第二次欧州大戦
第二次欧州大戦と日英の役割(1939–1947年)
1. 世界情勢の変化(1930年代後半)
(1) 欧州におけるナチス・ドイツの台頭
• 1933年: アドルフ・ヒトラーが首相に就任後、ナチス党は独裁体制を
確立。ヴェルサイユ条約で課された軍備制限を破棄し、再軍備を推進。
• 1936年: ラインラント再軍備。英仏は宥和政策を取り、軍事介入を避
ける。
• 1938年: オーストリア併合、さらにミュンヘン会談
でズデーテン地方を獲得。ドイツの領土拡張が加速。
• 1939年: チェコスロバキア解体。英仏はポーランドへの攻撃があれば
対抗すると明言。
(2) 極東における日英同盟と日本の勝利
• 日米戦争(1935–1937年)
日本は米国との戦争に勝利し、南洋諸島や太平洋の制海権を確保。米国
はハワイ以西から撤退し、大西洋への注力を余儀なくされる。
• 日英同盟が強化され、日本と英国は共同で極東とインド洋の安全保障
を主導。
• 南洋諸島は日本の戦略的拠点となり、英国とともにシンガポールや満
州で防衛体制を構築。
(3) ロマノフ公国とソ連の対立
• ロマノフ公国(旧ロシア帝国の亡命政権)は、日英の支援を受けなが
ら極東で独立を維持。
• ソ連は満州国境やロマノフ公国との国境紛争を頻発させ、勢力拡大を
図る。
• ソ連は独ソ不可侵条約の締結を目指しつつ、東アジアでは軍事的挑発
を続ける。
(4) 英国の二正面戦略
• 英国は極東での日英協力を維持しつつ、ヨーロッパでのドイツの脅威
に対応する必要性に迫られる。
• 英仏はポーランド防衛を表明するが、極東での安定を優先するため、
戦略的なリソース配分に制限がある。
2. 独ソ不可侵条約の締結
(1) ドイツの意図
• ヒトラーはポーランド侵攻を計画する一方、東部戦線を安定させるた
めソ連との交渉を進める。
• 1939年8月23日: 独ソ不可侵条約が締結され、秘密議定書でポーランド
の分割占領を取り決める。
• ドイツ: ポーランド西部の占領権。
• ソ連: ポーランド東部、バルト三国、フィンランドへの影響権を確保。
(2) ソ連の動機
• ソ連はロマノフ公国や満州国境での紛争が続く中、西部での緩衝地帯
を確保し、ドイツとの直接対立を回避。
• 一方で東アジアでは攻勢的な態度を強め、ロマノフ公国の崩壊を狙
う。
(3) 英仏の反応
• 独ソ不可侵条約の締結に衝撃を受けた英仏は、急遽ポーランドとの防
衛協定を強化する。
• ただし、英仏の極東政策は日英同盟を維持し、東アジアの安定を優先
するため、ヨーロッパ戦線での即応能力には限界がある。
3. ポーランド侵攻(1939年9月)
(1) ドイツ軍の侵攻
• 1939年9月1日: ドイツ軍がポーランド西部に侵攻。航空機と戦車を駆
使した電撃戦(Blitzkrieg)が展開され、ポーランド軍は迅速に包囲され
る。
• 戦闘は主要都市や軍事拠点を中心に展開され、ドイツ軍が短期間で優
勢を確立。
(2) ソ連軍の侵攻
• 1939年9月17日: ソ連軍がポーランド東部に侵攻。ポーランド政府は
分裂し、国境地帯では劣勢に。
• ソ連軍はポーランド東部の大部分を占領し、ロマノフ公国国境への軍
事展開を拡大。
(3) ポーランドの崩壊
• ポーランド軍は英仏の支援を期待していたが、ヨーロッパ戦線での直
接介入は行われず、政府はルーマニアへ亡命。
• ドイツとソ連がポーランドを分割占領し、緊張が西部戦線に拡大。
4. 日英同盟の対応
(1) 極東での戦略強化
• 日英はポーランド侵攻の報を受け、ソ連が東アジアでさらなる圧力を
かけることを警戒。
• 満州やロマノフ公国国境での防衛体制を強化し、日英合同演習を実
施。
(2) ロマノフ公国への支援
• 日本はロマノフ公国に武器や資金を供給し、英国は外交的支援を拡
大。
• ロマノフ公国はソ連軍の進攻を辛うじて食い止めるが、全面戦争の懸
念が高まる。
1. 西部戦線の開幕(1939年9月~1940年4月)
(1) 「奇妙な戦争」(1939年9月~1940年4月)
• ポーランドが分割占領された後、英仏はドイツに宣戦布告するもの
の、軍事行動は控え、マジノ線に籠城。
• 一方、ドイツ軍はポーランドでの戦力を再編し、フランス侵攻計画を
練る(マンシュタイン計画)。
(2) 日本の影響
• 極東ではソ連との国境紛争が続く中、ロマノフ公国への支援を強化し
た日本は、英仏に対して満州や極東での安全保障へのコミットを要求。
• 英国はヨーロッパ戦線に集中するため、日本の要請を受け入れ、日英
連携がさらに強固に。
(3) 北欧への侵攻(1940年4月~6月)
• ドイツ軍は北欧の鉄鉱資源を確保するため、デンマークとノルウェー
に侵攻(ヴェーザー演習作戦)。
• デンマークは1日で降伏。ノルウェーでは連合軍が抵抗するも、ナル
ヴィクを中心にドイツ軍が勝利。
• 日本は北欧の動きに対し、外交的に英仏を支持。さらに極東からヨー
ロッパへの海軍派遣を検討。
2. フランス侵攻とダンケルク撤退(1940年5月~6月)
(1) ドイツ軍のフランス侵攻
• 1940年5月10日: ドイツ軍が西部戦線で攻勢を開始(フランス侵攻)。
アルデンヌの森を通る奇襲ルートで、英仏軍を突破。
• パンツァー部隊が先陣を切り、連合軍は迅速に包囲される。
• ベルギーとオランダも瞬く間に占領。
(2) ダンケルク撤退作戦(ダイナモ作戦)
• 英仏軍の約40万人が北フランスで包囲される中、ダンケルク港を通じ
て脱出作戦が実施される。
• 5月26日~6月4日: 英国が小型船舶を総動員して兵士を撤退させる。
• 英軍約30万人、仏軍約10万人が脱出に成功。
• この成功により、英国本土防衛の基盤が維持される。
(3) 日本の参戦表明
• ダンケルクの危機に際し、日英同盟に基づいて日本が本格的な参戦を
表明。
• 1940年6月5日: 日本は「英仏支援」を掲げ、ヨーロッパ戦線への陸軍
派遣を決定。
• 第一陣: 精鋭部隊(約2万人)がインドから中東経由で派遣される。
• 海軍: 地中海に艦隊を派遣、船団護衛任務に投入。
英本土には新編の第一航空艦隊(空母蒼龍、飛龍、龍鳳、龍驤が中心)を
派遣する。
3. フランス降伏とヴィシー政権の成立(1940年6月)
• 1940年6月14日: ドイツ軍がパリを占領。
• 6月22日: フランスが降伏し、ヴィシー政権が成立。南仏を拠点とする
傀儡政権が誕生する。
• 日本はヴィシー政権との関係構築を図る一方、ド・ゴール率いる自由
フランスを支援する英国との間で微妙な外交バランスを保つ。
4. バトル・オブ・ブリテン(1940年7月~10月)
(1) ドイツの侵攻計画
• ドイツはイギリス本土上陸を目指す「アシカ作戦」を準備。まず航空
優勢を確保するため、ルフトバッフェが空襲を開始。
• 英国の軍需工場、港湾、飛行場を目標に空爆が行われる。
(2) 日本の参戦
• 日本海軍は地中海とインド洋での作戦を主導。
• 地中海での活動: 日本の駆逐艦と巡洋艦がマルタ島周辺でドイツ軍の潜
水艦(Uボート)に対抗。英国の輸送船団護衛を強化。
• 航空支援: 日本陸海軍航空部隊がイギリス南部に展開し、ドイツ軍の空
襲に対抗。
(3) 英独空中戦
• **英国空軍(RAF)**がレーダー網を駆使し、ルフトバッフェに対抗。
• 日本の航空技術(零戦など)が投入され、ドイツ空軍に大打撃を与え
る。
• 日本の参戦により、英独間の空中戦はより激化し、ドイツの航空戦力
は消耗。
(4) 英国の勝利
• 1940年10月31日: ドイツ軍は航空優勢を得ることができず、アシカ作
戦を断念。
• 日本の協力により、英国の防空体制が強化され、ドイツの侵攻計画が
挫折する。