第1話 帰還
ヤト達は砂漠を三日飛び続けて、ようやく砂と岩だけの世界から湿った土と草の世界に舞い戻った。
砂漠を抜けた先はまばらな木々と低草の生い茂る平原だったが、カイルには天上の楽園にも見えた。
食料も水辺に行けば魚やウサギのような小動物は幾らでもいるので新鮮な食料も取り放題。自然の恵みとはかくもありがたい物だったかと一行は再認識したものだ。
さらに四人は聖樹の枝が指す東へと進んだ。
変化が現れたのは二日目の夕刻だった。
野営の準備を済ませてから、いつものようにカイルが枝木を転がすと、枝の先端が反対の西を指していた。
カイルは驚いてひっくり返り、間違いが無いか確かめるために何度も枝を投げては転がす。それでも枝の葉先は毎回西の方角を指し続けた。
つまりは知らない間に目的地のカイルの故郷を通り過ぎてしまったわけだ。
近くで薪を拾って戻って来たヤトとクシナに興奮した様子で、枝が西を向いた事を伝えて来た道を引き返すように頼んだ。
カイルの話は理解したものの、今は夕刻で既に野営の準備を済ませてある。明日の朝から動いた方が良いというヤトの反論によって却下された。
兄貴分の論は的を得ただけに納得するしかなく、カイルはその晩なかなか興奮して寝付けなかった。
翌朝は約束通り、朝食を済ませてから西への移動を始めた。
カイルは竜の姿のクシナに定期的に地に降りてもらって、聖樹の枝を転がして故郷への細かい方角を把握する。
昨日の昼時までは枝は東を向いていて、野営時には西だった。その間の数時間に通り過ぎたのは分かっている。後は枝葉の先がやや南を向いているので、クシナに頼んでやや南寄りに飛んでもらった。
何度か飛行と着陸を繰り返して方角を確認するうちに、昼には故郷の大体の位置が分かった。
問題はカイルの故郷と思わしき森があまりに広大な事だ。
雪化粧をした山々に囲まれた深い森は上空から目印となるような人工物は全く見当たらず、おまけに森全体が濃い霧のカーテンに覆われて、下の様子は一切分からない。
ただ、よく見ると霧の濃さにはやや偏りがあるようにカイルは思った。標高差や起伏のある地形なら霧の濃薄は起きるものでも、エルフの目から見ると微かに作為的な臭いが嗅ぎ取れる。
あの霧は大事なモノを隠して遠ざけるために展開しているベール―――――盗賊カイルはそう感じた。つまり最も霧の濃い場所こそが森の要地だ。
それが聖樹なのかエルフの村なのかは分からないが、近くまで行けば必ず何かの痕跡が見つけられるし、エルフからの接触も期待出来る。
以上を踏まえて霧の最も深い場所を目指す事にした。
四人は森を貫く川辺に降りて、カイルを先頭に生命力にあふれた森の中を歩いている。
森の中は上空から見た通り、まるで泥で濁った湖底を歩いているような濃霧で視界は極めて限定的だ。これでは如何に道標と暗闇を見通す目を持っていても役に立たないが、幸いにも道案内をしてくれる精霊達はカイルに親切だ。
周りで踊る水や花の精に先導してもらい、季節感を無視して咲き誇る花や張り出した木の根を踏まないように避けて、濃霧の中を歩き続ける。目がほぼ役に立たなくとも、四人は耳や鼻が常人よりもずっと優れているので、転ぶようなヘマはしない。小鳥のさえずり、リスの鳴き声、虫達の羽音が先導をしてくれた。ヤトだけはまだ足が完治していないのもあって、若干足運びにぎこちなさがあっても転ぶほどではない。
そしてカイルは精霊達に耳を傾けて、時折頷いたり驚きもして軽く相槌を打っては友好を深めている。
「こいつらは何と言っているんだ?」
「えっと…『懐かしい、おかえり』だって」
戸惑いを含みつつも、どこか嬉しさを滲ませるカイルの声にヤトとクシナの顔が明るくなる。両名共にカイルとの付き合いはまだ一年と少しぐらいの短い間でも、命を預け合う程度に深い間柄だ。仲間と言っていい。その仲間の長年の望みが叶えられそうと分かれば気分も良くなる。
精霊達に導かれる四人の歩みは早かったが纏わりつく霧の水気には辟易して、時折足を止めては外套にべったりと付いた水滴を払った。
外套は長旅に耐えられるように油を塗って撥水効果を高めてあっても、今の水の中を歩くような状況では効果はいまひとつだ。火で乾かそうにも森全体が霧に覆われていては、すぐにまた水を吸って不快な想いをする羽目になる。
つい先日までカラカラの砂漠に居たと思えば、今度は反対に水の中を歩いているような気分になって気が滅入る。
駄目元でカイルは精霊達に霧を弱めてもらおうと頼んでみても、残念ながら精霊達は盟約によって勝手に霧を消す事は出来ないと申し訳なさそうに断った。
仕方が無いので定期的に水滴を払っては進み、払っては進みを繰り返して森の深くへと足を動かす。腹が減ったら手近な木に生る果実を食べて、日が暮れれば野営を始める。
ゴールを目前にした興奮と疲労が混ざり合った不思議な心地良さに浸ったカイルの一日目が終わった。
翌朝はカイルが最も早く目覚めた。
夜が明ける前にロスタが他の二人を起こして、採ったばかりの桃と胡桃を早々と食べ終え、カイルが急かすようにすぐ出発した。
一刻ほど歩き続けたカイルはふと、森の雰囲気が変わった事に気付いた。感覚的な差異であって言語化しづらいが、確かに一歩森の奥へとつま先を踏み入れた瞬間、魂の底から喜びが沸き上がった。
かつてフロディスのエルフの村に踏み入った時に感じた喜心に似た、しかしそれを遥かに上回る懐郷心が全身を満たして、自然と涙が溢れた。主人を気遣うゴーレムの声に、喜びに打ち震えるカイルは涙を拭って心配は無用と返事をした。
そしてカイルは急ぎつつも決して草花を傷つけないよう慎重に歩き、他の三人もそれに続いた。
さらに一刻を歩き、そろそろ軽めの休息を入れようかと思い始めた頃、不意にヤトが足を止めて周囲の木々を注意深く見渡した後に、左側に視線を固定する。
視線の先は他の木々と同じ、霧に包まれた視界の悪い森が続くばかりだ。
だが花の精もまた同朋に耳打ちして真実を告げれば、そこに新たな出会いがある。
カイルは緊張に喉を鳴らして、ヤトの視線の先に努めて動揺を抑えた声を投げかける。
「えっと、光の祝福を浴びて生まれ、森と共に生きる悠久の民に幸あらんこと。これより先に足を踏み入る赦しを願う」
カイルはエルフの村で教えられたエンシェントエルフの由緒正しい、形式に則った挨拶を告げる。
「我が名はカイル。養たる母の名をロザリー。根を持たぬ流浪の身なれど、大樹の一枝を成すものとして歩みをしばし止める。どうか同朋よ、お目通りを願いたまう」
しばし間が空いた後、霧の中より弓を携え、濃い草色の外套を纏った三人の美丈夫達が姿を現した。当然ながら全員がエンシェントエルフだ。
その内の一人が一歩前に進み出て、カイルに会釈をした後、外から来訪した同朋の顔に驚き目を見開いた。
「―――んん!……寄る辺無き流転の一葉とて森が受け入れしものなれば、誰とて賓客である。ようこそ、立ち寄られた。異郷の同朋と旅人よ」
互いに詮索すべき事項は多々あれど、今は友好を示して歩み寄る準備を整えねばならない。
「して同朋よ、此度は如何な目的があって我らの領域へと足を踏み入れたのか?」
「我が生まれ出る大樹を求めて。多くの義者の助けを借り、かの地へと導かれた末」
カイルは腰に差してある聖樹の枝をエルフに恭しく差し出した。彼は枝を受け取り、間違いなく自分達の信奉する聖樹から零れ落ちた枝と見抜き、カイルに返却した。
「我らの聖樹の導きとあらば喜んでお迎え致す。――――よくぞ帰ったハエネス、あるいはカイルよ。ここがお前の大樹だ」
形式張った口調が一気に崩れ、三人のエルフはかつて姿を消した幼児が舞い戻った事を我が事のように喜び、歓待の意を口にした。