婚約者の言葉
久し振りに新しい話が書きたくなりまして、思いつくまま書き始めました。お付き合いいただけましたら幸いです。それほど長くはならない予定です。
シルヴィアは、魔法学校の午前の授業を終えると、婚約者であるランダルの姿を探して、一学年上の教室の前までやって来ていた。
(私の火魔法のクラスは、授業が終わるのが少し早かったけれど。ランダル様は、まだ授業中でいらっしゃるのかしら……?)
シルヴィアは、魔法学校での昼休みは、いつもランダルと二人で昼食をとっている。ランダルが毎日のようにシルヴィアをランチに誘うので、いつしかそれが当たり前のことになっていた。今日はたまたまシルヴィアの方が早く授業が終わったので、シルヴィアはランダルを迎えに来たのだ。ただ、二人で過ごしていると、シルヴィアは大抵、周囲の令嬢方からの刺すような視線を感じるのだけれど。
それは嫉妬と羨望の混ざった視線だった。ランダルは、魔法学校でも、幼い頃に定められた婚約者であるシルヴィアをことあるごとに構い、彼女を愛称の「シルヴィ」で優しく呼ぶ。
明るい栗色の髪に、燃えるような橙色の瞳をしたランダルは、その爽やかな容貌ゆえに女性からの人気も高い。しかも、ランダルは優れた火魔法の使い手でもある。それに引きかえ、淡いプラチナブロンドの髪に、シトリンのような薄黄色の瞳をしたシルヴィアは、見るからに色素の薄い、目立たない容姿に加えて、魔法学校でも落第ぎりぎりの劣等生だった。シルヴィアはランダルには不釣り合いだと、陰口を叩かれることも少なくはなかった。
元々、自分はランダルには相応しくないのではないかと負い目を感じていたところ、魔法学校に通い始めてから、さらに劣等感の塊のようになっていたシルヴィアのことを、彼は温かく励ましてくれた。魔法の力がほぼそのヒエラルキーと一致する魔法学校の中で、友人が少なかったシルヴィアの隣にいつも寄り添ってくれたのも彼だった。シルヴィアはそんな彼のことが大好きだったし、二人の仲は、少なくとも悪いものではないだろうと信じていた。――そう、ランダルのあの言葉を聞くまでは。
ランダルのクラスの教室の前で、廊下側にあった半開きのドアからシルヴィアが中を覗き込むと、彼が友人と談笑している姿が目に入った。
(あ、良かった。もう、授業は終わっていらっしゃったのね)
ランダルは、シルヴィアが来たことに気付いている様子はなかった。彼が友人と話し終えるのを廊下で待っていたシルヴィアの耳に、聞くともなしに彼らの会話の内容が漏れ聞こえてきた。
「なあ、ランダル。お前本当に、あの婚約者の子とこのまま結婚するつもり? あの子が卒業したら結婚って言っていたけど、結婚まで、あと二年くらいしか残っていないよな」
シルヴィアの胸が、どくんと鳴った。ランダルの友人は、そのまま言葉を続けた。
「俺、あのシルヴィアっていう子、地味だけど、顔は結構可愛いと思うんだけどさ。磨けば光りそうっていうか……けど、魔法は全然って話だろう?」
シルヴィアは、ランダルの顔に心なしか影が差したような気がした。シルヴィアが知っている彼とは別人のように冷たい表情をしたランダルが、ゆっくりと口を開く。
「シルヴィは、僕がいないと何もできない、つまらない女だよ。君の言う通り魔法の力も弱いし、残念ながら、着飾ったところでそう映えはしない。彼女とは、家の事情で仕方なく婚約しているだけなんだ」
シルヴィアの全身から、すうっと血の気が引いた。その足元が、微かに震える。
「お前なら、もっと上を狙ってもいいんじゃないのか? あの美人で知られるフォーセル侯爵家のマデリーン嬢だって、お前に熱を上げてるって評判だぞ。お前なら、侯爵家の令嬢を捕まえて、逆玉の輿だって夢じゃないだろうに」
「さあ、どうだろうね。でも、僕にはシルヴィと結婚する義務があるから」
(……つまらない女。『仕方なく』私と婚約していて、結婚するのも『義務』だから……)
シルヴィアはショックのあまり、しばらく放心状態のまま、ぼんやりとその場に立ち尽くしていた。傷付いたということもあるけれど、半分くらいは、やっぱりそうだったのかと、どこか納得している自分もいた。その後も、彼らは何かを話し続けていたようだけれど、頭が真っ白になったシルヴィアの耳には、それ以上は何も入って来なかった。
さすがに、このままランダルと顔を合わせる気にもならず、教室に背を向けようとしたところで、シルヴィアは足がふらついて、思わずドアに手をついてしまった。カタン、と音が鳴る。ランダルとその友人がシルヴィアを振り返った。
「おや、シルヴィ。来てくれたんだね」
何事もなかったかのように、穏やかな笑みを浮かべて椅子から立ち上がり、シルヴィアのところまでやって来たランダルの前で、彼女は顔を引き攣らせた。
「あの、すみません。私、何だか体調が悪くて。……申し訳ないのですが、今日はこのまま帰ります」
「確かに、顔色が悪いようだね。大丈夫かい、家まで送ろうか?」
「いえ、ランダル様にご迷惑をお掛けしたくはありませんから」
「迷惑だなんて、そんなことはないよ。大切な君のためなんだから。遠慮はしないで欲しいって、いつもそう言っているでしょう?」
さっきシルヴィアが耳にした言葉がまるで嘘であるかのように、すらすらといつも通りの優しい言葉を口にするランダルに、シルヴィアは戸惑いを覚えていた。
「いえ、本当に結構ですから。では、失礼します」
「そうか、お大事にね」
シルヴィアは、ランダルに軽く会釈をしてから彼に背を向けた。堪え切れず、シルヴィアの瞳にはじわりと涙が滲む。
(今まで、ランダル様は我慢して私に付き合ってくださっていただけなのに、それを、私に多少の好意は持ってくださっているものだと、都合良く解釈していたなんて。自分が恥ずかしいわ……。お父様がランダル様の家に資金援助をなさったそうだから、それに恩を感じているだけで、本当は、ランダル様は私の存在なんて迷惑だったのね)
その日、青い顔で帰宅したシルヴィアが、力なくベッドに潜り込んでからしばらくすると、レディット伯爵家に大きな見舞いの花束が届いた。
「シルヴィ。具合はどう? ランダル様から、綺麗な花束が届いているわよ。あなたの体調が心配だって」
母のマリアが目を細めて、可愛らしい色合いの花束をシルヴィアに手渡した。シルヴィアの身体を気遣う言葉が記された、丁寧な筆致で書かれたカードまでもが添えられている。
「ふふ、愛されているわね、シルヴィは。素敵な婚約者がいて、よかったわね」
(何も知らないままだったら、私もそう思ったのでしょうけれど……)
シルヴィアは、母の言葉に何も返せないまま、花束を腕に抱えて小さく溜息を吐いた。