第4話 懐郷の心
ヤトはカイルの祖父であり族長のエアレンドが用意してくれた家のベッドで目を覚ました。
この家は昨夜のうちに村人が設えてくれた新築だ。勿論いちいち木を切って材木を組んでなどと悠長な仕事はしない。エルフが元からそこにある木に頼めば望むように形を変えてくれる。
クシナと共に二人で住むには十分な広さと、簡素ながら一通りの家具も用意してくれた。かまども簡素ながら組んで貰ったので料理も出来る。ただ作る者が居ないので暫く使われる事は無いだろう。代わりに村人がパンやら果物の類を毎日届けてくれるように気遣ってくれた。
「クシナさん、朝ですから起きてください」
「……んん」
クシナは隣の旦那に揺さぶられて、欠伸をしながら豊かな肢体を勢い良く跳ね上げる。熟れたリンゴのようにたわわに育った二つの乳房が揺れた。
「腹減った~」
起きがけに空腹を訴えた嫁に苦笑する。その前に着替えと洗顔が先だ。
二人はいそいそと服を着る。その動きはどこかゆるやかだ。何しろクシナは片腕で、ヤトも両腕がまだ自由に動かない。
両腕の包帯の下はようやく肉が再生しただけで筋組織はまだ皮膚が付いておらず露出したままだった。今は辛うじて指で物を摘める程度の動きしか出来ない。だから服の留め紐を締めるのがやっとで、剣を握るどころではない。
だから精神が戦いを求めてイラつくのではないかとカイルは案じていたが、不思議な事にヤトの精神は穏やかそのもので、内心で気味悪がっているのは内緒だ。
多少もたついてから着替えて洗顔を済ませる。それから朝食をとるために席に就いた。
「こうして二人で寝起きするのも久しぶりですね」
「ん~そうだったか?」
一つ目のパンを食べ切ったクシナが瑞々しいイチジクを口に放り込んで首を捻る。
思い返せばカイルとロスタと一緒に旅をしているのだから基本的に二人になる時間はほぼ無い。昨年カイルが修業のために西のエルフの村に残って別行動をとった時以来だ。あの時はすぐに王宮に留まって別室で寝起きしていたので、本当に夫婦でゆっくり寝起きしたのは久しぶりだった。
ヤトは癖のある雉肉の燻製を齧る。よく肥えた雉の肉は噛めば噛むほどに旨味が出る。灰汁抜きした山菜も一緒に食べればより一層深みが増す。
銀製のコップを手に取ろうとして掴みそこなった。渋い顔をして両手で挟み込むように持ち上げようとして、誤ってコップを壊して中身をぶちまけてしまった。溜息が出てしまう。
零れた乳を布で拭き取ろうとした所でドアを叩く音がした。
クシナがドアを開けると意外な人物が外に立っていた。カイルの母ファスタが手さげ籠を持っていた。
「朝早くに申し訳ありません。差し出がましいですがヤト殿の治療をと思い伺いました」
「そうか、とりあえず中に入れ」
クシナに許可をもらった彼女は家の中に入る。
食事中だったのを見て出直す事を考えたようだが、壊れたコップと滴る乳を見てファスタはヤトから布巾を取り上げて後始末を始めた。
ヤトとクシナは彼女が掃除をしてくれる間に手早く朝食を腹に納めた。
「助かりました。カイル…息子は放っておいていいんですか」
「今は義父と村を見回っています。それに息子とはこれからずっと居られますから」
ファスタは無上の喜びに溢れた笑みを返す。確かにエルフの寿命は途方もなく長いのだから焦る必要は無い。
掃除を終えた彼女は持ってきた籠から医療品を取り出して、ヤトの上着を脱がして腕と胸の包帯を解いて治りかけの腕を診察する。
皮膚の無いむき出しの筋肉に触れて症状を把握した後、薬を含ませた布で拭いてから小さな壺に入った緑色の軟膏を患部全体に塗る。
「草っぽい臭いと蜂蜜の匂いがする」
「はい。これは薬草を潰して蜜蝋で練った薬です。それ以外にも色々と手を加えています」
「神代のエルフの秘伝薬というところですか」
二人の反応にファスタはただ笑って返すばかり。そのまま手早く両腕に軟膏を塗ってから清潔な包帯を丁寧に巻いていく。
さらに右の靴も脱げと命じた。それらも包帯を外して薬で消毒して、腕と同様に軟膏を塗り包帯を巻く。
すっかり手当てを受けて心なしか気分が良くなった。ヤトはファスタに礼を言うと、彼女は少し渋い顔を向ける。
「ハエネスから聞きました。幾ら竜の血を得て手足が再生しても生身の肉には変わりありません。少しは身体を労わってください」
医師、あるいは子を持つ母として慈愛に満ちた諫言には、さしものヤトも曖昧に言葉を濁すしかない。心の中で小言を言われないように出来るだけ避けようと思ったが、先んじて毎日包帯を替えに来ると言われて閉口した。おまけで患部を軽く動かす程度に留めて、剣は絶対に握るな、走るのも禁止と釘を刺されてしまった。しばらくは言われた通り安静にするしかない。
薬士として言うべき事を言い終わったファスタはさっさと仕事道具を片付けて帰り支度をする。そのまま帰るかと思ったが、ヤトとクシナに深々と頭を下げた。
「息子がお二人に大変お世話になりました。私に出来る事はこれぐらいしかありませんが、どうか村にいる間は何でも言ってください」
「ご子息とは旅仲間ですから互いに助け合うものです。僕もカイルには色々と迷惑をかけているからお互い様ですよ」
「そうだそうだ。カイルは雌にだらしのない奴だが儂達の仲間だ」
「は?そのお話詳しく教えていただけますか?」
ファスタはずずぃっとクシナに詰め寄る。クシナは唐突に雰囲気が変わった彼女に面食らい、流されるままこれまでカイルの側にいた女性の事をつらつらと語ってしまった。おまけにまだ知っているだろうと詰め寄られたヤトも標的になってしまい、やはり知っていることを全て話す事になった。
二人から息子の女性遍歴を全て聞き終えたファスタは何やら迫力のある笑みを張り付けて威圧感を放っている。
「フフフ、生き別れになった我が子の無事を毎日祈り続けていた甲斐があったのですね。でも長の一族として少しは節度という言葉を学ばなければいけないわ」
「はぁ……出来ればお手柔らかにお願いしますよ」
「ええ、ええ、勿論です。あくまで誇りあるエルフとしての振る舞いを教えるだけですからご安心ください」
言動と威圧感のある笑顔の釣り合いが取れていない。しかしヤトとクシナが困る事は何一つとして無いので、それ以上の制止は一切しない。これはあくまで親子が解決する問題であって、仲間でも立ち入るような事ではない。
そしてファスタは善は急げとばかりに家を出て行った。
これで良かったのかと問うクシナに、ヤトはいささか年頃の少年相手には過干渉とも思えるが、害は無いので関わるほどではないと答えた。
「子を持つ母というのはああいうものなのか?」
「僕はあまり親と関らない環境で育ちましたから何とも言えません。カイルの年頃にはもう一人旅をしてましたし」
「儂が子を持った時はどうなるのかのう」
「それはその時に考えましょう。僕もどんな父親になるか想像すら出来ませんよ」
かつて自らも親の元で過ごした記憶を顧みても、ファスタのような母親を持った憶えはない。養育を放棄されたわけではなかったが普通より関係が薄かったのは確かだろうし、父親とは一年に数度会うか会わないかというぐらいに希薄な間柄だった。
それが正しいのかすら判断が付かないのだから、あの母親とカイルがどういう関係を構築したところで言うべき事はない。あくまで血族同士の問題は当人間で解決すべきだ。
そこまで考えてふと頭に何年も会っていない血縁者の事が頭をよぎる。正直今更会った所で何を話す事があるのかと思ったが、一つやる事があったのを思い出した。
この村が大陸のどこにあるかは詳しくは知らないがエアレンドは生国の隣国≪桃≫の話をしていた。ならばそれなりに近くにあると思われる。
傷が癒えたら少し足を延ばして帰郷も悪くないかもしれない。




