死神
ノックの音がした。
時刻は早朝も早朝である。激しく刺す朝日を取り込む窓は、生温い風とともに、耳をつんざくような蝉の声を歓迎しているようだ。時計の針は五時を指している。
敷布団と小さなテレビのみでいっぱいになってしまうような、狭いアパートの中。ルーズリーフやダンボール、袋いっぱいのゴミ袋で混沌とした部屋で、桐野蒼人はそのノックの音で目を覚ました。
「こんな朝に……誰だ?おい、起きろ!」
蒼人は、足元でうずくまって寝ている男を蹴り上げた。この男こそがこの家の家主であり、蒼人の学友・南大地である。二人は都内の同じ大学に通う二回生であり、昨晩は期末テストの対策という名目のもと、蒼人は大地の恐喝を受けていたのであった。
「全く、良いものが手に入ったと聞いて来たのに。ノートを見せなかったらあんなことやこんなことを彼女に伝えるなんて言って、ノートどころか秘密裏に入手したテストの問題まで搾取されるなんて!本当に最悪……。」
「最悪なのは俺のほうだ。どうしてただでさえむさ苦しい狭い部屋で、むさ苦しい男と寝ないと駄目なんだ……。せめて女と……黒髪ショートしか……。」
目を覚ましたのか、未だ床に転がったままの大地はそうぼやいた。
「どの口が!それより、誰か来てるぞ!」
もう一度大地を蹴り上げ、顎でドアを示す蒼人。ノックの音は未だ鳴り止まず、次第に激しさを増すようであった。
「こんな時間に訪ねてくるなんて、一体誰だろう。ヤクルトレディかな。じゃなかったら追い出してやる。」
「ヤクルトレディでもこんな早朝には来ないだろ。しかもお前、ヤクルト頼んでないだろうが。」
「俺のヤクルトを受け止めてくれるレディになら、毎晩来て貰ってるぞ。」
「朝から何いってんだ。口縫うぞ。」
蒼人の声を無視し、なおもぶつぶつ呟きながら大地が玄関に向かう。
「こんな朝に!何の用…ですか……?」
最初は低く不機嫌そうであった大地の声が、尻上がりに興奮の色を増していく。見れば、なんとも美しい女がそこに立っていた。
顎先で切りそろえられた、艷やかな黒髪。陶器のようになめらかな肌と、桜色の小さな唇。大きくもすこし垂れた目は、小動物のようなあどけなさを覚えさせる。ただひとつ異色であるのは、こんなにも暑い中、女は黒いローブを全身に纏い、その手には稲刈り鎌が握られていることだろう。 少々稲刈り鎌が不格好ではあるが、その姿はまさに、死神そのものであった。
絶句する蒼人と、未だ美女に見惚れる大地をよそに、女は小さく言葉を紡いだ。
「あの……私、死神なんですけど。南大地さんは、ご在宅でしょうか……?」
一体これはどういう状況だろう、と、蒼人は思案した。狭い部屋に置かれた小さな折りたたみ机。それを対面するように、死神を名乗る黒尽くめの女と、その女に見惚れる大地。テーブルの上に置かれた稲刈り鎌は、朝日を受けて鈍く、鋼色に煌めいている。女は大地の熱い視線に、どこか居心地悪そうに体を揺らしていた。
「それで、今日はどういったご要件で……。」
女を見つめるのみで一向に動かない大地を小突き、蒼人が訪ねた。
「ええ、さっきも言ったとおり私、死神でして……。」
どこか気まずそうに女は言葉を紡ぐ。
「今日は南大地さんと取引に来たんです。あなた、このままじゃもうすぐ死んでしまいますよ。」
「死ぬ?俺が?」
「はい。もう時期。」
「それは困ったなあ。」
呑気な大地を見て、女はどこか安心したように次の言葉を紡いだ。
「だから、今日は取引に来たんです。大地さん、寿命を買いませんか?」
「寿命を、買う?」
「はい!今だけすごくお得なプランを提案して回ってるんです!これ、見てください!」
女は途端に目を爛々と輝かせ、鼻息荒くローブからなにやら鮮やかな紙を取り出した。集中線やアンダーラインなどが騒々しく引かれたそれは、例えば携帯ショップで見せられるような、販売のチラシそのものであった。
「通常ですと一分一万円からで引き受けているんですが、それだと莫大なお金になってしまいますよね……。ですが今だけ“今夏も楽しむ!ワクワクサマーキャンペーン“で、一年分まとめ買い頂けるお客様に限りまして、一年十万円ポッキリセットをご案内しているんです!」
「それはお得ですなあ。」
「更に人生百年時代!百年後までまとめて購入プラン!をリボ払いでご購入頂いたお客様には更にうれしい特典が」
「リボ払いだけは駄目だ!」
「ええ……急に語気強……既に痛い目見たんですか……?」
女の息をつく暇もないセールスに真面目に応える大地を小突き、蒼人は息をついた。
「どう考えても詐欺だろ。こんな突拍子もない話。ふざけてるんですか?俺はこいつを助ける義理はないが、あまりにバカバカしすぎる。そもそも、あなたが死神って証拠はあるんですか?」
蒼人の気迫に一瞬身をすくめるも、女は上目遣いで蒼人に訴えた。
「この黒いローブと……鎌が目に入りませんか……?」
「鎌は鎌でも、稲刈り鎌じゃないか!」
使い勝手の良さそうなサイズの、よく見知った稲刈り鎌を指さしながら、声を荒らげて蒼人が言った。
「はい。大きい鎌は不便で、最近このサイズに買い替えたんです。大きいの持ってると、ちょくちょくお巡りさんに声かけられちゃいますし。」
「なるほど〜、稲刈り鎌ならギリギリ銃刀法違反にならなそうだなあ。」
妙に納得したような顔で、呑気に続ける大地。
「いや、そんなことはないんですよ?でも、今から稲刈りのアルバイトなんですーって言えばすぐに開放してもらえるのがありがたくて、最近はずっとこっちを持ち歩いてます。」
「この時代に稲刈りのアルバイトなんてあるか!」
「機械化に逆らう農家……温故知新だなあ。」
「それは新しきを知りたくないがために古きを温め続けてる老害だ!」
一向に女を肯定し続ける大地を、どっちの味方だ!と小突きながら、蒼人は熱く言葉を飛ばす。
「その理論で言うと、俺も黒い服着て鎌を持ったら死神になれるじゃないか!ローブも、鎌だって!そのへんで調達できる代物じゃないか!なんなら、日よけで黒い作業着で稲を刈ってる農業従事者がいれば、それも皆死神になってしまうだろ!」
「その前に熱中症になるだろ。」
「そうですよ〜、それにこの時代に、稲刈り鎌で稲刈りする農家なんていませんよ。」
さっきとは一点、朗らかな笑顔で蒼人の言葉を否定する二人に頭を抱えながら蒼人は叫んだ。
「他に証拠は!!」
うーん……と女はため息をつき、小さく言葉を吐いた。
「死に関することでしたら……今日、この後有名なアイドル…今宮翔くんが亡くなる……とか?」
「え、本当に!?」
俺あの人好きなのに、と眉をひそめる大地を横目に女が続ける。
「本当ですよ。そう聞きました。まあ先輩が取引に成功したら、死なないかもですけど。でも今宮さん、お金にがめついってよく聞きますし。取引は失敗するんじゃないかな……。」
「取引ってなんですか。設定だけはしっかりしてるな……そんでそれもいま証明出来ることじゃないだろ。もっとなんか、こう……!」
「まぁいいじゃないか蒼人。いずれ分かる事さ。」
「……もういい。勝手にやってろ。」
呑気な大地に呆れ返った蒼人は、ふいと顔を背けた。大地は相変わらずだらけた顔で、女に迫った。
「して、死神さん。一つ提案があるのですが。」
はい?と首をかしげた女に、大地はさらに言葉を紡ぐ。
「俺は実際のところ、死ぬのが怖くないんです。ただひとつだけ、やり残したことがあって。それは、黒髪ショートの美少女を、抱くことでして!」
「だ、抱!?」
陶器のように白く澄んだ肌を瞬時に桃色に染め、女は叫んだ。
「だから、俺の寿命じゃなくて、あなたの時間を買わせてほしいんです。いくらでも構いません。今日一日だけ、どうでしょうか。」
「え、ええ……。」
「ただひとつ約束してほしいのは、俺に買われている間はあなたにできることは何でもするってことです。それだけ約束してもらえるのなら、十万でも、百万でもお支払します!」
「ひゃ、百!?」
女はその華奢な方を跳ねさせて、また叫んだ。
暫く思案した後、女が小さく大地に問う。
「本当に百万円、頂けるんでしょうか……?」
「もちろん。男に二言はありません。証拠として、契約書でも書きましょうか。」
蒼人、と大地が蒼人に声をかけると、蒼人はため息を着き、なれた手付きで契約書を書き始めた。
「これでいいか……。」
部屋に落ちていたA4のルーズリーフに書かれたそれは、威厳こそないものの確かに契約書の形をしていた。
「南大地が、 に百万円支払う代わり、 の一日を南大地に捧ぐ。その間、 は自身にできることは何でも行う……異相がなければ、この空白の部分に自分の名前、あと一番下に署名と印鑑もしくは指紋でも構わないのでサインしていただけますか。」
「えっと、あ、はい……。」
「朱肉ならここにあるぞ!」
どこから取り出したのか、大地が輝く笑顔を貼り付けて、嬉しそうに朱肉を掲げた。女はトントン拍子で進むこの取引に少し混乱しつつも、小さく百万円、百万円……と呟きながら震える手でペンを取った。
「絶対、約束ですからね……!」
女はその細く華奢な手で、契約書に整った字で、『喜多野 みなみ』と刻んだ。
明け方の薄暗い部屋の中で、生ぬるい空気が停滞している。部屋の真ん中で小さくなり、涙目でビクビクと怯えるみなみと、次第に息遣いが荒くなる大地。蒼人は呆れた顔で、少し離れたキッチンからそんな二人を観察していた。
「それじゃあ、みなみちゃん、早速……!」
「うう……。」
大きな瞳を涙で潤ませ、蒸気した頬と忙しなく上下する小さな肩をそっと抱いて、大地がみなみに叫ぶ。
「俺と結婚してくれ!」
「ええ!?」
部屋の空気を震わすような大声と間抜けな発言に眉間にシワを寄せながら、蒼人が言う。
「何いってんだお前。」
「だってそうだろ!?契りを交わしてからでないと、抱くなんて、」
ねえ、と顔を赤らめもじもじと話す大地を小突きながら蒼人が言う。
「変なところで純情ぶってんじゃねえよ。」
「そ、そうですよ!結婚してからじゃないと、え、エッチなんて……。」
「いや、大地を擁護するんですか?」
頭がメデタイ奴らしか居ない、呆れてため息をつきながら蒼人は続ける。
「良いんですか喜多野さん。この買われている間の一日に、結婚なんて契約をしてしまえば、一日どころか大地と一生添い遂げなきゃいけなくなる。お金だって、百万以上にたくさんかかるでしょ。」
「た、確かに……。」
はっとしたように口元に手をあてて黙り込むみなみ。そんなみなみの手を取りながら、大地は熱い視線でみなみに訴えかけた。
「いやでもそれ以上に愛して、幸せにする自信、ありますよ。誕生日には立派な犬付きのアパートをプレゼント。」
「アパートかい。ロマンチストなのか現実家なのか、どっちかにしろよ。ダサいな。そんで犬が備えついてるアパートってなんだよ。庭みたいなノリで言うな。多分、屈強な野良犬だろそれ。」
「みなみちゃんが困ってたら、北は足立区、南は大田区まで、どこでも走って駆けつけます。」
「走ってって。体育会系かと思ったら、しっかり東京の最北端と最南端の区じゃないか。まっすぐ馬鹿なのに限界見てんじゃねえよ。」
「たまに交通機関も使います。」
「ほら、もう限界見てる。」
熱を帯びる二人のやりとりを、で、でも……と、みなみは未だ赤らめた頬で小さく遮った。
「大地さんと結婚しちゃったら私、名前が“南 みなみ”になってややこしいから、やっぱり……。」
みなみの発言に、弾かれたように大地が叫んだ。
「はあ、思いもよらなかった!俺も“喜多野 大地”になってしまう。北海道がめっちゃ好きな男みたいに思われるじゃないか。」
「大地は名字変わらねえだろ。しかもそう思われたとて実害ないだろ……それで喜多野さん、そこは今取り上げるほどの問題じゃない。」
「その考え方は古いな。今は多様性の時代だぞ?」
「大地さん……!」
素敵です!と、顔を見合わせて微笑む2人に頭痛を覚えながら蒼人は考える。こいつら、実は本当にお似合いなんじゃないだろうか。
「……しかし喜多野さん、何でそんなにお金が必要なんでしょうか。こんなに危ない契約を結ぶなんて。」
蒼人がみなみに声を掛けると、みなみは途端に俯き、悲しげに目を伏せた。
「みなみちゃん、教えてくれないか。力になれることがあるならなりたいし。これも契約のひとつだ。みなみちゃん、本当のことを教えてくれないか。」
「…………じ、実は……。」
長い沈黙の後、決意したように瞳を真っ直ぐに据えて、小さく言葉を紡いだ。実は、みなみは大地や蒼人と同じ大学に通う一回生であった。
「私、家族と上手くいってないんです。大学にどうしても行きたくて、でも反対されて…。それで家を飛び出して…一人暮らしを始めたのは良いものの…どうしてもお金がなくて。増やすために勧めていただいたスロットに行ったら…負け続けで…気づいたら借金まで…。そんなときに、先輩にこういった形の取引を教えていただいたんです。この方法を教えてもらうために先輩にまた十万払って、もう、イチかバチかで、大地さんをターゲットにさせてもらったんです。」
女は涙ながらに静かに語った。やっぱりこんなこと駄目ですよね、とうつむくみなみに、蒼人はなんて詐欺に不向きな女だ、と、肩をすくめた。
「なるほど、そういうことだったんだ。辛かったね。」
大地は、優しくみなみの背中をさする。
「お金の件は結構です。本当に、すみませんでした……。」
しょんぼりと体を小さくし、いそいそと出ていこうとするみなみを手で制して、蒼人はゆっくりと言った。
「いや、そんなに困ってるならお金はちゃんと大地が払うよ。でも一つ、俺の話も聞いてほしい。このお金、もっと増やしてみない?」
「え……?」
「良いアルバイトがあるんだ。人を紹介したり、商品を売れば売るほどバックマージンが入るシステムのネットワークビジネスだ。簡単に儲かる。」
「ええと、その……?」
困惑するみなみを他所に、蒼人は続ける。
「いっぱしの大学生が、一日で百万支払う、なんて、おかしいと思わないか?実は大地もそれでぼろ儲けしているんだ。」
「そうなんですか…?」
「ああ、そうさ。」
続けて、蒼人がどこかで聞いたような話をつらつらと語る。
「俺がお世話になってる先輩のさ、成功が確約された事業があるんだ。それがそこに置いてある……健康食品なんだけど。これを喜多野さんは俺から60万で買う。」
「ろ、60万ですか?!」
「うん。あとこれは先輩の事業グループのメンバーにならないと買えないから……。その入会費でまた50万要るんだけど。」
「みなみちゃんは俺から100万貰う予定だから、実質負担額は10万だな。」
でも10万で一気に100万の約束が出来るほど儲かるなら儲けもんだろ?と朗らかに言う大地。
「た、確かに……。」
「なら善は急げだ。喜多野さん、お金下ろしてこれるかな。その間に諸々の手続き、進めておくよ。」
未だ目を回しながらも、百万円、百万円……と呟きながら、みなみはよろよろと玄関へ向かう。バタン、と音がして、扉が閉まった。
「なかなか上手くいったなあ。」
「蒼人も人が悪いなあ。また大学で敵を作るぞ。」
「いいんだよ。今月のノルマ達成してなかったし……それにお前の分の百万回収してやったんだから感謝しろよ。」
「へいへい。」
「にしても、美人な子だったなあ。頭がちょっとお花畑で、設定なのかなんなのか、死神を自称してる痛いやつだったけど。あんな特殊詐欺、引っかかる人がいるのか不思議だ。」
「本当になあ。それにみなみちゃん自身が騙されやすくて駄目だなあ。でも本当に可愛かったなあ。なんとか抱けないかなあ。結婚してくれないかなあ。」
「お前のその純情はキャラじゃなかったのかよ。」
そう言い合いながら、大地は部屋の隅に置いた、小さなテレビを着けた。
「ん、速報だ。今宮翔、他殺か……?これって……。」
蒼人に声をかけようと振り向いた大地は、衝撃の光景を目にした。
そこには静かに倒れた蒼人と、そんな蒼人を愛おしげに撫でるみなみの姿があった。
「忘れ物しちゃって、戻ってきてたんですけど。お二人とも楽しそうにお話されていて、全く気付きませんでしたね。」
「これは、違うんだ。」
後ずさりする大地を潤んだ目で見つめながら、みなみが力なく言う。
「騙して、たんですね。」
もう懲り懲りです、とみなみが手に持った鎌を振り上げると、大地も音もなく倒れ込んだ。
「あーあ、大地さんはもう死ぬ予定だったから良いとして……。もう一人の人、どうしよう。無闇に殺しちゃダメって、言われてるのになあ……。やっぱり私、人間界で暮らすのは無理なのかな……そりゃお母さんもお父さんも、反対するよね……。」
安らかに眠る大地を優しく抱きしめながら、みなみがぼやく。
「あ、そういえば大地さん、私を抱きたかったんですっけ……もう二度とないですよ、今回だけ、いっぱい抱きしめてあげます…良かったですね。」
あ、でももう大地さんにはそもそも二度目がないか、と、微笑みながら息をついて、みなみは部屋を後にした。誰の息も聞こえない、ただひたすらに静かな部屋に、バタンといって閉まる扉の音だけが、無機質に響いた。
授業内課題
星新一 『ノックの音が』をオマージュし、オリジナルのものを作成する
楽しく書けたけれど、落ちが弱いと指摘された。
自分でもそう思う。推理小説書けん、自分の頭そもそもが弱いから。
なのでポップな文章で読ませる事に重点を置いた。
先生に、アイディア次第では売れる作品になるって言われて嬉しかったなあ。そのアイディア力が無いから、私は早々に創作者の道を閉ざしたんだけど。
こういう方が書いてて楽しいんだけど、純文学チックな方が得意な気もする…。