4、惹かれる? 轢かれるの間違いよね?
夏休み前に昇った階段は、以前と同じようにいつもの空間と切り離されているような感じがした。
窓の外は木枯らしが吹きすさぶ、冬のどんよりとした曇り空。
寒空の下、練習に明け暮れる運動部だけが、夏と変わらない姿でグランドを駆けずり回っている。「継続は力なり」だ。
「オツカレサマデス……」
思わず声が出る。何というか、彼らの殊勝さを見習いたい。真剣に。ホッカイロあったけぇ。
東京よりも緯度の高いこの辺では、暖房の入っていない廊下で息を吐くと白く空気が濁る。特別棟北側階段も例外じゃない。
俺は何をしているかというと、そんなクソ寒い階段を三階にある図書室に向かって昇っているところだった。冬季休業前に借りた本を返すために。
階段を昇りきり、すぐ左手にある図書室の扉を押す。
さすがに受験シーズン真っ最中なので、学校の図書室で勉強する先輩方はむしろ少ない。皆様ご自宅で体調管理しつつ熱心に机に向かわれているのだろう。
俺が図書室に入ると、カウンターに居た女生徒が顔を上げる。
続木凛子嬢、クラスメイトの図書委員様である。
目線で挨拶を交わすと、俺はそのままカウンターに向かった。彼女も腰を上げて、対応する準備を整える。
「お疲れ、続木さん」
「山階君も。返却?」
「うん、そう」
はいこれ、と鞄から借りていた本を取り出す。『うたかた/サンクチュアリ』は、思っていた以上に面白かった。思わず頬を弛めると、気付いた彼女が首を傾げる。
「どうしたの?」
「いや、この本、面白かったから」
「……ふぅん」
続木さんは、はっきりと眉をしかめた。
彼女はきちんと周りが見えているはずなのに、ときどきこんな風に感情をストレートに表すことがある。傍で見ている分には面白い。気持ちの流れが唐突で読めないし、そして何よりその変化のキッカケが自分じゃないから、無責任に楽しめる。
「どうかした?」
「ううん、なんでもないよ。はい、返却完了」
本をバーコードに通すと、がたっと音を立てて椅子に座る続木さん。
少し好奇心が顔を出す。
「ねぇ、何でそんなに不機嫌そうなの?」
「は? 不機嫌? 何で?」
彼女は心外だという顔をした。そりゃそうだ、多分俺に見せてる意識のない感情だろうから。
「俺が『うたかた』面白かったって言ったら、続木さん、顔しかめたよ?」
表情を消して俺を見る彼女。続いて頬がむくれる。視線をちらっと横に逸らす。気まずそう。
「そりゃ……あの本面白かったって言われたら、少し、いらっときて」
「へぇ? そりゃなんで?」
興味を惹かれて尋ねれば、続木さんはむしろ俺のほうが不思議だという表情で尋ね返す。
「じゃあ聞きたいんだけど、山階君はあの本のどこが面白かったの?」
「え? うーんと……」
そういえば何でだったか。もう読んでから一週間は経っているから、「面白かった」という記憶は残っていても、そこで「どこが」という明確な記憶が出てこない。
「えー、別に普通だよー。登場人物? の設定? とか。台詞とか文章の運びとか? 読み易かったし」
俺の言葉に、段々俯いていく続木嬢。え?
「や、ほら、ああいう独り言っぽい小説って、初めて読んだし。そいで、どっかこっか表現がリアルだったりするじゃん。そういうのが何かいいなーって」
完全に顔をカウンターの向こうのスツールに埋めた続木さん。え、え?
「それとさ、女の子の気持ちの書き方が可愛くて、ああいうの良いなって素直に」
思わず思い出してしまう。『うたかた』の主人公は本当に可愛かった。何事にも受身なのに、受け入れたらそれを大切にしようとする。自分にないものだと思った。
続木さんは俺の言葉の途中で、椅子から立ち上がった。顔は俯いたまま。長い前髪が表情を隠す。
「山階君って……女の子に夢見すぎじゃない?」
俺を見る続木さんの視線は強かった。いつだったか、彼女の告られシーンを覗き見た俺を責めたときと同じくらいに強い視線。『うたかた』の主人公とは違う、俺の考え方を拒否する目線。少し怖い。
「そういう本を『面白い』っていう人、普通すぎて、怖い」
俺は彼女の言ってることが全く分からなくて、暫くその強い眼差しをじっと見つめ返した。すると、ゆるゆると彼女の視線が下がっていく。「あああああ……言っちゃった……」という、いたたまれなさを表す空気が、彼女から大量に発散されている。
なんだこれ。
「続木さん?」
不思議だったので、とりあえず尋ねてみたら、彼女の肩がびくっと跳ねる。
「どったの?」
じいっと彼女を見ると、さっきとは恐らく違う理由で顔をどんどん下降させていく。恥ずかしいのだろうか、顔を両手で覆っている。
「……なんでもない」
「何でもないって顔じゃないだろ」
説明しろよー、という気持ちを込めて、そう言ってみる。
続木さんはゆっくりと顔から両手を離した。うーん、赤い。面白いな。全く理由が分からない故に。
「『うたかた』をね」
「うん」
ゆっくり話そうとする彼女に合わせるように、相槌を打つ。
「昔読んだことがあって」
彼女は気持ちを落ち着けるように、息を吐きながら話す。
「読んだときは山階君と同じような感想を持ってたんだ」
俺はびっくりして目を見開く。殺人事件が楽しいとか言ってるような女の子だ。昔俺と同じ感覚を持っていたというのが驚きだ。
「でも、分かってると思うけど、いろんな本を読むうちに、段々『うたかた』の文章の雰囲気が痒くなっちゃったっていうか……恥ずかしくなっちゃって。それで、なんていうか、本を読み始めたばっかりの山階君の感想が、その、まんま『普通の人の感想』で戸惑っちゃったというか」
「? どういうこと?」
「えーと、つまり、意見が真っ直ぐすぎて辛かった」
「はぁ?」
驚いて声を大きくする。
「こら、静かに」
司書室から先生が顔だけ覗かせて注意する。俺と続木さんは一斉に先生の方を見て、頭を下げた。先生はその様子を眺めると、満足して司書室へと戻っていく。ほんのりと香るコーヒーの匂い。羨ましい。
「うーんと、ごめん、個人的な感想過ぎた」
「?」
唐突に話を続けた彼女に、視線で説明を求める。
「普通の人が普通に持つ裏表のない率直な感想だけに、聞いてていらっときちゃったの。たっくさん変な本ばっかり読んでると、なんていうか、物事を真正面から捉えるなんて出来なくなるっていうか。『これって実はこうなんじゃない』って、裏の意味を読み取ろうとしちゃうって言うか」
……ふーん?
「で、何でそれが怖いってことになるの?」
「! それは……」
続木さんは渋っている。ここまで聞いてみると、最後まで聞きたくなる不思議。
「考え方の違いっていうか……山階君と私は考え方が違うのは当たり前、なんだけど、その違いが、怖かったって言うか」
「てーと?」
彼女は追い詰められたような顔をしている。これはレアだ。どんなときでも一定のテンションを保っている彼女からすれば、これは珍しいといわざるを得ない。ますます面白いな。
「ば、馬鹿にしてるわけじゃないんだよ? でも、もう五年も前の自分と似たような感覚を、同級生の男の子が持ってて、しかも悪気もなく話したら、どういう気持ちになる?」
というと、もう五年も前の自分が持ってた感覚を、今同級生の女子が持ってて、それを恥ずかしげもなく表明してるのを目にしたらどういう気持ちになるか、ってことか?
「あー、なるほど。確かにそりゃ、なんつーか一種の優越感とかあるわー」
俺は地味に頷いてしまった。だってもう既に自分の中で通過しちゃったことで相手が喜びを感じてたら、よほど親しい間柄でもない限り「一緒に喜んで」などあげられない。ある種の優越感だけが胸の中にある。
「でも怖くはないけど?」
「えーと、それは、もうそのときの自分と今の自分がかけ離れすぎちゃってて、今の自分は昔の自分を理解する事が出来るけど、昔の自分に対する自己嫌悪とかもあるから、何か恥ずかしいって言うか、拒否反応?」
続木さんはさっきよりもものすごーく申し訳なさそうな表情で俯いている。
思わずにんまりと笑ってしまう。
「はは、続木さん、そんなに落ち込まないでよ」
彼女は信じられないという視線を俺に向ける。なんだその目は。
「良いじゃん、申し訳なさそうな、そいでもって自分の感情に振り回されてる続木さん」
そして彼女は硬直した。何故固まる。
「そんで、俺が続木さんとおんなじ感想持ったってことは、俺には続木さんを分かる素質があるってことじゃない?」
冗談めかして言うと、彼女はようやく瞳を見開いて「ああ」と言った。共感していただけて何よりです。
「まあだからさ、俺たいていのことには怒んないし、相手の言うことに逆らったりする気ないから」
にっこりと、音でもしそうな顔で笑ってみる。
「俺のこと怖がったりしないで、話しちゃえばいいと思うよ。俺も、俺に遠慮しない続木さんのが良いし」
どんな相手だろうと、怖がられりゃいい気はしないもんですよ。
続木さんは、初めて言葉を聞いた人みたいに、固まって俺を凝視する。その眼力に今度は俺のほうが耐え切れなくなって、視線を逸らす破目になる。
「……山階君って……」
ん? と思って彼女を見遣る。言葉の続きを視線で促したけれども、彼女は首を振って緩く笑うだけだった。
以後彼女は割り切ったのか、俺の前で繕ったりしなくなった。
時には俺の借りていく本に、すげない批評を食らわせてみたりと、借りていく俺のテンションを下げようと躍起になったりした。子供か。
それで実際に下がったら、フォローしだすのだからまた面白い。
彼女と過ごす時間は楽しい。
そう思うようになった年明けだった。
この話を書き終わったとき、すべての話の予定が変わりました。
心変わりをした続木・山階。どちらのキャラも私の言うことを聞いてくれませんでした。