花火舞 ~あるいは俺の臨死体験~
たぶん。俺、死んだ。
事故だったんだと思う。
気づいたら坂の上にいて、海を見おろしていた。
路地の両側にはどれも似たような一戸建てが並んでいる。小さな庭つきのコンクリート造。
カモメの声に顔をあげたが、太陽の位置がわからない。ただ、青空だけが広がっていて、暑くもなく寒くもなく、季節さえもあいまいだった。
「どこだ……? ここ」
まずは頭を整理したかった。
俺はいつもするようにスーツのポケットをまさぐった。どこかに落としてしまったのか、タバコがなかった。ライターも携帯灰皿さえでてこない。非常事態だ。
俺はタバコを求めて町中をうろついた。
その辺の人に手あたり次第タバコの在りかを尋ねた。
空を漂う、幽霊みたいな存在にも声をかけた。「角を探せ」という冗談じみた言葉も、彼らから聞いたのだった。
駅やスーパー、アーケードの商店街を端から端までしらみつぶしに探した。だが、どうしてもタバコだけが見つからない。
いまさらりと流したが、ここには幽霊がいる。辛うじて人型を保つ、白っぽいふわふわした存在だ。
不思議と表情はわかる。楽しそうとか、怒っているみたいだとかその程度には。
彼らがいるのだから、「この世」ではないのだろう。しかし天国でもない。タバコがなければ俺にとっては地獄と変わらない。
タバコの代わりに、口から花火がでる。
なにを言ってるんだと思うだろうが本当なんだ。
周囲からすれば、その姿は少々滑稽に映るだろう。
まず拳を握って両腕をまっすぐ前にのばす。
イメージは、囚人。
ロープはないけれど、縛られているつもりで手のひら同士をぴたりとつける。
そのまま四歩進む。
次に腰を落とし、左右に一回ずつ体をねじり、正面に戻ったら上体をそららせる。これを四度くりかえす。最後に大きく口を開けると、そこから花火がでるのだ。花火舞という。
十五センチほどの、丸い小さな花火が顔の真上に打ちあがる。
花火は一発でおわるときもあれば、三発、四発ぽんぽんぽんと小気味よくあがるときもある。花火はおもしろいが、俺が気に入ったのはむしろ、最後に立ちのぼる煙の方だった。
喉の奥に広がるいがらっぽさや鼻に抜ける香り、酩酊感。
俺はネクタイを緩めて余韻に浸るその瞬間が好きだった。
こいつがタバコの代わりになると知ってからは、俺は誰彼無しに花火舞に誘うようになった。
なぜって、二人以上で舞わなければ花火があがらないからだ。
紫煙を美しいと感じるのは喫煙者だけだということは体験的に知っている。なんせ嫌煙家は三メートル先からだろうと顔をしかめる。
あいつらに、申し訳ないと思うくらいならタバコなんて吸ってない。
花火舞は誰もが楽しめる。動きが滑稽だというのもあるだろう。小さな花火が口からあがると、歓声まで巻きおこる。悪い気はしない。
幽霊だけは、少しばかり迷惑そうな顔をしていた。うらやんでいるのかもしれない。彼らにはどうやら花火がだせないようなので。
さて、ずいぶんと長い間タバコを探しているような気がするが、一向に日が暮れない。体力も尽きないものだから、俺はいつまでもタバコを探している。
そしてどうやら、この町からは出られないらしい。
いや、町というより地区から出られないといった方がいいだろう。景色としては見えているが、どうしても先には進めないのだ。
例えば海。
まあ、そっちには特に用事もないので困らない。海でタバコが泳いでいるというのなら話は別だが。湿気ってそうだし、やはり用がない。
困るのは、何度も同じ顔触れに声をかけてしまうことだ。
タバコを持っていないか? 花火舞を一緒にしないか?
あっというまに、俺は煙たがられるようになった。
「煙りたいのは俺の方なのにっ!」
そう叫んだら、人々はますます俺から遠ざかった。
ただ一人、俺のセリフに笑い転げたやつがいた。人のよさそうなおっさんで、カツ丼ばっかり食っているから、カツと呼ばれているらしい。そういえば、俺も俺の名前を思い出せない。
俺はタバコと呼ばれていた。
「花火舞よりさあ、ホンモノが吸いたくない?」
「吸いたいよ、そりゃね」
「なんとかして、ここから出られないかな。俺さ、この町のカツ丼は全部食べつくしちゃったんだよね」
それは、脱出のお誘いだった。
俺はなんだか急に、「帰らなくては!」と強く思った。
とはいえ、カツも俺もその方法を知らなかった。
「俺はさぁ、ふと思ったんだよね。カツ丼だけじゃなく、たまにはカツサンドも食べたいなって」
草むした国道のガードレールにもたれながらカツはそうつぶやいた。
「カツサンドか」
俺には、あまり縁のない食べ物だった。
「ソレで気が付いたんだ。あれ、町から出られないぞって」
「ああ、それは俺も気づいてた。なんせタバコを探してあちこちウロウロしたから」
「それにさ、車が通ってないよねえ。一台も」
「……そういや、そうかも?」
「駅があるのに、列車もこないし、バスターミナルはいつも空だよ」
「あー」
「そこは気づいてなかったんだな」
カツは苦笑した。
「タバコがないから、頭が働かねえんだよ」
「タバコ以外には興味ないの?」
「花火舞」
「食べ物だよ。……おまえは、食べないんだな」
カツが、ぽつりとつぶやいた。
一瞬カツサンドの話かと思ったが、カツが言いたいのはそのことじゃないだろう。
「うーん」
俺はあいまいにうなずいた。
町をうろつけば、店先からはうまそうな匂いが漂ってくる。カツ丼よりは、ラーメンとかカレーとかに惹かれる。だが、どうにも腹が減らない。
空腹でもないのに「あの世」の食べ物に手を出すのはどうにも気が進まない。
黄泉竈食ひ。どうしてもその言葉が頭をよぎる。
黄泉の国の食べ物を口にすれば、「この世」に戻ることは叶わないというアレだ。だが、そのことをカツに言うのは気が引けた。
ともかく俺とカツは、脱出を企てるようになった。
しかし、カツはどうにもカツ丼の誘惑には勝てないらしく、店の前を通りかかるたびに中へ吸い込まれていく。そんな時、俺は相変わらずタバコを探してその辺をうろついている。
いつごろからか、幽霊が一体俺に付きまとうようになっていた。なにか用事かと聞いても、不意と視線をそらす。だが、ついてくる。
幽霊相手じゃ花火舞はできないが、邪魔というほどではない。そう思っていた。その時までは。
住宅街の中に、ポツンと蕎麦屋の暖簾がかかっている。
その店構えを見たとき、俺は懐かしいと思った。知らないはずの町で、この蕎麦屋だけは知っているとはっきりと分かった。味覚がそれを訴えてきた。
水切りをきっちりとしたそばを、調和のとれたつゆにつけてたぐれば、つるんとしたのど越しが心地よく、舌には蕎麦の香りと甘さがほのかに残る。
だし巻き卵もいい。たっぷりと大根おろしをのせて、口から湯気を出しながら味わうんだ。
ああ、唾が湧き出た。
この時ばかりは「あの世」の食べ物だとか、そんなことは忘れていた。
心の底から、食べたいと思った。
しかし、いそいそと暖簾をくぐろうとしたその時、突然幽霊が騒ぎ立てた。
「大変だ! 大変だぞっ!!」
何が、と体を向けてしまったのが悪かった。
一人二人と足を止め、すぐに俺を囲んで二重三重の輪ができた。そんなもの構わず蕎麦屋に駆け込んでしまえばよかったのだ。
だが、それは一足遅かった。背後でカチャリと鍵の締まる音がした。ぎょっとして振り返ると、いつの間にか暖簾が下ろされていた。
腹が立って仕方がなかった。
煙だ。せめて煙が必要だ。紛らわせなければやっていられない。
うまそうにビールを飲んでいたカツを、カツ丼屋から引っ張り出し、むりやり花火舞につき合わせた。
カツが酒を飲んでいたせいだろうか。花火舞はいつもよりも煙たかった。
俺に付きまとっていた幽霊が、だいぶ遠巻きにこちらを見ていた。
睨んでいるようにも見える。
俺はしばし、ぼんやりとその様子を眺めて、ふと思い至った。
近づいてこれないのか――?
「なあ、もういいかあ? 俺メシ途中なんだよね」
「いや、もう少し付き合ってくれ! 方法が見つかったかもしれない」
カツはちらりとカツ丼屋を振り返ったが、結局俺についてきた。
俺はネクタイを締め、スーツの上着を羽織ると公園に向かった。
水飲み場の蛇口をひねり、頭から水をかぶった。
「えー? それ俺もやらなきゃダメ?」
「いや、カツはビールでも飲んでくれ」
水をかぶって舞う花火舞は、思った通りたいそう煙った。
乾いてくると、カツはその辺から調達してきたビールを飲み、俺は洗車用のホースなどから水を失敬して煙たい花火舞を繰り返した。
俺たちが舞うたびに、もうもうとして人々が離れていく。
もはや花火は上がらず煙だけ出て、目も喉も痛かった。
「もうきついんだけど……」
カツが弱音を吐いた。正直、俺もそうだが幸い目的地についたところだ。
蕎麦屋の暖簾が風に翻っていた。
「おー、蕎麦屋だ。見逃してたな、カツ丼食おう!」
カツは迷いもなく店に入っていった。もう元気が出たらしい。
俺はといえばカツが開け放した引き戸をみつめ、一瞬足を止めた。
息をはいて、恐る恐る足をすすめた。
引き戸が勝手に閉まってしまわないように、手を添えて店に入ると、中は耳鳴りがするほど静かだった。
手前にはテーブル席が二つ、カウンターには椅子が四つ。奥には狭い座敷が一つある。
カツはテーブル席に陣取って、さっそくメニューを眺めていた。
店にはカツのほかには誰もいなかった。客はもちろん、店主の姿も奥さんの姿も見えない。
けれど俺は、あの日の俺を幻視した。
カウンターに陣取った幻の俺は、せいろを一枚と、だし巻き卵を食べていた。
幻は瞬きする間に位置を変え、半透明の俺はレジの前に立っていた。
俺は幻を追いかけるようにふらふらとレジに向かった。
「どうしたー?」
カツの間延びした問いかけに応える余裕はなかった。
幻の俺が店の外に出ると同時に、何か聞こえてきた。
聞きなれた、けれどこちらに来てからは一切聞いていない音だ。そうだ、遠くから聞こえるあれは――車の音だ。
「あ……」
繋がっている。繋がった!
扉の先は現世なんだ。
「なんだカツ丼ないよ」
カツは俺の様子に気付いたふうもなくメニューに夢中だった。
「すまない、カツ」
「んー? って、なんだタバコ、出るのか?」
「すまない。俺、行かなきゃ」
「タバコ――?」
カツが後ろから何か声をかけてきたが、俺は振り向かなかった。
振り向けば、返事をすれば、何もかも無駄になるのではないかと思った。
カツを利用したことも。
出口は明るくて、とても駆け出していける感じじゃなくて、俺はそろそろと足をすすめた。
外に一歩踏み出すと、そこはもう、俺の知っている町だった。
蕎麦屋は住宅街の中にあるが、隠れ家というほど奥まった場所ではない。一本角を曲がった後は、まっすぐ進めばすぐに大きな通りに出る。
通りには車がひっきりなしに走っていた。人々は早足で、自分のことで手一杯で、無表情に過ぎ去っていく。目があったとしても、本当の意味でこちらの顔など見てない。
一瞬で記憶の底に押し込んでしまう。
俺は足を止め、口を開いて、彼らの様子を見つめた。
帰ってきたんだという実感がわいた。
地下鉄駅の入り口を目にした俺は、いつしか駆け出していた。そのまま階段を駆け下りる。
おかしいと、その時は思わなかった。本来なら踊り場があるあたりを通り過ぎ、いつまでたっても階段を降り続けている。
つまり、俺はまだその時点では本当の意味で帰り着いていなかったのだ。
駅へ降りて、その先どこへ?
ふと沸いてきた疑問は、天啓に似たひらめきを連れてきた。
「そうだ、俺……」
帰るとか、そんなんじゃない。
俺は――生きなきゃならない。
そう気づいたとき、階段は消え、一面が闇になり、そして――。
最初に感じたのは、ピーピーという耳障りな音で、次は背筋を走る悪寒。
不快に耐えながら何とか目を開けると、カーテンレールのついた天井が見える。
自分の体にたくさんの管がついているが、集中治療室じゃないから、どうやら危険な状態ではないようだ。
妙に冷静にあたりを観察する間も、悪寒は消えない。
これだけ寒いのだから、俺はたぶん戻ってこれたのだろう。
けど。
本当にそうか?
不安になったとき誰かの足音がして、女が顔をのぞかせた。
看護師ではなく、よく見知った顔だった。
長いストレートの髪に気の強そうなまなざし、今は眉を八の字にしているせいで少し和らいで見えた。
「――」
彼女が発したそれが、一瞬自分の名前だと認識できなかった。
「いや、俺はタバコ――」
反射的にそう答えようとしたのだが、ろれつが回らなくてほとんどしゃべれなかった。
けれど言おうとしたことは伝わったらしい。
「ばかっ!」
すぐさま怒鳴り声が降ってきた。
民家の塀にはっきりと修復のあとが目立った。脇にはくたびれた花が供えてある。
俺はここで事故にあった。
相手は、俺を轢いたことに動揺して、バイクごと塀に突っ込んだそうだ。轢かれた俺がよみがえり、轢いた相手が死んでしまった。
この人は、カツだったんじゃないか。
目が覚めたときから、俺はどうしてもカツの顔が思い出せない。本名も知らないから、確認しようもない。
けれど俺の代わりに死んだ彼は、カツだったんじゃないかとどうしても考えてしまう。
なあカツ。手遅れだって知ってたから、あの世の食べ物を口にしたのか?
それとも、食べてしまったから、手遅れになってしまったのか。
どちらにしても、俺がカツを置いてきてしまったことには変わらない。
「すまない、カツ。せめて……」
左手にカツサンドを乗せ、右手で拝むポーズを作った。こんなもので届くかどうかは分からないが、他に悼む方法を知らない。
生ものを置いて帰るわけにはいかないから、その場で食べてしまうことにした。
ロースとヒレ、どちらがカツの好みだろう。どちらにしても、カツサンドは今の俺には重すぎる。
同封されていた紙おしぼりで手と口を拭いたら、無性にタバコが吸いたくなった。
胸ポケットに手をやりかけ、途中で思いとどまった。
あの世の煙を吸いすぎたせいか、俺の体はタバコを受け付けなくなっていた。
それで、本当はまだ地獄にいるのではないかと、時々疑っている。
嫌煙家です\(^o^)/