1、「些細」な「きっかけ」なんて、この世にごまんとあるものよね?
ぺたん、ぺたんと、踵をつぶした上履きで、階段を上る。
階段の踊り場に設えられた窓からは、抜けるような青空と、強火で温められたフライパンのようなグラウンドが広がる。もちろんそこでは、高体連を終えて、もしくは全国へと駒を進めた運動部が、せっせと水分消費に勤しんでいる。
「ごせいがデマスネー」
俺が今上っている階段は、校舎の北側になるので、少し薄暗いが、どこか空気がひんやりしている。風通しが良い印象がある訳でもないのに、不思議だ。
三階分の階段を上りきると、もう図書室は目の前だ。
ああ、めんどい。
何だって高二にもなって「夏季休暇読書感想文」なんて書かなきゃならないんだ。
でも、きちんと夏休み前に、しっかり図書室に来ている、自分の意外なマメさに驚きつつ、俺は溜め息のように一つ息をゆっくり吐くと、図書室に向かって歩き始めた。
開館中、と書かれたプレートがあるのに、扉上半分のガラスから覗ける室内には、人気がない。ちょっと異様だな、と思いながら、静かにドアノブをひねり、音を立てずに中に入る。
「話って何?」
どきりとした。自分に声を掛けられたのかと思った。
声がしたほうを見ると、手前の棚の向こうに、人がいるらしかった。何だ、と思って少し安心する。
「えっと……続木って、付き合ってる人とかいる?」
「いないよ」
あー、俺、音立てなくてせいかーい。でもじっとしてる訳にもいかないので、どうせなら見物していこうと思った。我らが男子の告白タイムだ。成功した暁には「おめでとう!」と肩を叩いてあげよう。心の中で。
本棚の隙間から、窓際に並んで向かい合っている二人を観察する。
男の方は……あれ、放送局長じゃねぇか。確か高文連で県大会への出場が決まったっていう。
代替わりしたばっかで大変だな、と言ったら、やれるだけやってみるよ、とちょっと男の俺でもクラっときそうな素敵笑顔でのたまった。まぁいわゆるイケメンだ。校内における人気は高い。
告われてる方は……見たことあるけど、どこでだったか。黒髪サラサラストレートロングで眼鏡なんて、そんなテンプレ、記憶に残るほうが確率として低いのかもしれない。
「俺……君のことが、す」
「ごめんなさい」
……………………は?
「興味ないんだ。志田君のことは友達だけど、それ以上には見られない。ごめん」
言い切ったほうも言い切ったほうだが、それ以上に傷ついた志田の顔を見た俺は、見てごめん、と心の中だけで謝った。あとでラーメンくらい奢ってやりたい。不審がられるだろうが。
それと同時に湧いてくるのは、思ったよりも強い怒りだった。おいおい、それはねぇんじゃねーの、と。
志田がこのタイミングで告った理由を推測できないほど、バカでも間抜けでもねーんなら、せめて皆まで言わせてやれよ、と。相手の言葉をぶった切って、何も聞かずに一方的に喋るなんて、志田の気持ちを何だと思ってるんだ。
ただのセリフや単語じゃねーんだ。空気読め! そこの女!
イライラが最高潮に達したところで、「……わかったよ」という沈んだ志田の声が聞こえた。そのまま踵を返して、ゆっくりと図書室を出て行こうとする。
俺はイライラをいったん収めると、足音を立てずに、志田の後を静かに追った。
女の方が動く気配はない。それでいい。そのままそこに居てくれ。
俺がここに居たことがバレるのは避けたい。だから、志田の開けた扉が閉まる前に、一端外に出ようと思った。それなら、あとで何食わぬ顔をして図書室に入れば大丈夫なはずだ。
ここの扉は、一回一回意外と大きく開けて、しかも閉めるのを自然と待たなきゃいけないから、タイミングさえ間違えなきゃいけるはず。あの女に勘付かれることもきっとない。……きっと。
こういうのは運動神経というよりは集中力だ。尻のほうにある肩掛けかばんをどこにも引っ掛けないように、そして、志田が開けた扉の音が終わらないうちに、戸の隙間に体を滑り込ませる。かばんがそんなに厚くなくてよかったと、ほっと胸をなでおろす。ほっとしたついでに、ずるずるとその場にへたり込む。
志田は図書室を出て、まっすぐ同階の放送室に向かっていった。荷物を持って帰るにしろ、しばらく篭もるにしろ、俺は目を閉じて三つ数えた。息を吐いて目を開ける。そしてしっかりと三十数えた。
立ち上がり、今度は音を立てて図書室の扉を開けた。告られてた女は、まるで何事もなかったように受付カウンターで本を読んでいた。図書委員だったのか。彼女が普通の生徒じゃなかったことに感謝した。もしそうだったら、さっき必ず鉢合わせしてただろうから。
彼女は、こちらにちらとも視線を寄越さない。
……気づかれてないよな。
心臓が一回一回重く響く。回数が多くならないのが、まぁ場数を踏んでいると言うことなのかもしれない。
俺も何食わぬ顔で、文庫のコーナーに足を止める。
何かもうどうでもいいや、と思い、碌に中身を確認する気もないまま、一冊の文庫を抜き取る。
タイトルすら確認せずに、振り向いて受付カウンターに歩み寄り、テーブルに本を置いた。
彼女は読んでいた本にしおりを挟むと、立ち上がって俺が置いた本を手に取った。取ったまま、固まる。じ、っと本のタイトルを見ていたかと思うと、ゆっくりと俺に視線を向ける。
何だろうと思って、訝しげに見返すと、彼女はとても強いまなざしで俺を見ていた。ええとこの目線は……睨んでいると言ってちょうどいい強さだなぁ……。
「見てたよね、さっき」
問いかけではなく断定的に言われて、とっさに言葉が出なかった。やばい、これじゃあ、相手の言っていることに「はい、そうです」って言ってるようなもんだ。
「いや、えと、その」
「いいの、そのこと自体は気にしてないから。でもさぁ……さすがにコレはないわ……」
多分、元からイラついていたんだろう。今のはそれに、更に油を注いだ感じだ。
彼女は俺が持ってきた本を、俺の方にタイトルが見えるように置き直すと、一息に言い切った。
「この時期に『ホワイトアウト』はないわ! せめて『ブレイブ・ストーリー』くらい読みなさいよ! それか『僕らのサイテーの夏』とか! ちょっとくらい、空気読んで、本選んでよね!」
……………………はぁ?
目を丸くする俺に、彼女は『ホワイトアウト』を突っ返そうと、本を俺の方に向けた。
いやいやいやいやいや。
「ちょっと待て、俺が何を借りようとどうでもいいだろ」
「どうでもよくないわよ、盗み聞きした上にこの本のセレクトははっきり言って許せないわ」
気にしてないんじゃなかったのか!?
「あのさ、それなら俺もあんたに言いたいことが一個あるんだけど」
「何よ」
相手への気持ちに、先ほど感じた怒りが上乗せされていく。
「志田、これから色々大変だってのは、『友達』なら分かるよな。さっきのあの態度はねえと思う、正直」
「んな……!」
思わず低い声が出て、それに彼女は顔を赤くした。照れというよりは、多分に怒りだ。指摘されてカッとなってる。
「だから何なのよっ! あなたに関係ないじゃない!」
それでも本を突っ返した姿勢のままなのが、よりそれを強調している。
このままじゃどこまでいっても平行線だ。
はぁ、と強く息を吐き、俺は彼女の手から文庫本を取ると、さっき本を取ったあたりに無造作に突っ込み、代わりに薄い文庫本を取る。
「ハイ」
「……生徒手帳出して」
彼女もちょっとだけ落ち着いたのか、俺の手から本を受け取ると、ピッとバーコードを通した。その間に俺はかばんから生徒手帳を取り出して、カウンターに置く。彼女は手帳の中の写真を確認すると、白紙のカードを取り出して、俺の名前とクラスと出席番号を書き込んだ。
返却日の書き込まれたしおりっぽい紙を文庫に挟むと、平静に努めようとする声で呟いた。
「返却は始業日です」
文庫本と生徒手帳を重ねて、俺の方に差し出す。
「どうも」
俺も呟くように礼を言って、かばんの中にそれらを入れる時間も惜しくて、図書室を足早に出る。
何なんだよ、もう。
録に気も使わずに、かばんの中に本と生徒手帳を突っ込む。
イライラする。
「気にくわねー!!」
かなり大きな声が階段に響いて、少し自分でびびったのは、また別の話。