第70話 深夜の逃亡
真夜中。ラ・クルエル公爵家の屋敷。
その廊下をまがりかどからまがりかどへ、新米の泥棒のようにコソコソと歩いていく。
「大丈夫。誰もいないわ」と、先導するのは、アンリエットだ。
あなたを逃がしてあげるとアンリエットが言いだしたとき、ルビーはおどろきのあまり、半信半疑だった。
「な、なぜ? だって、わたしを逃がしたら、クルエル公爵に叱られてしまうわ」
「わたしはお父さまのやりかたが我慢ならないだけ。お父さまもハリオットもフォンナも、自分の欲望にばっかり忠実で。あの人たちはそのためなら他人の想いをふみにじってもいいと考えている。あんな人たちとの約束なんて、守る必要はないわ。コッソリ逃げだして、あとは知らんぷりしとけばいいのよ」
公爵家のなかに、まさか、こんな常識を持った人がいると思わなかった。
「でも、あとでお姉さまが……」
「わたしはいいのよ。父はわたしに借りがあるの。わたしが何をしたって文句は言えないわ」
ルビーとサラエラはたがいの顔を見かわした。
これは願ってもない好機だ。こんなチャンスは二度とないだろう。理不尽な運命に泣いてしたがうには、ルビーは活発すぎる女の子だ。
「わかりました。お願いします」
「じゃあ、今夜、みんなが寝静まってからぬけだしましょう。迎えに来ます」
そういう相談で、いったん別れた。そして今、暗闇の公爵邸を忍び歩く三人。
「台所の裏口なら、誰も見張ってないわ」
指で示すアンリエットについていく。
ルビーたちはいびきの聞こえる使用人部屋の前を通りすぎ、ひとけのない厨房に入りこむ。真夜中なので、当然、無人だ。包丁のならんだ調理台や、ルビーが見たこともない大鍋など、ふだんなら物珍しいが、今はそこも素通りだ。裏口から庭へ出る。
「二人とも馬には乗れるわね?」
「はい」
「わたくしが馬をつれてくるから、それに乗って逃げるのよ」
「ありがとう。でも、どうしてこんなによくしてくださるの?」
アンリエットは一瞬、目をふせる。
「今のあなたは十年前のわたしなの。わたしにも愛する人がいた。いえ、今でも愛している。でも……」
アンリエットはくちごもり、話をそらした。
「ここで隠れて待っていて」
そのまま馬屋へ歩いていく。
庭木に隠れて待つあいだ、サラエラがつぶやいた。
「何があったのでございましょうね」
「わからないわ」
でも、あの言いかただと、愛する人と離ればなれになったのだろう。それもおそらくは、父である公爵の企みで。だから、アンリエットはルビーに協力してくれるのだと納得した。アンリエットにとっては父へのささやかな復讐なのかもしれない。
しばらくして、アンリエットは鞍のついた馬を一頭つれて帰ってきた。
「ごめんなさい。馬屋番に怪しまれてしまうので、一頭しかつれだせなかったわ」
「わたしたち、とてもかるいから、二人でも乗れると思います」
「では、これに乗って。裏門までいっしょに行きます。わたくしが門番の気をひいているうちに逃げるのよ」
「はい」
「わたくしが出かけると言って門をあけさせるから、そのすきに、いっきにかけぬけて」
ルビーがうなずくと、アンリエットはまた歩きだした。
裏門はルビーも使ったことがない。いつも表門から来て、表門から帰るからだ。やがて、裏門が見える位置にまで来る。
「アンリエット。お姉さま。ほんとにありがとう。わたし、このご恩は一生忘れないわ」
アンリエットはさみしげに笑う。
「あなたは幸せになってね。ユスタッシュはベルモット卿がひきとったそうよ」
「では、ベルモット邸にいるわね」
ユスタッシュは無事なのだろうか? いったい、どんな状態なのだろう。大ケガしていないだろうか? 命の危険がなければいいのだが。今すぐ会いたい。
とはいえ、彼の安否がわかっただけでも、全身がゆるんで溶けてしまいそうだ。生きていただけでいい。それ以上は望まない。
「では、行くわね」
アンリエットが兵士たちのいる裏門へむかう。
ルビーとサラエラは馬に乗って待った。ルビーのほうがあやつるのに長けているから鞍の前にすわり、サラエラはうしろに乗って、ルビーの背中にすがりつく。
門番は二人いた。一人が近くの詰所にむかう。きっと、深夜に出かけるという姫君のために護衛の兵士を呼びにいったのだろう。
残る一人が門扉をあける。クルエル邸ほどの豪邸になれば、裏門もかなりの重量だ。
「姫君。ただいま供がまいります。しばし、お待ちを」という声が、ルビーたちにも聞こえる。
門が完全にひらいた。ちらりとアンリエットが目くばせを送ってくる。
ルビーが馬を走らせようとしたときだ。屋敷のほうから、かけてくる人影があった。
「アンリエット。そなた、何をする気だ!」
その声はクルエル公爵だ。
「いけない。叔父さまだわ」
ルビーは手綱をひいて、かるく馬に拍車をかけた。馬がいななき、疾走する。
やってきた公爵にも、ルビーたちの姿は見えただろう。
「レリエルヴィ。そなた、逃げる気か!」
走りよる公爵に、アンリエットがすがりつく。
「お父さまの犠牲になるのは、わたくし一人で充分よ。もう誰も不幸にはさせない!」
「アンリエット。離しなさい。自分が何をしているかわかっているのかね?」
「わたしもあのとき、もう少し勇気があれば、ル・エンと二人で逃げたのに。そうすれば、あの人はお父さまに殺されなかった」
「バカな。ル・エン卿は勝手に自害したのだぞ」
「ええ。お父さまが宮中でさんざん追いつめてね。お父さまは子どものころから、わたしを嫌っていた。だからって、あの人を殺すなんてゆるさないわ!」
「離しなさい。アンリエット——バカもの! 門を閉めないか! 衛兵」
しかし、そのときにはとっくにルビーは門をぬけ、暗闇の街路へ走りだしていた。
公爵は嘆息する。そして、娘を見て、さらに深くため息を吐きだす。
「アンリエット。私がいつ、おまえを嫌っているなどと言ったのだ」
「言われなくてもわかるわ。お父さまはわたしを見るとき、いつも不機嫌そうになさるもの。フォンナたちには甘いのに、わたしには厳しいお小言ばかり。わたしが少しでも殿方とお近づきになると、いつもジャマなさるわ」
公爵は娘を見つめたあと、やや言いにくそうに打ちあけた。
「私はそなたが若くして亡くなった妹によく似てるので、見るのがつらかった。だが、自分の娘を愛さぬわけがあるまい」
「お父さま……」
ホロリとアンリエットの瞳から涙がこぼれる。
「すまなかったな」
公爵は娘の肩を抱きよせた。




