第30話 セブリナの苦悩
風の月に入って十日。
次の湖礼祭について、セブリナがエランたちと話していると、外からエルヴェの声が聞こえた。
「母上。入ってもいい?」
「なぁに? お母さまは忙しいのだけれど」
「うん。でも」
エルヴェは扉のすきまから遠慮がちにのぞいてくる。夏休みで帰ってきているのだが、そういえば、このところ、あまり相手にしてあげていない。
セブリナはエランたちをうかがった。こうして当主代理をつとめているのも、エルヴェのためだ。自分はいずれ城を追いだされるにしても、息子の地位だけは守りたい。将来はユスタッシュの右腕として重用してほしい。それだけの理由でがんばっているのだ。息子をかまってあげられないのでは本末転倒になる。
セブリナは立ちあがり、エルヴェに手招きした。おずおずと入ってくる息子を抱きしめる。母親にとって子どもは大切な存在だ。ことに、セブリナには。血をわけた子どもというだけでも特別だが、あるいは愛しい人のあたえてくれた宝物かもしれないのだから。
「どうしたの? お母さまにご用?」
「レニード伯父上がいらっしゃってるんだ。だから、母上にあいさつしたいって」
「そう」
近ごろ、よく兄が来る。エルヴェが夏休みだから、子守りのつもりのらしい。一時期はセブリナを困らせてばかりだった兄も、少しは心を入れかえてくれたようだ。
「いいわ。手があいたら行きます。お母さまの居間で待っていてもらって」
「一刻はかかる? ぼく、伯父上と散歩しててもいい?」
「でも、まだ、あなたは歴史のお勉強の時間ではなくて?」
「そうだけど。でも……」
「今日だけ、特別にですよ?」
「うん!」
エルヴェは元気よく走っていく。あけたままの扉をセブリナはため息をつきながら閉めた。
「つい甘やかしてしまうわ。やはり、男の子には父親がいないと」
「さようですな。エルヴェさまはユスタッシュさまのご幼少時とくらべて、意思が弱くていらっしゃる」
答えたのはエランだ。オルギッシュと同い年の重臣は、若い後妻に対して遠慮がない。エランにとって亡き主君の正妻はクルエル家の奥さま一人なのだ。側室としてしか見られていないと、その態度からハッキリ感じる。
責めるつもりはセブリナにはなかった。じっさい、借金のかたにひきとられたようなものだ。尊重しろとは言えない。
「このところ、ル・ギラン男爵がよくお見えですな」
「エルヴェの遊び相手に」
「ならば、よろしいのですがな」
また兄が金をせびりに来ていると疑っているのだろう。兄のせいで肩身がせまい。つい最近まで、セブリナ自身ですら兄を毛嫌いしていたのだから、エランたちが疑うのもしかたないのだが。
(わたしはやっぱり、何年たっても、この家の人間ではないのだわ)
このごろ、とみにそう感じる。
ユスタッシュがセブリナに留守を任せたのも、信頼しているからではない。むしろ、逆だ。こうしてエランたちにセブリナを監視させるつもりだからだろう。当主不在の今、もしもセブリナが再婚すれば、その相手が夫の立場を利用して、ラ・マン家で力を持つとうとしかねない。きっと、それをさけるためなのだ。
なぜ、こんなふうになってしまったのかしらと、セブリナは考える。
遠くからユスタッシュの姿を見ていられるだけでよかった。この恋は叶えられるはずがないと、最初から知っていた。義理とはいえ母子だ。
いや、それ以前に、ユスタッシュの心が自分に傾くはずがない。ユスタッシュにとって、自分は若き日のあやまちだ。セブリナの顔を見るたびに、ユスタッシュは犯した罪をつきつけられる罪人の顔になる。
愛する人を苦しめている。
自分は存在するだけで彼の苦痛なのだ。
あきらめようと思ったやさきに、フォンナが城にやってきた。愛されてもいないくせに、女主人ぶる高慢な娘。身勝手で一方的な愛情でユスタッシュをがんじがらめにする。いつか、あの束縛でユスタッシュを窒息させてしまう。
だから、フォンナにだけは負けられない。ユスタッシュをあの娘になんて渡すものかと考えたものだ。けれど——
(誰よりもユスタッシュを苦しめているのは、わたし。わたしだわ。あの人がフォンナと結婚すると言ったのは、わたしとの罪をつぐなうため。愛しい人にあんな言葉を言わせたのは、このわたし)
もう遅いかもしれない。しかし、これ以上、ユスタッシュを追いつめてはいけない。自分はあの人の前から消えなければならない。
ユスタッシュがブラゴールから帰ってきたら、すぐに皇都の屋敷へ移ろう。そして、二度と彼には近づかないのだ。
セブリナはひそかにそう決意していた。だが、運命とは皮肉なものだ。
ようやく、エランたちと別れて、セブリナは居間へ帰った。兄とエルヴェが待っている。
「やあ、セブリナ。どうした? 元気がないようだが?」
「暑気あたりかしら」
兄は人の機嫌を見ることだけはうまい。セブリナの暗い気持ちにひとめで勘づいた。でも、このところの兄レニードは以前と違って、ほんとに心を入れかえたように見える。小遣いをせびらなくなった。
「それはいけないね。おまえは根をつめすぎだよ。ちょっとは休まないと。冷たいキノロン水でも飲んではどうだ? ヴィナ酒をまぜると気つけになるぞ」
「そうね。たまにはお茶以外もいいわね」
小間使いを呼び、言われたとおり、キノロン水を持ってこさせる。ハーブ入りのキノロン水は、セブリナのだけヴィナ酒が入って、きれいな紫色だ。
フルーツやお菓子を食べながら、兄とエルヴェが話すのを聞いていた。エルヴェの学校の話や、寮での生活について。あいづちを打ちながら、つかのま、うたたねをした。
「セブリナ。疲れてるね。私は帰るから、休むといい」
レニードに言われて目がさめる。
困ったところもあるが、やはり世界に二人しかいない兄妹だ。心配げな兄の細やかな情に、セブリナは感動した。
「大丈夫。ちょっと疲れてるだけ」
「いやいや、そんな青い顔して。エランたちももっと気をつかってくれたらいいものを」
「いいのよ。でも、そう言ってくれるなら、夕食まで休むわ」
「それがいい。さあ、キノロンでも飲んで」
セブリナはさしだされる紫のグラスに口をつけた。が、少し飲んで顔をしかめる。
「なんだか苦いわ」
レニードはセブリナの手からグラスをとり、自分も口にふくんで、その瞬間、険しい顔になる。
「エルヴェ。おまえの部屋で戦駒をしよう。おまえはさきに行って準備しておいで」
「うん。わかった。早く来てね。伯父上」
エルヴェが屈託なくかけだしていく。レニードはセブリナを寝室までつれていきながら、沈痛なおももちで考えこんでいた。
「どうしたの? お兄さま。さっきから変よ?」
「いや、何。まさか、な」
「まさか、なんなの? ハッキリ言って」
レニードは渋い顔をする。
「ただのウワサだ。ほんとなわけがない。しかし——」
「しかし?」
やがて、セブリナの目を見て、レニードは告げた。
「じつは、こんなウワサを聞いたんだ。ラ・マン侯爵は若い義母がジャマなので、父の部下たちと組んで殺すつもりらしい……と」
「そんな……」
セブリナは立ちすくむ。両足がふるえ、腰がぬけてしまいそうだ。
「そんなこと、ユスタッシュさまがするはずないわ」
「おれもまさかと思っていた。だが、さっきのキノロン。あれはリコンの毒だ。前に花宿でもめごとがあったときに、やられた女郎がいた。少しずつ盛られて、ゆっくりまわる。気づいたときにはもう遅いんだ」
「そんな……」
ただのウワサだ。真実なわけがないと、兄はつぶやいた。でも、セブリナは疑わなかった。衝撃が毒よりも速く体内にまわり、冷えてかたまっていく。
(そう。あなたは、そんなにわたしがジャマなのね)
十年間、愛し続けてきた。
これが、その答えなのだ。
もう涙も出ない。
今夜はここまでです。




