚はある。
昨晩、何度も何度も彼女を求めた。
彼女の甘い喘ぎやすがるような声が聞きたくて、唇を這わせ、指でなぞり、はねるように動く彼女の白い肢体を腕で抱えて、何度も中に入った。
まるで思春期の男だと自分でも自覚があった。それでも止められなかった。彼女で満たされたかった。
そういえば、最後はもうかすれ声で「ちょっともう! ねえ!」と押しのけられた気もする。
アレックスはゆっくりと起き上がり、ベッドから足をおろす。手早くズボンだけ履いてそっと室内を出た。扉を閉めてしばらく廊下で立っていたが、起きている様子はなくてほっとする。
そのまま浴室に行き、自分は頭からざぶざぶと水を浴びて適当にタオルでふき取った。ガウンを羽織り、バスタブをのぞく。
当然冷めきっているが、まだ昨日の湯が残っている。適当に水を足し、厨房に行って火を熾した。バスタブに放り込む石を熱しながら、また乱雑にタオルで髪をごしごしこする。
ついでにやかんをコンロに乗せ、熱した石を容器に移し替えて風呂に移動し、バスタブに放り込んだ。
じゅ、と水が盛大に爆ぜ、湯気が上がる。まだぬるいかもしれないが、こんなものだろう。
風呂の蓋をしてからそっとまた寝室に戻った。
静かに扉を開き、ベッドに近づく。
まだリドリアは眠っていた。
首からタオルをかけたまま、ベッドに腰かける。
「ん……?」
まだかすれ声を漏らす。
ようやくリドリアが目を覚ましたようだ。
緩く丸めたこぶしで目をこすり、何度かまばたきをした。
彼女の瞳がアレックスをとらえる。
しばらく無言で見つめあったたのだけど。
がばり、とすごい勢いでシーツに潜られた。
「え?」
「見ました⁉ 寝顔!」
「見た、が」
「最悪! もうなにしてんですか!」
そんなに怒られるようなことをしたのだろうか、とアレックスは驚く。だいたい、いつだったかリドリアはアレックスの寝顔をずっと見ていた気がするが。
丸まったシーツの中ではリドリアがぷんすか怒っている。
「ひどい! 無防備な女性の顔をまじまじみるとか信じられない! ちょ……よだれとかたれてませんでした⁉」
「たれてなかった」
「顔、ひどかったでしょう⁉ もうやだ! それになにこのガラガラ声!」
「いや、可愛かったし、その声も色っぽい」
「……………」
途端に罵声は鳴りやみ、なんだかもごもごと丸いシーツから歯切れの悪い声が聞こえてくるが、なにを言っているのかはわからない。
そんなとき、ようやく朝6時の鐘が鳴った。
「あ!」
ぴょこんとリドリアがシーツから顔を出すが、同時に「あいたた」と顔をしかめる。
「おなか痛いし、なんかいたるところ筋肉痛……」
「まあ、昨日あれだけ……」
そこまで言って互いに目が合い、同時に顔を赤くして視線をそらした。リドリアに関しては、またシーツの中にもぐってしまっている。
「その……おれは今日、団に行くが君は休みだろう? ゆっくりしてればいい」
気まずい沈黙に耐えかねてアレックスが言うと、丸まったシーツの中から声が聞こえてくる。
「いやでも……メイドさん来ちゃいますよね……。それまでにシーツ洗ったり、ベッド整えたり……」
「あ……。それも、そうか……」
つい数か月前までは偽装だなんだとわざわざシーツを乱していたというのに。アレックスまでオロオロしはじめる。なんなら手伝わなければ。
「あ! そういえばお風呂! 結局入ってなかった!」
「温めなおした。いまならいい湯加減かもしれん」
アレックスが言うと、起きようとしたのか、シーツの形が丸から楕円に移行したが、結局へちゃっとつぶれた。
そのあと、手だけがにょきりと出てきてさわさわと周囲を探っている。
どうやら着るものを探しているようだが。
アレックスは再度顔を赤くした。なにしろ昨晩、風呂から出るや否やのリドリアを寝室に引っ張り込んだのは自分だ。あのとき、彼女のバスローブはどこで脱がしただろう……。
そのことを思い出したのか。
リドリアの腕も真っ赤になってまたシーツの中に戻ってしまった。
「わ……悪かった」
「責任とってください」
むっつりと丸いシーツが言う。
「わかった」
言うなり、アレックスはシーツごとリドリアを抱き上げた。
「ひゃあ! え、なに⁉ アレク!」
「このまま風呂場まで君を運ぶ」
「いや違う! 服を持ってきてくれたらいいですよ! そういう意味で責任とってって言ったのに!」
ひょこりとシーツの間から顔を出したリドリアが顔を真っ赤にしてアレックスに言う。
焦ったような、照れたような顔でシーツにくるまる彼女が可愛い。
一瞬、このまままたベッドに戻そうかと思ったが、いかんいかん、今日は出勤日だと自分に強く言い聞かせ、かように危険なものは早く風呂場に入れてしまおうと、彼女を抱えたまま寝室を出た。
「服を着たらまた服を脱がねばならんだろう」
「当然でしょう!」
「面倒だろう? このまま風呂に運んでやる」
「不要なサービス提供ですよ⁉ あいたた、筋肉痛がっ」
「君、まだどこか筋肉がつくのか。すごいな」
「誰のせいだとおもっているんです!」
「………すまん」
「というかおろして!」
「風呂までもうすぐだ」
「なんか一緒に入りそうでやだ!」
「……しまった。そんなことを言うから……っ」
「なにといま戦ってるですか、アレク!」
こうして。
ふたりで迎えた夫婦としての朝は。
非常に慌ただしく、騒々しいものだった。




