ヤマアラシの少女 プロローグ
傷つけたくはありませんでした。だけどわたしは、そういう生き物ですから、傷つけずにはいられませんでした。
傷つきたくはありませんでした。だけどわたしは、そういう生き物ですから、傷つかずにはいられませんでした。
だけどわたしは――
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薄暗い和室。
普段ならば、部屋の主以外は立ち入ることが許されない、屋敷の離れ。
静謐な空気を常としていたその場所が、いまは喧噪に包まれている。
「この鬼子め!」
使用人のひとりが叫んだ。他の使用人たちも息をのみ、部屋の中央に立ちつくしている少女に視線をそそぐ。
と、少女が顔をあげる。
美しく可憐な少女だ。額のあたりでまっすぐに切りそろえられた前髪。後ろ髪もまた襟足のあたりで、ていねいに切りそろえられている。俗に言うおかっぱ頭というものだが、少女が身にまとう和服とあわさり、みやびな雰囲気をかもし出している。
少女は、この部屋の主であった。領土に侵入した無礼者たちにむけ、少女は感情の色をうつさぬ視線を送る。その視線に魔的な力があったかのように、使用人たちはけおされ、いっせいに身をひいた。
「親方さまを……、自分の父親を手にかけるとは、今日まで育ててもらった恩を忘れたのか」
少女の足下には、ひとりの男がうつ伏せで倒れている。少し白髪が混じった中年の男である。少女と同じように、和服を着こんでいる。深い藍色は一見地味だ。とはいえ見識のあるものが見れば、贅を尽くした品であることがわかる。
その和服は、彼の脇腹から溢れ出る血でべっとりと汚れている。
少女は視線を移す。真っ赤な血が、じわじわと広がり畳に染みこんでいく。男の身体から出た血液だとすると、ぞっとするほどの量である。
「あ、ああ……」
ようやく事態を認識したかのように、少女の瞳に感情の光が灯る。少女は悲鳴を押し殺すように、震える手を口元に押しあて、気づく。
ぬるり、とした感触を。
鼻を突き刺す、鉄さびのような臭いを。
両手は、真っ赤に染まっていた。
「この鬼子!」「忌み子!」「親殺し!」
使用人たちの糾弾する声が、わんわんと耳の奥に響く。
理解が後から追いついてくる。
この状況を作り出した張本人が、いったい誰なのか。
ズズッ。
相手の肉に、自らの棘が突き刺さる感触を、思い出す。
取り返しがつかないことをしてしまった。
ワタシガ、オトウサマヲ、コロシタ。
それは、虫も鳴かない初夏の夜の出来事だった。