第17話 皇子
桜という花がある。春に白色に薄い紅色を溶かしたような美しい花を咲かせ、短い間に散って往く。そしてまた一年後に花を咲かせて見る者を楽しませてくれる。
その美しさと儚さを葦原人は愛し、古来より親しんでいた。勿論ただ見るだけでなく、果実は食用になり、材木としても扱える。樹皮を煮込めば染物に使え、また燻製の燃料にも好まれた。
ヤト達が≪葦原≫の地を踏む頃、ちょうど桜が咲き誇る時期だった。
現在四人は葦原の西端≪蘇芳≫という名の地の小さな茶屋で一服していた。クシナとカイルが塩漬けにした桜の花を練り込んだ団子に舌つづみを打ち、ヤトも六年ぶりの茶を味わって飲んでいた。
「こげな寂れた茶屋の安い茶がそんなに美味いかねえ」
お茶のお代わりを持ってきてくれた兎人の老婆は、ヤトの満ち足りた顔がおかしくて笑う。安い茶というのは古くなって時化った茶葉を煎って、香ばしくした焙煎茶の事だ。残り物を美味しくする方法で作ったので必然的に値は下がる。それでも久しぶりの故郷の茶は美味く感じた。
「ほい、こっちは焼きたての白餅だ。熱いうちに食いな」
隣で年老いた熊人が焼いた餅を皿に乗せて差し出した。ヤトは香ばしい味噌の付いた焼餅を一口齧る。よく伸びる餅を器用に千切って咀嚼した。美味い。
それを見たクシナが自分も食べたいと言って、皿から焼餅を掴んで一口で食べてしまった。
「ほほほ。鬼女と耳長の子は見ていて気持ちの良い食べっぷりだねえ」
「西の国じゃ麦の方が人気なんだってな。物珍しいから長居するなら色々食っておけよ」
熊と兎の老夫婦は珍しい西からの客人に親切にする。金払いが良いのもあるが、やはり料理を美味しく食べてくれる姿を見るのが嬉しいのだろう。
しかしクシナの顔色が変わり、何やら喉に手を当てて悶えているのに気付くと、熊人の翁が慌てて彼女の背中を叩いて、喉に詰まった餅を吐き出させた。
しばらく咳き込んで息を整えた後、死ぬかと思ったと呟いた。東には古竜すら殺しかけた食べ物があるとは、食材から毒を調合したロスタの時と同じぐらいカイルは驚いた。
今度は喉を詰まらせないように注意して餅を食べ、ヤト達は獣人の老夫婦に礼を言って茶屋を後にした。
四人は少し歩いて主街道にまで出る。道の脇の田畑では牛や馬に鋤を曳かせて土を耕している。
今の時期に田を耕して植え付けの準備をしているとヤトは説明する。カイルは秋に種まきをする麦と季節が全く違うのを面白がった。
一行の旅はゆっくりとしたものだ。ヤトの目指す葦原の都≪秀真≫まで徒歩なら七日は掛かっても、クシナの翼なら一日で済む。
そうしなかったのは急ぐ理由が無いのと、今が一番≪葦原≫で雅な時期だからだ。食べ物も行く先々で微妙に異なるので、食べ比べもそれなりに面白い。他の二人もヤトに反対する理由は無く、物見遊山を楽しんでいた。
路銀はあらかじめ隣国≪桃≫にある為替商で、フロディスの鉱山都市で手に入れた小切手を換金して貴金属に変えておいたので不備は無い。
こうして四人は道中の七日間を不自由なく楽しんで、東の果ての国を満喫した。
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七日間のゆったりとした徒歩の旅行を楽しんだ四人は、葦原の皇都≪飛鳥≫を前にしていた。
国一番の都というだけあって、その活気は他の国の王都と遜色無い。
馬車が六台は並走できそうな幅のある真っすぐに伸びた表道。横を左右に見れば、これまた真っすぐ続く広い道が整備してある。
ヤトの話では、都の大路は南北へ九本、東西へは十一本ある。道に沿って四角く区画が決められていて、住居や商店はどこも正確に仕切られている。これだけでも街の造営には支配者の並々ならぬ熱意が伝わってくる。
感心するカイルを連れて、ヤトは先頭を進む。目指すのはもっと街の奥だ。
途中、市場が目に付いてクシナとカイルが足を止める。多くはこの国と隣国≪桃≫の物産ばかりだが、一部はアポロンやフロディスのような、はるばる西から運ばれてきたと思わしき装飾品や衣類も並べられていた。
「へー活気があって良い街だね」
「生活が楽とは言えませんが、上がいたずらに民を虐げる事を無駄と知っていますから」
カイルはそれだけではないと思った。この国に来て、他の国と比べて獣人や角の生えた鬼が自然に人族と溶け込んでいるのに気付いた。
以前ヤトから東国は西に比べて亜人への隔意がずっと弱いと聞いていた。それでも少しは差別意識があると思ったが、この国は本当に種族間の隔意が気にならないぐらいに融け込んでいる。
勿論治安はそれなりに悪い。ついさっき盗人を追いかける衛兵が後ろを通り過ぎ、商店の裏路地では喧嘩がちょこちょこ見える。犯罪者が出る程度には普通の街だ。
こうした異国の珍しい人並みをかき分けた四人は、街の奥にある堀と塀に囲まれた区画まで来る。
この辺りは商店が無く、道行く人もまばら。仮に通行人が居ても、兵士や役人のような身分確かな人々だ。あるいは貴族の馬車が往来していて、ヤト達のような旅装束は明らかに浮いている。
それでもヤトは構わず、四人の衛兵が守る大きな赤い門まで近づく。
当然兵士は不審な男に身構えて、いつでも戦えるように槍を握る手に力を込める。
ヤトは立ち止まり、背筋を伸ばしてよく通る声で衛兵に命じた。
「禁裏の守護、まことにご苦労である。皇が第六の子『大和彦』が帰還した。畏まって道を開けるがよい」
「な、なにを戯けた事を!?そのような出まかせを信じると思うか!」
槍を突き付けられてもヤトは気にせず、衛兵達の顔を見回して左端の一人に目を止める。
「そこもとは雁麻か。我が師『泉上綱麻呂』の門弟であったな。七年前に稽古で立ち会った時の、下段の剣の足運びと左肩が動く癖は直したのか?」
「なっ、なぜその事を!?まさか、そのお顔は本当に大和彦皇子でございますか!」
「初めからそう言っている。それでも疑うのなら、近衛軍の上位三席武官を誰ぞ呼んで顔を確かめさせよ」
衛兵達は槍を引き、互いに顔を見合わせて視線だけで合図を送って、四人を門内に入れる事を決めた。
ただし、万が一のことを考えて、貴人用の客室に一旦案内した。ヤトに言われた通り上官を連れて来て、顔を確かめさせるつもりだった。
カイルは兄貴分がこの国のどんな生まれなのか気になって仕方が無かった。本人の口から元は神官の家の出としか聞いていなかったが、明らかに兵の様子が変だ。
だから部屋に招かれて、衛兵が出て行ってすぐに問い詰めた。
「この国では支配者を王と呼ばず、皇と呼びます」
「うん。それは何日か前に聞いた……あれ?さっきアニキは門番に六番目の子って名乗ったよね。えっーーーーー!!!!」
「西国風に言うなら、僕はこの国の第六王子なんですよ。生来の名は大和彦。それを短くしてヤトと名乗っていました」
カイルは椅子からひっくり返るほど驚いた。この人斬り鬼が王子なんてどんなバカげた冗談だ。あり得ないと否定したかった。
「家が農耕神官は嘘だったの?」
「いいえ本当です。この国は大本を辿ると、農耕を司る神官が王を兼ねる神権政治国家なんですよ」
「んなもん分かるかー!!―――――って姐さんは何も驚かないんだ」
「あー?別にどうでもいいわ。ヤトが儂の番なのは変わらんし」
「というかカイルだって族長の一族じゃないですか。立場的にはそんなに変わりませんよ」
冷静に返されると、カイルもちょっと納得してしまった。共同体の規模と種族が異なるだけで、意外と二人の地位は似通っている。
それに古竜という種族の頂点に君臨するクシナを知っていれば、王や貴族のような地位など些末な差にしか思えない。
給仕の女官が茶を持って来てたので、一度話を止めて茶と菓子を頂いた。
茶が半分無くなる頃に、部屋の外が慌ただしくなる。
両開きの扉が開け放たれ、最初に二人の帯刀した衛兵が入ってきた。次に身なりの良い赤い衣を纏った人狼族の男が続く。
赤い衣の人狼が恭しく頭を下げ、口上を垂れた。
「皇が第四子、兵部卿宮因幡彦皇子のおなーりー!」
最後に部屋に入って来たのは、赤い衣以上に立派な黒い衣を纏い冠を頂く、兎耳を持つ混血の小柄な青年だ。
ヤトは彼に深々と礼をする。黒い衣の青年は扇で口元を隠しながら、ヤトを注意深く観察した。
「お久しゅうございます、因幡彦兄上。大和彦にございます。兄上が兵部省に入っていたとは意外です」
「……その顔、かつての弟の面影がある。ああそれと、我が兵部卿になったのは半分はそなたの責任だぞ。我は本来、治部省を希望していたのだ」
「その割に葦原は乱れず、民は安んじられているとお見受けいたします。兄上の手腕はどのような場所であっても損なわれません」
「その無自覚に生意気な物言い、ますます昔の弟を思い出す。もう会う事は無いと思っていたのだが。して、此度は何故戻って参った」
「禁裏書庫で調べ物をしに。他は些事でございます」
「……薄衣一枚の覆い隠す努力すらせぬとは、正真正銘の愚弟のようだ」
因幡彦皇子は手を振って護衛の剣士を一歩下がらせた。さらに彼はヤトの後ろにいたカイル達に視線を向けて、再度ヤトに紹介の催促の目を向ける。
「耳長の少年は旅仲間のカイルです。後ろに控えているのが彼の従者のロスタ。それと、こちらの女性は私の妻クシナです」
妻という言葉に衝撃を受けた因幡彦は扇を取り落とし、両目を見開いて固まった。
カイルは兄弟ですら今の反応だったのを見て、兄貴分が子供の頃から全く変わっていない剣狂いだったと確信した。オマケで後ろに控える護衛二人も無言だったが、思いっきり放心していた。
たっぷり十秒経ってから時が動き、赤衣の人狼が落ちた扇を拾い、因幡彦に膝を着いて恭しく手渡してから、こっそり耳打ちする。
「――――う、うむ。理由はどうあれ出奔した弟が帰って来たのだ。温かく迎えるのが肉親の務めよ。そちらの少年にも部屋を用意しよう」
まだ衝撃が抜けておらず、若干声が上ずるのを周囲は気付かないふりをした。
廊下に控えていた召使いに、禁裏に相応しい装いを用意すると言われて、まずは風呂へと案内された。