ヤマアラシの少女 第2章
透花の住むマンションは、ゴミ捨て場から五分ほどの場所にある。そこに透花は、二週間前から住み始めたばかりである。
二週間前。
忍と透花は、とある事件に巻き込まれた。
人に言っても、信じてもらえないに違いないけれど、世界が終わってしまうような、とんでもない事件だった。
人智の及ばぬ人外の化け物と、戦ったのだ。
そんな夢か幻かわからないような事件の渦中にあった忍たちを助けてくれたのが、〈ホーム〉と呼ばれる互助組織の人たちだった。〈ホーム〉は化け物退治の専門家であり、また化け物にかかわった人たちを保護し、援助する組織だ。
忍も透花も、筆舌しがたいげ化け物――〈異形幻夢〉と呼ぶのだが――にかかわり、影響を受けた人間として、今は〈ホーム〉に所属している。
透花のマンションは、彼女のために〈ホーム〉が貸し与えたものだった。
さて、行き倒れを背負い、ゴミ捨て場からマンションまでえっちらおっちら歩き、玄関扉にたどり着いたところで、透花は思い出したように言った。
「ちょっと待っててください」
照れたようにはにかみながら、透花は扉を開ける。扉は忍の視界を大きく隠すように立ちふさがり、透花はその裏でコソコソと家に入っていく。しばらくの間、扉の向こうからドタバタと音が聞こえ、そして女の子を背負う腕がしびれ始めた頃、
「お待たせしました」
若干、頬を上気させ透花は扉を開けた。
「おじゃまします」
「あ、あんまりジロジロ見ないでくださいね」
「興味ない」
あえてそう言ってみせる。
同年代の女の子の家なのだから、本当はそれなりに緊張していた。
「……そう、そうですか。興味ないですか」
透花が寂しそうに肩を落とす。
見て欲しいのだろうか。
透花の家に上がるのは、引っ越しの手伝いをした時以来だ。
あれから二週間が経過しているけれど、まだあまりものがなく、2LDKの家は独りで住むにはがらんとしていた。目立つのはテレビのうえに並んでいるぬいぐるみぐらい。もっとも、待たされている間に透花が片付けたおかげで、このような状態になっているのかもしれない。
それはさておき。
家具と言えば、テレビとちゃぶ台がちょこんとおいてあるだけのリビング。そのカーペットの床に、行き倒れの女の子を寝かせ、部屋の隅にあったクッションを手に取り、彼女の頭の下にいれてやる。
そこに透花が、濡れたタオルを持ってやって来る。女の子のそばに腰を下ろし、タオルで丁寧に足を拭ってやる。女の子は靴を履いておらず、裸足で歩き回っていたために、足の裏が土や埃で真っ黒になっていた。
「冷たい……」
キュと顔をしかめ、女の子が目を覚ました。
「あ、よかった」
ホッとしたように透花は呟き、微笑みながら忍を振り返った。忍が頷き返すのを確認すると、再び女の子に向き直る。
「ここは……」
女の子は、ようやく意識がはっきりしてきたようだ。
彼女は半身を起こし、ゆっくりとあたりを見回し、状況を確認していった。知らない場所で知らない人間と一緒にいる。そのことを理解した途端、不安で顔面を蒼白にし、タオルを蹴飛ばして後ずさった。
「近寄らないでください」
透きとおるような声による、明確な拒絶の意志。
落ちたタオルを呆然と見つめていた透花は、我に返り、
「落ち着いてください」
相手の警戒心を解くために、ゆっくりとやさしく話しかける。
「覚えていますか。あなた、道ばたに倒れてたんですよ。夜の街は色々と物騒ですから、危ないと思ってわたしのマンションに連れてきたんです。あ、そうそう。わたし、星見透花って言います。透花って呼んでください」
「とう、か」
「そう、透花です」
女の子に呼びかけられ、透花は花が咲くように笑った。
「あの、もしよかったらあなたの名前を教えてください」
そこでフッと女の子の表情に影がさす。
頬が引きつり、唇を戦慄かせる。
尋常な反応ではない。
「名前を教えてもらわないと、あなたのこと、どう呼んだらいいのかわからないんです」
「…………」
女の子は黙り込む。透明な瞳で、値踏みしてくる。
あたふたしながら、透花は取り繕う。
「う、あ、無理にとは言いませんけど、教えてくれたら嬉しい、です」
「……………………」
沈黙は続く。
無言の圧力に打ちのめされた透花は、顔をくしゃくしゃにして振り返る。
「ふえ。わたし、嫌われたんでしょうか」
「嫌われたというより、信用されてないんだろ」
彼女の立場を考えれば、無理もないことである。
目を覚ましたら、見知らぬ男女に顔をのぞき込まれ、「倒れていたから連れてきた」と言われても、「はい、そうですか」と頷けるような人間は少ないだろう。
少し、助け船を出してやることにした。
女の子のそばで片膝をつき、目線の高さを合わせる。女の子が軽く後ずさるが、かまわず話しかける。
「なあ。あんたが、どういう事情を抱えてるのか知らないけど、いくら勘ぐったって意味ないぜ。こいつのは、ただの親切心だ。他意なんてない」
隣で透花が照れたようにはにかむ。
「だいたい見ればわかるだろ。こんな善人丸出しのやつに、人を利用したり、罠にかけたりなんてできるはずがない」
透花が首をかしげる。
「それ、褒めてませんよね」
「素直で純朴なやつだって言ってる」
「あ、じゃあ、褒めてくれてるんですね」
「そうだよ」
本人が満足しているのなら、この際『善人丸出し』や『素直で純朴』が、褒め言葉かどうかは置いておく。
その時。
うっすらと。
忍と透花のやり取りを見ていた女の子の表情が、緩む。
「はじめて笑ってくれましたね」
透花はとても嬉しそうだ。
「わたし、笑っているのですか」
女の子は自分の浮かべている表情がわからないようで、少し不思議なことを尋ねた。「はい」と透花が頷くと、女の子はぺたぺたと顔に触れ、自分が作っている表情を確認する。
「そうですか。わたし、笑っていますか。……とても久しいこと」
末尾の一言は、誰の耳にも届かずふわりと溶けて消える。
「雛子とお呼びください」
彼女は正座になり、背筋をピンと伸ばして透花に言った。
日常では使われない、上品な言い回し。
姓を告げることはなかったけれど、透花はたいして気にしなかった。
「雛子さん、ですね。かわいい名前です」
「…………」
名前を褒められたのが嬉しかったのだろう。頬を朱に染めて、雛子は俯く。
「雛子さん。そういえば紹介がまだでした。こちらが伊吹忍くん。雛子さんをここまで運んできてくれたのは、忍くんなんですよ」
「お二人とも、助けていただきありがとうございます」
雛子は折り目正しく腰を折った。
「あんまりそうかしこまるなよ。おれは透花を手伝っただけ」
忍は居心地悪そうに、そっぽを向いた。
「忍くん。照れてます?」
「照れてねえよ」
それを聞き、くすくすと透花は微笑んだ。
「雛子さん。どうしてあんなところで倒れてたんですか?」
雛子は顎を引き、カーペットに視線を落とす。
「お答えすることはできません」
雛子と透花の間には、見えない壁があった。
「困ってることがあったら言ってください。わたしたちきっと力になれると思うんです」
透花は寂しそうに言った。
ふいに。
きゅう。
可愛らしい音が鳴った。
腹の虫だ。自分のものではない。と、すれば――
「わたしのお腹じゃないですよ」
ぶんぶんと手を振って否定する透花。
彼女は、小柄な外見からは想像つかないほど食欲旺盛で、普段から成長期の男子であるところの忍の三倍は食べる。そんな透花でないとしたら、音を鳴らした可能性があるのは、後ひとりだ。
忍と透花は、雛子に視線を注ぐ。
「もうこんな時間ですね」
指摘するような野暮なことはしない。透花はいそいそと立ち上がる。冷蔵庫を開けたところで、ピタリと止まる。
「あ、あの。もしよかったら忍くんも食べていきます? カレーがあるんです。昨晩、わたしが作ったんです」
ゴニョゴニョと聞き取りづらい。
「いや、いい。家に帰ったら用意されてるから。まいったな。連絡も入れずに夕飯の時間か。長居しすぎた」
忍は気のない返事をするだけ。腕時計を確認し、透花の方など見てもいない。これに透花は、小さな身体をますます小さくさせてしょんぼりする。
「雛子さんは、どうです? カレー好きですか?」
「カレーとはなんでしょうか」
眼をパチクリさせて雛子は尋ねる。
「マジで言ってんのか」
「なんだか本気っぽいです」
現代日本でカレーを知らない日本人なんているのだろうか。
この娘は、いったいどんな環境で育ってきたのだろう。
「だったら食べてからのお楽しみです。あ、その前に着替えた方がいいですね」
「わたしには、これがあるのですけれど」
「ダメですよ。ずいぶん汚れてるじゃないですか」
雛子の和服には、ところどころ黒い染みがあった。足下だけでなく、袖や胸元にもその染みはある。泥が跳ねたわけではなさそうだ。
その染みを見て、忍は妙な胸騒ぎを感じた。
「そうですか。では――」
雛子は立ち上がり、躊躇うことなく帯をほどく。
予想外の行動に、誰も反応できない。
するりとした衣擦れの音が鳴り、流れる滝のように雛子の和服が、落ちた。
雛子は下着をつけていなかった。
あらわになった眩い裸体が、忍の目にしっかりと焼きついた。丸みを帯びた白い肩。意外と豊かな乳房の膨らみ。ぷっくりと桜色にそまった胸の先。なだらかなへそのライン。その下には――
「見ちゃだめですー!」
「眼が! 眼が!」
透花が両手で眼を押さえてきた。ものすごい勢いだったため、眼球に掌底をくらう形になった。鍛えようのない部分への不意打ちに、忍は痛みで悶絶する。
「ひ、雛子さん。なぜに脱ぎますか」
「着替えた方がいいとおっしゃられたではありませんか。着替えるには脱ぎませんと――」
「ここで脱がないでください」
「脱がずに着替えろと、そうおっしゃるのですか。これは面妖な」
「そうじゃなくて」
まるで会話が噛み合っていない。
(だから言わんこっちゃない。この女は厄介ごとだ)
目を真っ赤にはらしながら、忍は心の中で愚痴った。
******
その後、雛子のことは透花にまかせ、忍は家に帰ることにした。雛子は変なやつだが、彼女自身に害はなさそうだ。透花と二人っきりにしても、透花が気疲れする以上の問題が起こるとは思えない。それに――世間ズレしているうえに、天然なところがある透花だったら、似たもの同士、けっこう馬が合うかもしれない。
そんな風に考えて、その日は眠りについた。
翌日。
携帯のコール音に目が覚めた。
時刻は朝の六時。今日は土曜日だ。学校が休みの日だからもっと寝かせろよと思いながら、携帯に手を伸ばす。透花からだった。
「どうした?」
不機嫌さが声に滲み出る。朝なのだからこれぐらいは大目に見て欲しいところだ。
『…………っ。…………う、あ……っ』
電話の向こうから、荒い息づかいが聞こえてくる。
意識が一気に覚醒する。
「なにかあったのか?」
透花は胸に溜まったものを吐き出すように、思い詰めた口調で言った。
『雛子さん、いなくなっちゃいました』
透花が目を覚ます前に、姿をくらましたらしい。高級そうな布地に洗濯を躊躇い、洗濯かごに放り込んだままになっていた、和服もなくなっていたそうだ。
一瞬ドキリとさせられたが、よく考えもせず答えた。
「あいつには、あいつの事情があったんだろ」
『でも、あんな格好で。お金も持たずに。……忍くんは心配じゃないんですか』
「別に」
簡潔な切り返しに、透花はひどく狼狽する。
「う、え、なんでそんなに素っ気ないんですか」
『必死になるほど深い付きあいじゃないだろ。お前もあんまり深入りするなよ。犯罪に巻き込まれでもしたら――』
「もうっ。いーですよ。わたしひとりで探しに行きますから!」
プツッ。ツーツー。通話が着れたことを示す、むなしい電子音が鼓膜を奮わせる。
「人の話は最後まで聞けよ」
その後、寝直そうと思ったけれど、なかなか寝付けなかった。




