第74話 別れの足音
おそらく、その数日は、ユスタッシュの人生のなかで最良の日々だった。
ユスタッシュは酔っていた。ツライ拷問のあとで、その幸福にすがりつくように酔った。
ルビーの明るさは、ユスタッシュの心の内でしこりになっている罪の意識を忘れさせてくれる。父を裏切った罪の思い。長いあいだ、ユスタッシュの上にのしかかっていた重荷が、ルビーの笑顔に出会うと、春さきの雪のように溶けていく。
(もう苦しまなくてよいのですか? 父上。あなたは私をおゆるしくださったのですか?)
そう。きっと、そうなのだ。父は亡くなったし、セブリナとの仲も精算した。過去のたった一度のあやまちは忘れてもいい……。
いつしか、ユスタッシュはそう考えるようになっていた。
忍びよってくる破滅の足音はないかと聞き耳を立てながら、自分を責めることしか知らなかったユスタッシュが、おずおずと未来へ目をむけ始めたころ。
その日は朝からバルコンでカード遊びをして、日没になってから一同は邸内へ入った。
「ほら、言ったでしょ? わたし、カードでは絶対に負けないのよ。女子どもにカードはできないなんておっしゃったの、どなたでしたっけ?」
一人勝ちのルビーは鼻高々だ。エルタルーサが肩をすくめた。
「失敬。失敬。子どもあつかいして悪かったですよ。じっさい、あなたは運がお強い。それも、ひじょうに」
「そうなの。わたしは強運の持ちぬしなの」
ルビーはかたわらのユスタッシュの手をとって微笑みかけた。
「楽しかったわ。エルヴェもいっしょに来たらよかったのに」
ユスタッシュは少し瞳をくもらせる。
「ちょっと熱っぽいみたいだった。あとで見舞ってやろう。エルヴェは病弱なのですよ」
「みんなで行きましょうよ。わたしの弟になるんですものね。仲よくしなくちゃ」
無邪気なルビーにくらべて、ユスタッシュは複雑な顔つきだ。
(このところ、エルヴェにさけられてる気がする)
セブリナの追放以来、さけられているのは、いつものことだ。でも、今回はそれだけでもないらしい。以前にはなかった怒りのようなものを、エルヴェから感じる。
ユスタッシュはそれを誰にも言わなかった。今の至福の時を失いたくなかった。ほんの少しのあやうい均衡でくずれてしまうような心地がする。ユスタッシュはもう何年も幸福になれていなかったから。
「エルヴェ。入るわね。おかげんはいかが?」
ルビーは扉をたたくと、返事を待たずになかへ入っていった。たった一歳しか違わないのに、兄嫁ぶってみせたかったのだろう。
エルヴェはあわてて、手にしていた本をひらく。しかし、じっさいにはぼんやりしていたのだとわかる。
「お熱があるの? いけないわ。よこになってなくちゃ」
さっと本をとりあげて、ルビーがひたいに手をあてようとすると、エルヴェは真っ赤になってよけた。
「ぼ、ぼくは大丈夫。熱はひいたよ。あの、あの……」
「いけません。風邪をひいたら、きちんと治さないと。エルヴェは病気がちなんですってね。これからは、わたしが看病してあげますから」
しつように手を伸ばして、ひたいにあてようとするルビーと、赤くなってあとずさるエルヴェ。二人の性格はまるで正反対だ。
笑って、エルタルーサが止めに入る。
「ルビー。君の剣幕にエルヴェがおびえてる。まあ、勘弁しておやり」
「いいわよ。エル兄さまがご病気になっても心配してあげません」
「おやおや」
「ねえ、ユスタッシュ。なんとか言って。あなたの従兄弟は、わたしにいつもイジワルね」
エルタルーサは苦い顔だ。
「そうでしたか? 私はどうも可愛いものはいじめたくなるタチで」
「イヤな趣味ね」
ルビーはかろやかに走って、戸口に立つユスタッシュにとびつく。
「あなたはわたしの味方よね? ユスタッシュ」
「世界中を敵にまわしても、私はいつでも、あなたの味方です」
「だから好きよ。ユスタッシュ」
つまさき立ちで、ルビーはユスタッシュの首に両手をまわす。
「キスしたいのに届かないわ。ねえ、かがんでくださる? それとも、わたしを持ちあげてくださらない?」
「このように?」
かるがると抱きあげられて、ルビーは満足そうだ。
「もうすっかり、もとどおりね」
「ええ。前よりいいくらいです」
「よかった」
ルビーの赤い唇が、ユスタッシュの頬で音を立てる。
「近ごろはお父さまも、わたしが重くなったって、抱きあげてくださらないの。ひさしぶりだから嬉しい」
「クレメントはだらしないな。あなたなんて小鳥ほどの重さしかないのに」
「でも、お母さまのことはヒイヒイ言いながらでも持ちあげてるのよね」
そのときのクレメントを想像して、二人は声をあわせて笑う。
「見てられないね。君たちは」
わざとらしくエルタルーサがせきばらいしたので、二人はあわてて離れた。恋に夢中なので、まわりに人がいることを忘れがちだ。
「エルヴェが元気なら、それでいいんだ」
ユスタッシュがそう言って部屋から出ていこうとしたときだ。エルヴェが急にベッドをとびおりて、バルコンから外へとびだしていった。ルビーが追おうとするのを、ユスタッシュはひきとめる。
「私に話させてください」
ユスタッシュはエルヴェを追った。庭に出たところでエルヴェの腕をつかむ。
「エルヴェ。なぜ、私をさける」
エルヴェはユスタッシュの手をふりほどこうとして、それができないとわかると顔をあげた。涙にぬれた目で、ユスタッシュをにらむ。
「兄上なんか嫌いだ」
その言葉は予想外で、ユスタッシュを打ちのめした。薄々、気づかないわけではなかった。が、ハッキリつきつけられると、やはり胸が痛い。
「エルヴェ……」
「兄上だって、そうなんでしょ? ぼくを心配するふりして、ルビーと仲のいいところを見せつけなくたっていいじゃないか。ぼくはジャマなんてしてないよ」
ユスタッシュは思いだした。数年前、宴の席で、ルビーを見て頬を染めていたエルヴェ。さっきだって、ルビーの手から必死で逃れようとしていたのは……。
「おまえも……なのか」
エルヴェもまた、ルビーに惹かれているからなのだ。ふれられるのが恥ずかしいからさけようとしていた。
「兄上はズルイよ。いつもそうなんだ。ぼくがどんなにがんばっても手の届かないものを、かんたんに手に入れて。父上や家臣の期待も、信頼しあった友達も、学校でのいい成績や、みんなの賞賛。なんでも持ってるじゃないか。それなのに、ぼくから母上をとりあげておいて、この上、ルビーまでとっていかないで!」
エルヴェはその場にすわりこんで泣きじゃくる。
ユスタッシュは立ちつくした。
なんという運命のイタズラだろうか?
兄弟で……それどころか、父子かもしれない二人が、同じ一人の少女を愛してしまう。
この五年間、ルビーを想わない日はなかった。ずっとあたためてきたこの想い。
でも、それはエルヴェも同じだったのだ。母を失い孤独になった少年には、その想いだけが心のよりどころだっただろう。
(これが神の意思か。父をだました私が、その子によって報いられる)
逃れられない運命を、ユスタッシュは感じた。
(それでいいのだ。おそらくは)
しょせん、うたかた。
この世のすべて。
このさきずっと、エルヴェの嫉妬や羨望の眼差しを背中に受けながら生きていくことは、ユスタッシュにはできなかった。
ルビーは自分を愛している。ユスタッシュが申しこめば、求愛を受けてくれる。それは確信しているのだが……。
(もう疲れた……)
十三のときからずっと父をあざむき、泣きたいのに笑い、真実におびえ、そして父が死んでからは、ずっと戦ってきた。求めるものと、罪をあがなうためにしなければならないもののあいだで。
もういい。エルヴェの言葉は父のそれだ。
——私のものを奪ったおまえが、自分だけ幸せになろうというのか?
決して、ゆるされてはいなかった。呪いはまだ続いている。
夢のような幸福感は去り、言いようもない悲哀が、ユスタッシュを押し包んだ。




