広がる世界
「さあ、そろそろ昼の休憩にしようか。シルヴィアもユーリ王子も、よく集中していたね」
アルバートが、光魔法の午前の練習を終えたシルヴィアとユーリに声を掛けた。まだ息の上がったままの二人が、アルバートの言葉に頷く。
シルヴィアの光魔法は、アルバートも目を瞠るほどに順調に上達していた。シルヴィアは、もう自分の回復魔法で、ある程度の怪我なら治せるようになっていた。時々、ユーリ王子が光魔法の力の塩梅を誤って多少の怪我をした時や、マデリーンから未だに地味に続いている嫌がらせで、シルヴィア自身が擦り傷を負った時などには、ちょうど良い機会だとばかりに、シルヴィアは回復魔法を試みていた。
なお、シルヴィアが光魔法のクラスに移ってからは、火魔法のクラスにいたマデリーンやその取り巻きたちとは、顔を合わせる機会自体が随分と減ったために、彼らからの嫌がらせも、シルヴィア自身はさして気にならない程度になっていた。
ちょうどアルバートが二人に声を掛けた時、まるで昼休みになった頃合いを見計らったかのように、教室のガラス窓がふっと開くと、開いた窓からユーリの足元に大きな包みがふわりと着地した。風魔法で運ばれて来たものだ。
それは、まだ小さいユーリの身体に比して、明らかに似つかわしくない大きさをした弁当箱が入った包みだった。額の汗を拭ったユーリは、弁当箱を包みから取り出すと、シルヴィアを見上げてにっこりと笑った。
「ねえシルヴィ、今日も一緒に食べよう? いっぱい練習したから、お腹空いたでしょう」
「ふふ、そうですね。いつもご好意に甘えてしまって恐縮ですが、どうもありがとうございます、ユーリ様。……今日もまた、立派なお弁当ですねえ」
ユーリが弁当箱の蓋を開けると、そこには、優にひと家族分くらいはありそうな量の、彩り鮮やかな料理がぎっしりと詰め込まれていた。まだ出来たてのようで、ほわりと湯気の立つ料理からは、食欲をくすぐる良い香りが漂って来る。
「うん、そうだね。王宮のシェフが腕によりを掛けて作ってくれるのはありがたいんだけど、どうにも、毎回気合いが入り過ぎちゃうみたいなんだよねえ。僕だけじゃとても食べ切れないから、シルヴィが手伝ってくれて、助かるよ。アルバート先生も、食べるよねー?」
「ありがとう、ユーリ王子。俺もご一緒させてもらうよ」
にこにことアルバートに頷いたユーリは、わくわくと期待に満ちた表情を隠し切れずに、上目遣いにシルヴィアを見つめた。
「あのさ、シルヴィ。今日もさ、シルヴィお手製のデザートって、あったりするかな?」
「はい。今日は、ブラウニーを焼いてきました」
「やったあ! ありがとう。食後が楽しみだなあ」
(ユーリ様、可愛すぎるわ。癒される……)
小躍りしながら喜ぶユーリを見て、シルヴィアは微笑みながら目を細めた。最近は、お昼の時間には、三人でユーリの元に届いた大きな弁当箱を囲むのが習慣になっていた。シルヴィアは、はじめのうちはさすがに遠慮して、自分の弁当を持参していたものの、ユーリの弁当のあまりの大きさと、彼から強く勧められたこともあって、このところは彼の言葉に甘えることにしていた。その代わり、少しでもお返しをできればと、デザートを作って来るようにしているのだ。
シルヴィアは、元々菓子作りが大好きだったから、デザート作りはまったく苦にならず、むしろちょうどよい息抜きになっていた。ランダルとの婚約を解消するまでは、主に彼に作っていたけれど、今ではユーリやアルバートに食べてもらえることが、そして彼らに喜んでもらえることが、シルヴィアにはとても嬉しかった。さらに、シルヴィアが好きでもランダルが苦手だった、チョコレートやナッツなどのこれまで避けていた食材を、最近は自由に使って好きなお菓子が作れることも、シルヴィアにとっては小さな楽しみに繋がっていた。
ユーリは、シルヴィアが鞄から取り出した、ブラウニーの入った容器を覗き込むと、鼻をひくひくとさせて目を輝かせた。
「いい匂い……美味しそう! いつもありがとう」
「いえ、とんでもないです。こちらこそ、いつも豪華なお弁当をご馳走になっているのに、これくらいしかお返しができずにすみません」
「ううん、全然。シルヴィの作ってくれるお菓子って、味ももちろんとっても美味しいし、それに何だか食べると元気が出るんだもの。……ね、アルバート先生?」
アルバートも、柔らかな笑みを浮かべてシルヴィアを見つめた。
「そうだな。君の作って来てくれる菓子には、どうやら回復魔法が込められているようだ。食べると、疲れが取れて身体が軽くなるのがわかるよ」
「それは本当ですか? 回復魔法を使っている感覚は、特になかったのですが……」
シルヴィアは驚きに目を瞬いたけれど、アルバートは頷いた。
「君は、きっと菓子を作っている時に、食べる者のことを考えて、温かな気持ちで作ってくれているのだろう。その込められた気持ちがそのまま、癒しの効力として現れているようだ」
「うん、そんな感じがする。シルヴィのデザートがないと、最近は午後の練習を始める元気が湧いて来ないもの。すごく特別だよ」
「もし少しでもお役に立っているなら、私も嬉しいです」
シルヴィアは、きっと、アルバートとユーリだからその効果がわかるのだろうと感じていた。今まで、ランダルや両親に菓子を作った時には、特にそのようなことを言われたことはなかったし、シルヴィア自身が食べても特に気付かないからだ。わかる人にしかわからない微々たる効果なのだろうと、シルヴィアは思った。そんな小さなことにも気付いて、喜んで笑顔になってくれるアルバートとユーリの存在は、今では、シルヴィアにとってかけがえのないものになっている。
ランダルの顔色を常に窺っていた、彼だけがシルヴィアのすべてだったこれまでと比べると、シルヴィアは、心が解放感に満たされて軽くなり、新しい世界が目の前に開けてきたような気がしていた。シルヴィアの両親は、彼女が光の精霊の加護を得ていたと知って、喜ぶより先にとても驚いていたけれど、光魔法のクラスに変わってからというもの、生き生きと輝き始めた娘の顔を見て嬉しそうな様子だった。
ランダルとの形式上の婚約は、今はまだ保留にされたままだ。シルヴィアは、ランダルとの婚約を完全に解消する意思が堅く、いずれ折を見て名目上の婚約も解消したいことを、既に両親に伝えていた。両親も、シルヴィアの強い決心を知って、彼女の言葉に頷いてはいたものの、彼女の加護が稀少なものだとわかってすぐに、彼の好意に対して断りを入れるのも、さすがに失礼ではという父の言葉には、シルヴィアも頷けるところがあった。少し時間を置いて、様子を見てから完全に婚約を解消しようと、両親とシルヴィアの間では、そう話がなされていた。
和やかに囲んでいた昼食を三人が終えて、シルヴィアが用意してきたブラウニーも食べ終えた頃、先程ユーリに弁当箱が届いたのと同じ窓から、今度はひらりと一通の手紙が舞い込んで来た。
アルバートは、宛名に彼の名前が記された手紙を開くと、少し険しい表情になった。
「どうしたの、アルバート先生? 急に、そんな顔をして」
首を傾げたユーリに、アルバートは、便箋に走らせていた視線を上げた。
「先程、国境近くの森に魔物が出て、怪我人が出ているらしい。もう魔物自体は片付いたようだが、回復魔法の依頼が来ている。命に関わる程の重傷者は出ていない様子なのが不幸中の幸いだが、俺はこれから病院に向かうよ。だから、午後の授業は……」
そこまで言い掛けて、アルバートはシルヴィアとユーリを見つめた。
「君たちは、実地で回復魔法を使っているところは、まだ見たことがなかったね。これから、俺と一緒に病院に来て、実際に回復魔法を掛けるところを見てみるかい?」
シルヴィアとユーリは、アルバートの言葉に顔を見合わせると、揃って大きく首を縦に振った。
「はい、是非一緒に伺って、アルバート様の回復魔法を直接拝見したいです。病院にいる皆様には、ご迷惑をお掛けしないよう気を付けますので」
「うん、僕も見てみたいな。教室で学んでいるだけじゃ、わからないことも色々あるし」
アルバートは、手元の便箋を折り畳むと、シルヴィアとユーリに頷いた。
「では、午後は実習ということにしようか。これから皆で病院に向かおう」
シルヴィアは、怪我人が出ていると聞いて、少し緊張が身体に走るのを感じながら、アルバートとユーリと一緒に、病院に向かう馬車へと急いで乗り込んだ。