息を潜めて
シルヴィアが階段を降りて、火魔法のクラスで一緒だった女生徒たちについて行くと、以前にユーリと出会った校舎の裏に行き着いた。相変わらず人気のないその場所で、シルヴィアが不思議に思いながら周囲を見回していると、木陰から、艶やかな濃いブロンドの巻き毛をした、腕組みをしている少女が姿を現した。ーーマデリーンだった。
マデリーンに続くように、数人の彼女の取り巻きたちが次々に現れる。苛立ったように真紅の瞳を細めているマデリーンに向かって、シルヴィアを連れてきた女生徒が、少し震える声で告げた。
「シルヴィア様をお連れしました」
今、マデリーンに口を開いたのとは別の、シルヴィアを連れて来た女生徒の一人が、シルヴィアに小さな声で、ごめんなさいと申し訳なさそうに囁いた。シルヴィアを呼びに来た女生徒たちは、そのままマデリーンに小さく頭を下げると、急ぎ足でそそくさとその場から姿を消した。シルヴィアは、そういうことだったのかと状況を理解していた。
マデリーンは、シルヴィアの服が汚れてもいない様子を見て、驚いたように目を瞠ると、忌々しげに唇を噛んでいた。マデリーンは、一歩シルヴィアに近付くと、高慢な態度で口を開いた。
「あなた、目障りなのよ。今すぐにでも、ランダル様の前から姿を消してくださらない?」
シルヴィアは、ランダルとはしばらくの間、会っても、言葉を交わしてもいないことから、マデリーンが意味しているのは、ランダルとの婚約のことなのだろうと考えた。ランダルとの仲も深そうだったマデリーンになら、もう彼との形式上に過ぎない婚約を隠す必要もないかと、シルヴィアは彼女に向かって口を開いた。
「マデリーン様が仰っているのは、ランダル様と私の婚約のことでしょうか? そのことでしたら……」
マデリーンは、言い掛けたシルヴィアの言葉を遮った。
「ランダル様、あなたがこの学校を卒業したら結婚する約束になっているからと、そう仰っていたわ。この私が、何度も彼の元を訪れて、好意を告げているというのに。侯爵家の名前をちらつかせてまで……」
憎々しげにシルヴィアを見つめたマデリーンが、怒気の籠った口調で続けた。
「これ以上、ランダル様を縛り付けるのはやめてくださらないかしら? ……私、見たのよ。あなたが泣きながらランダル様に縋っているところを」
(もしかしたら、マデリーン様が仰っているのは、私が最後にランダル様に会った時のことかしら……)
確かに突然涙が止まらなくなった当時のことを思い返しながら、シルヴィアはマデリーンに向かって首を横に振った。
「マデリーン様、それは誤解です。私はあの時……」
「何が誤解だっていうのよ!?」
シルヴィアの言葉は、マデリーンの感情に、逆に火に油を注いでしまったようだった。激昂したマデリーンは、びりっとするような激しい魔力をその身に纏わせながら、シルヴィアをきっと睨み付けた。
「優しいランダル様は、あなたがか弱い令嬢を装って彼に縋るから、あなたとの婚約を解消できずにいるに違いないわ。本当は、私たちに何をされたって、あなたは何もなかったような顔をして、図太くぴんぴんしているくせに」
やはり嫌がらせは彼女たちのせいかと、そしてそんな風に思われていたのかと、シルヴィアが心の中で嘆息していると、マデリーンは右手に煌々とした炎を纏わせた。
「……私の方が、あなたよりも、容姿だって魔力だって家格だって、すべてにおいて優れているというのに。だいたい、火魔法のクラスから脱落したあなたが、学校に来続けていること自体がおかしいのよ。あなたは一体どうやって、あのアルバート様にまで取り入ったの?」
マデリーンは、シルヴィアがクラス変更になった理由までは知らない様子だったけれど、今はシルヴィアにとってそれどころではなかった。いつの間にかシルヴィアの後ろに回り込んでいた、マデリーンの取り巻きの令嬢たちが、事前に計画していたかのように、シルヴィアの両手を背後から掴んでいた。
(これは、まずいことになったわ。マデリーン様には、何を言っても聞く耳を持ってはもらえなさそうだし……)
シルヴィアは、まだ防御に使える光魔法を教わってはいなかった。逆上しているマデリーンを前にして、シルヴィアの背には冷や汗が伝っていた。
***
シルヴィアと、彼女を責め立てるマデリーンの様子を、校舎の陰に隠れるようにして見ていた人影があった。ランダルだった。彼は、目の前で繰り広げられている不穏な光景に、橙色の瞳を眇めていた。
(何が起きているんだ……? シルヴィの前にいるのはマデリーン嬢か)
ちょうど、階段を降りて来る数人の令嬢とシルヴィアの姿を見掛けたランダルは、どこか不自然な空気を感じて、シルヴィアたちの後を静かにつけて来ていたのだった。
ランダルは、しばらく様子を窺いながら、その状況を眺めていた。マデリーンとシルヴィアが何を話しているのかまでは聞こえなかったけれど、激しい怒りの感じられるマデリーンの様子からは、きっと自分絡みのことでシルヴィアに詰め寄っているのだろうと、そう想像がついた。
マデリーンのあまりの剣幕を見て、シルヴィアとの間に入ろうかと一歩足を踏み出し掛けたランダルは、そのまま思い直して足を止めた。
シルヴィアからの連絡を幾度か受けていたランダルは、それが名目上の婚約の解消に関するものだということは、言われなくても十分にわかっていた。だから、あえてそれを受け流していたのだ。しばらく言葉さえ交わせなかったシルヴィアに、ランダルは気が狂うほど会いたかったのだけれど、彼女と会って、今はまだ維持している名目上の婚約解消まで告げられる恐怖から、彼はシルヴィアと会うことができずにいた。
(今すぐにあの場に出て行って、シルヴィに僕との完全な婚約解消を告げられたなら、僕は終わりだ。……でも、この状況は僕にとって、千載一遇のチャンスでもあるかもしれない)
ランダルは、まだ冷静さを保っているように見えるシルヴィアと、怒り狂って手に火魔法を纏わせたマデリーンとを見比べて、ごくりと唾を飲んだ。
(マデリーン嬢、まさかシルヴィに火魔法を使うつもりか……? だが、もし、シルヴィがあのマデリーン嬢にもっと脅され、取り乱して泣き始めでもしたら。シルヴィがぎりぎりまで追い詰められたタイミングで、僕が窮地に陥った彼女を救うことができたなら、シルヴィは僕のことを、少しは見直してくれるだろうか)
ランダルは、自分の浅ましさは自覚しつつも、もうごく僅かにしか残されてはいないであろうシルヴィアとの復縁の可能性に、どうしても賭けたいと思った。
ランダルは、シルヴィアと、そして怒気を纏ったマデリーンのことを、息を潜めて校舎の陰から見つめていた。
重い回になってしまって恐縮ですが、次話にて必ずヒロインは助けられますので、その点は予告させていただきます。