ヤマアラシの少女 第6章
肋骨の内側が、ズキリと痛む。
痛い。痛い。痛い。
わたしの心には、生まれながらに棘が刺さっています。
わたしは、一族の誰とも違いました。わたしには棘がありました。お母様は、わたしを生んですぐに亡くなられました。わたしを生む時、わたしの棘が、お母様を傷つけてしまったから。
ワタシガ、オカアサマヲ、コロシタ。
わたしは罪の娘。
親殺し。
許されることのない罪を背負っています。
お屋敷の誰もが、わたしのことを腫れ物のように扱うのも、しかたのないこと。お屋敷の離れに閉じ込められ、決して出てはいけないと言いつけられるのも、しかたのないこと。お父様が、わたしを憎んでいらっしゃるのだから、それらはすべてしかたのないこと。
ああ、お父様。
申し訳ございません。
わたしはあの時、お父様に助けてもらいたかっただけなのです。
あの夜、わたしの身体になにかが取り憑きました。それはねっとりと絡みつくような、邪悪な思念の波でした。波に心をかき乱され、わたしは内に眠る衝動を抑えることができなくなりました。後から後から生えてくる棘を、止めることができませんでした。わたしはとても怖かった。わたしはわたしが怖かった。だから離れにあらわれたお父様を見て、思わず駆け寄ってしまいました。
自分に、棘があることを忘れて。
わたしの想いが、どんな結果を生んだでしょうか。
ワタシガ、オトウサマヲ、コロシタ。
わたしは罪の娘。愛される資格がない娘。なのにどうして、待ち受ける結末がわかりながら、それを求めてしまったのでしょう。
親しくなってはいけません。
期待してはいけません。
わたしは、そういう生き物ですから、傷つけずにはいられないのです。
痛い。痛い。痛い。
胸が、痛い。
*
ふと顔を上げた雛子の瞳に、少年の姿が映る。怖かった。恐ろしかった。そんな時はいつも棘を向けてきた。相手が動かなくなるまで棘を向ければ自分は安心できる。
あの少年は、何度も棘を向けたのに、再び自分の前に現れた。
なぜだろう。
あの少年を知っている気がする。
だけど頭がぼんやりしてうまく思い出せない。
少年がトラックに着地したと同時に、
「来ないでください!」
雛子は腕を振り、棘を放った。
着地を狙われることを、少年は予想していた。盾をかまえて棘を防ぐ。ライフルに匹敵する速度を誇る棘だったが、盾の表面を舐めるだけで傷ひとつつけられずに進路をそらされ、彼の背後の壁にぶち当たった。
少年はなにごともなかったかのように雛子に向けて歩き出す。
「怖いでしょう。恐ろしいでしょう」
雛子は両手を突き出した。両手から、マシンガンのようにズダダダダと絶え間なく棘が発射される。撃ち出されていくたびに、背中や足下からザラリと棘が移動していく。そうやって、次から次へと棘が腕から発射されていく。
「うお」
猛烈な連打に、少年は気圧される。盾に響く衝撃が、点から面に変化する。それでも少年は歩くのをやめない。嵐の日に傘をさして歩くように、気を抜けば一瞬で吹き飛ばされてしまいそうな風にも負けず、一歩一歩確実に進んでいく。
「どうして止まってくれないのですか。わたしが怖いのでしょう。わたしが恐ろしいのでしょう。だから来ないでください。お願いですから」
雛子は声をからして訴えた。
「怖がってるのは、お前の方だろ」
少年は静かに告げた。
「ひっ」
雛子は一歩退いた。
事実だった。目の前の少年が、怖くて怖くてしかたがない。
「こ、来ないでください」
「わかるよ、お前の気持ち。おれも他人と……世界とかかわるのが怖かったから」
「それ以上、来ないで。来ないでえっ!」
もっとたくさん棘を向けなければ。
もっとたくさん棘を飛ばさなければ。
自分が自分でいられない。
わざと盾に当てているつもりはない。本気でバラバラにするつもりで撃っている。なのに、まるではじめからどこに飛んでくるのかわかっているみたいに、すべての攻撃を受け止められてしまう。悪魔でも取り憑いているのだろうか。
「いいぜ。とことん付き合ってやるよ」
少年がなにを言っているのかわからない。まさかそんなことできるはずがない。この身体には、幾千幾万幾億の棘が生えている。それだけの数の傷をつけられる。それだけの数を耐えられるはずがない。
わたしは必ずあなたを傷つけてしまう。
なのにどうしてあなたは、逃げてはくれないのですか。
なのにどうしてあなたは、近づいてこようとするのですか。
わたしが、怖く、ないのですか。
「到着」
「あ――」
気づけば、少年はあと一歩の距離にいた。腕を向けるが、なにも起こらない。おかしい。意識を集中させ、拒絶のイメージを作り上げても、棘が撃てない。
「無駄だよ。お前は棘を撃ち尽くしている」
「ああ――――」
両腕をかざす。剥き身の卵のような鎧の地肌があるだけで、棘はどこにも見あたらなかった。涙は涸れ果て、頭は真っ白になり、ぺたりと尻餅をつく。
「いや……、助け、助けてください」
周囲を探るが、穿たれた地面や壁があるだけで、ここには自分と少年しかいなかった。
「あんま面倒かけさせんな。最初っからそう言えばいいんだ。助けて欲しいってな」
「無理を、おっしゃらないで……――」
返す声がひび割れる。
「わたしは人を傷つけずにはいられない娘。そんなわたしを、いったい誰が助けてくれましょうか」
「勝手に決めつけるなよ。お前のこと心配してるやついるんだぜ」
そう言って少年は、雛子の手に、手のひらサイズの箱を押しつけてきた。
『もしもし。雛子さんですか』
箱がしゃべった。びっくりして落としそうになる。恐る恐る箱を顔に近づけ、言った。
「は、はい。それはわたしの名前です」
月凪雛子。
それが自分だ。
『無事、だったんですね。良かったです。本当に良かったです。なにも言わずに出て行っちゃうから、わたしいっぱいいっぱい心配したんですよ』
箱から聞こえてくる声には、聞き覚えがあった。
「透花、さん?」
『はい。星見透花です』
覚えている。疲れてくたくたになったところを助けてくれた人だ。
『あの、どうして出て行ったんですか?』
それは、透花が不用意に近づいたから。
彼女が優しくしてくれるたびに、甘く切ない気分で胸がいっぱいになり、かと思えば自分の部屋に勝手に踏み込まれてしまった時のような言いようのない居心地の悪さも同時に感じ、頭がぐしゃぐしゃになってどうしていいかわらず、だから彼女の元を去ったのだ。
その想いを形にするとすれば、
「傷つけてしまうのが怖かったのです」
そんな表現になるだろう。
『よかった。嫌われたのかと思ってました』
透花は、ホッとしたように呟いた。
「わたしに嫌われたくないのですか」
『それはそうですよ。お友達に嫌われたいなんて思う人いません』
必死になって主張してくる。
「おともだち?」
そんなことを言われたのは、初めてだった。
『わ、わたしは、雛子さんのこと友達だと思ってますよ』
透花は少しオドオドしながら、しかし念を押すようにはっきりと告げた。
再び目頭が熱くなり、
「ありがとうございます」
大粒の涙が、まぶたを押し上げこぼれる。悲しくないのに、怖くないのに、わけもわからず涙が流れる。嬉しいはずなのに、笑うではなく泣いてしまう、こんな気持ちを初めて知った。意図せず口に滑り込んできた涙は、暖かい味がした。
そんな雛子の傍らで、少年が眩しそうに目を細めていた。