5、そして、面倒なことになる。
受験シーズン真っ只中。
私たち二年生は、来年の受験に戦々恐々としつつも、少しずつその準備を始めている。
放課後の図書室、いつものようにカウンターに座って、本ではなく参考書と相対する。静かな図書室だと英語が進む。これはここ二ヶ月のうちに分かってきたことだった。
三年生の姿を図書室で見なくなって暫く経つと、今度は大学受験を視野に入れている二年生をちらほら見かけるようになる。
見知った顔や見知らぬ顔。本を借りていく人もいれば、集中して勉強してから帰宅する人もいる。
その中には、本だけを借りていく変わった人もいた。
ぎい、と図書室の出入口のドアが開く。思わず顔を上げると、向こうも私を見ている。
変わった人の一人である、クラスメイトの山階青史君だ。
「お疲れさま、続木さん」
図書室だからと遠慮をして、小さい声で話してくれる山階君。
「いえいえ、山階君もお疲れさま」
私も、声を潜めて応対する。
彼は笑顔になると、既に鞄から出してあった本をカウンターに置いた。
「やっぱ女流作家いいわー。しばらく女の人だけでいいかも」
「……女性の書く文章の方が、男らしいし?」
「そうそう。それに、男の作家の書く女性像って、結構テンプレだったりするしさあ。女流作家の書く男性のテンプレのほうが、まだ読んでて面白いしね」
「……なんていうか、読書、楽しんでるね」
最近の山階君はすごい勢いで本を読む。先月なんて、私の一ヶ月に読む冊数を抜く勢いだった。
「うん、楽しいよ。そういえば、なんか最近面白い本あった?」
以前なら考えられなかったことだが、山階くんが読書にはまるようになって初めて、こういう会話が成立つようになった。この会話は定番中の定番だが、下手をすると互いが読んでいる著者の最新動向についての話になるなど、一気にマニアっぽくなるので気が抜けない。
「うう~ん、山階くんが読んで面白そうな本かあ……。特に?」
「俺は、続木さんの面白かった本を聞いてるんだよ。俺が読んで面白いかどうかは問題じゃないって」
言われて、言葉につまる。
確かに山階君は「最近の面白い本」ということしか言っていない。別にお薦めしてほしいわけでも、それを読むとも言っていない。
単なる世間話として、自分の読んだ本の話をする。しかも男の子と。これは、私にとってかなり特殊な体験だった。
しかし以前まで、山階君は私の読書案内を目印に本を選んで読んでいた。であるならば、質問に対して「彼が読んで面白い本」を連想するのも仕方がないと思う。
「別に面白くはないんだけど……ドラッガー読んでるよ」
「え、誰それ」
「アニメやるって聞いたけど……、それの原典?」
「へえ。で、面白くないと」
「もうね、勉強する勢い。でも知識は増えてる感じがする」
「ふうん。俺はね……」
現在の山階君の読書は、一般文芸の書棚を走り回っている感じだ。とにかく人気作家をあさっている。そして気に入れば新刊と同時に購入し、ざくざくっと読んでしまう。
大味なのに、基本的なところは押さえていく。まるで「男の手料理」みたいな読書スタイルだ。
「あ、そうだ続木さん」
さっきまで今週読んだ本について個人的な解説を加えていた山階くんが、唐突に話を変えた。
「自分で振っておいて話の腰をばっきり折らないでよ」
「ごめん。でもさ、今思い出したから言うよ。あのさ、来週隣町の大きい本屋まで一緒に行かない? 続木さんの楽しみにしている新刊、来週発売でしょ? 俺も楽しみにしてる文庫、同じ出版社だから来週発売だし」
ど? と笑顔で誘ってくる彼に対して、私は目を瞬かせた。
「あれ、なんか用事?」
「ううん、そういうんじゃなくて……」
この感覚を何と表現すればいいだろう。そう、退路を断たれた、とでもいうのだろうか。
正直に言うと、断る理由が見当たらない。それほどまでに洗練された「誘い」だ。誘われたものが思わず飛びつきたくなるような、巧妙さがある。
「うまいなあ、山階君」
私は苦笑して彼を見る。もちろん、山階君は私の褒め言葉を正面から受け止めたりはしない。ただ穏やかに笑って、「どういたしまして」と返してくるのみだ。
本を読むことで彼が、以前に増して余裕というか……、賢い雰囲気を纏ったと思うのは私だけではないはずである。
山階君との交流は、不思議な形で続いていった。
本屋の帰りにご飯を食べたり映画を見たりと、なんだかデートっぽいこともした。
それというのも、私の山階君への警戒心と言うか、自分で作っていた「壁」のようなものが、一回素直な感情を伝えて受け入れられたことによって、なくなってしまったようなのだ。
私は二人兄妹で、上に兄が一人いる。
そのこと自体はごく普通のことなのだが、兄は非常に頼りない。
「何でうちの兄ってこんなに頼りないのかな……」
「どこが!? こんなに頼りがいのあるお兄さんはどこにもいないでしょ!?」
「……帰ってたならそう言ってよもう! それに、頼りがいのある人は、自分からそうやって言わないものだよ、兄さん」
「兄さん!? ちょっと前までは『お兄ちゃん』って可愛らしく言ってたのに!」
「言うか、高校生にもなって『お兄ちゃん』とか! そんな可愛らしく言われるような人間でもないでしょ兄さんは!」
……台所で食器を洗っていたら、大学生の兄が帰宅した。
やはり今日もどこかで躓いたりこけたりしたのか、服の所々に土がついている。二十一にもなってどこでそんなに転んだり出来るのか教えてほしいところだ。
「ほら、ケーキ買ってきたよー。一緒に食べよ?」
「……お茶入れるから、お皿とフォークお願い」
「いいよ~」
兄は、抜けている。
しかし本人は自分のことを「頼りになる」と思っている節があるらしく、私がテストだったり行事だったりのたびに「何か困っていることはないか」と聞いてくる。
同じ高校出身だから、兄の言葉の中にはごくたまに為になる言葉も入っている。けれどそれは何というか……、「素早い学食の頼み方」とか「世界史での満点の取り方」とか、為になるようでならない知識がほとんどだ。
そしてそれは、在学している先輩方の中ではごく当たり前の情報であり、部活や委員会に入れば後輩は当然のように知ってしまうことだ。そして、学校の要らない無駄知識として、また自分の後輩に受け継がせていくものでもある。
もし私に頼りにしてほしいのなら、もう少し落着きとかしっかりさとか、そういうものを身につけてほしいと思う。どこかへ出かけるたびに側溝に嵌ったり、鍵をなくしたり、携帯を落としたり、財布を交番に届けられていたり……、例には限りがない。
がっしゃーん、という背後の音には気付かなかった振りをして、私は紅茶を入れ始める。
兄のそそっかしさから故か、我が家の食器のほとんどは割れない仕様のものだ。「大丈夫か」と気を回すこと自体が無意味に等しい。
兄が手が掛かる子だったせいか、そしてそんな兄の背中を見て育ったせいか、私は末っ子の割に人に頼らないで行動する癖がついてしまった。
兄と共に行動していたら、要らないトラブルに巻き込まれることが多数あったので、もう一人で動いていたほうが楽だと悟ってしまったのだ。
紅茶が出来たので、トレイに乗せてリビングへと足を向ける。
何とかケーキを皿の上に乗せ、フォークを準備して待っていた兄上。正座して私を見上げる様は、お前本当に成人しているのかと疑わしくなってくる。
「凛子って紅茶入れるのは上手いよな。母さん並みに」
「……どうも」
褒められて嫌な人間はいない。今は、貶すのをやめてあげよう。
兄は兄だ。一緒に育ってきたのだから、もう何も言うまい。
しかし問題というわけでもないのだが、つまりそのように――兄や両親にも頼らないで頑張る姿勢が身についてしまってからは、私は特にクラスメイトや友人にさえものを頼むのが難しい性質になってしまった。
手助けや悩みごとを聞いたりするのは得意でも、自分の問題を相手と共有しようとは、何故か思えなかった。
それはもしかしたら、本当に助けてほしいことなんか、私の人生にはなかったのかもしれない。もしくは、自分で気付かないうちに、人に頼らないで自然と我慢する癖がついてしまっていたのかもしれない。
そして最近、私のその姿勢は崩れつつある。
「これ、どっかに運んでおく?」
山階君はカウンターに山積みになった本を指さして、私に尋ねる。
「ええ~……と、どこの棚かって、番号見て分かる?」
「あ、うん。多分。分かんなくなったら聞いてもいい?」
「うん、よろしくお願いします」
「了解」
彼は積まれていた書籍を十冊余り抱えると、棚の影へと消えた。山階君は、私より十五センチほど背が高い。なので、私が精一杯背伸びをして届く一番上の棚に、ひょいと手が届くのだ。しかも重い本を十数冊いっぺんに運べる。こういうときY染色体が羨ましくなる。
彼は時折委員会の仕事を手伝ってくれる。今日は自分から申し出てきてくれたが、いつもなら私が「ごめん山階君ちょっといいかな」と言って頼むのが常だ。
私にしては酷く珍しい行動。迷惑かな、と思いつつも、私は山階君をほんのりと頼ることをやめない。
それに今日は両親の結婚記念日で、二人は一緒に夕食を食べてくるということだった。早く帰宅しなければ兄の壊れた味覚で作られる料理を食べなければいけないことになるかもしれない。それだけは回避したい。
けれど、三十通余りの督促状と、四十冊はあるであろう返却図書をあと三十分で片付けるなど無理だと思っていた。山階君は先ほどまでいなかったし、兄のおいしくない料理を黙々と口の中へ片付ける自分を想像して嫌な気持ちになっていたところだった。
折角の天からの助けである。存分に助からせていただこう。
私は猛然と目の前の督促状に手を付け始めた。
二十分後。
「続木さん、俺、終わったよ」
「……さすが山階君、仕事速いなあ」
「んな褒められるほどのことしてないって」
「ううん、私なら確実にあと十分は掛かってるよ。本当に山階君は仕事速い上に、しかも仕上がりが綺麗だからなあ」
「……それ、誰が言ってたの?」
「司書の元口先生。委員会のときにみんなの前で褒めてた」
「うっわ……何それ恥ずかしいんだけど」
「ね。本人のいないところで悪口なら分かるんだけどね。褒めても、本人いないのにね」
言って、私は最後の一通だった督促状を書き終わった。後はこの束を持って職員室に行き、国語科の先生に御渡しすればいいだけである。
「山階君、本当にありがとう! 今日は早く帰りたかったから……、本当に助かっちゃった」
正直、私が何か言っても、彼は謙遜して笑うだけであることは分かりきっている。
それでも、言いたかったのだ。本当に助かったから。
「いえいえ、どう致しまして」
山階君はいつものように、爽やかな笑顔で返答するのみだ。
「……ねえ、山階君」
「ん?」
何となく聞きたくなってしまった。あと五分あるという時間の余裕が、私にその質問をすることを許した。
「何か……お礼が出来るってわけでもないし、その……、こんな風に頼られるの、嫌じゃない?」
山階君の親切が疑わしいとか、そういうことではない。
ただ、いつも笑って仕事を助けてくれる彼は、その仕事を厭わしく思っていないだろうかと、少し不安になったのだ。
山階君は一瞬呆けたように私を見た。次いで顔をほころばせて、にっこり笑う。
「全然、嫌じゃないよ。むしろ嬉しい。続木さんが頼ってくれるの、俺楽しいよ」
呼吸が止まり、心臓も少しの間、動きを止めたような気がした。
もちろんそれは錯覚で、きちんと鼓動は続いていたし、呼吸だって正常だったのだけれども。
「急いでいたよね? 時間大丈夫?」
ぼんやりしていた私に、山階君が行動を促す。
「あ、うん、急がなきゃ。……山階君、今日は本当にありがとね」
「今度またジュース奢ってよ。それでいいし」
「……うん、じゃあ途中まで一緒に行こうよ」
「うん、じゃあ玄関まで」
特別棟から職員室までは、玄関を通って反対側だ。職員室は普通棟にあるのだから仕方がないといえばないのだが。
一緒に歩く道すがらも、私はさっき自分を襲った謎の症状について、ずっと考えていた。
まさかなあ、という予感だけを頭の中に残しながら。