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小野瀬

新作アップです(〃^ー^〃)前回連載してた【僕の嫁】たくさんの方に読んで頂いたので気をよくしてこちらなろうさんに新作掲載しました(〃^ー^〃)今日は女子高生が主人公の片思いに少しサスペンステイストで少しシリアスなお話になっております(〃^ー^〃)多分六葉の前書きも結構じゃまな感じなので。お楽しみ下さい。では始めます。

【小野瀬】



ベッドの周りには古い本が何列も積み上がり、まるで小さなビル街のようだった。ビル街という言い方が正しくなければ棺の並ぶ墓所。


なんて不謹慎な女の子だろう‥私。


私はベッドに高校の制服を着たままの姿で仰向けになり、クリーム色の天井を眺めている。


ここは彼の部屋だ。


彼といっても彼は私の彼ではない。


音無悠斗君は私の通う高校の同期生で私の彼氏とかではない。


そう…2人が恋人と呼ばれる日は永遠に来ない。


彼は4日前に自転車で帰宅途中にトラックにはねられて死んだ。


死んでしまって、もうこの世にはいない。


目線を横に移すと本の題名が視界に飛び込んでくる。


【鉄の夢】


彼が亡くなる前に話していたヒトラーが主人公のヒロイックファンタジーだ。


【鼠と竜のゲーム】


ちょっと前までコード・ウェナースミスという作家の正体について熱っぽく語っていたっけ。


これは私も読んだ。


彼の話題にする本は今更ながらに白眉だったなぁ…しみじみ思う。


ベッドの近くに積んである本はごく最近彼が手にしたであろう本たちだ。


部屋の四隅にある棚にある本は以前既に読んだ本。その中でも時々読み返したい部類の本なわけで。


それ以外の本は段ボールにきちんと種類分けされ隣の部屋で眠っている。


以前彼が図書室で同じ図書委員の隅田さんに話しているのを聞いた。


今私は彼の部屋で、彼が愛した本たちに囲まれ、彼が過ごしたであろう時に思いを馳せている。


指先で本と本の間に置かれている距離に不可視の線を引いてみる。


武者小路実篤と太宰治が仲良く隣同士に並んでいる。


絶対わざとだ。


コリン・ウイルソンとH・Pラブクラフト…これもだ!その2つから線をまっすぐ引くと目の前に積んである本の一番上にある分厚い黒い本「世界幻想文学体系36」に収録されている作品に行きつく。


1つ1つの本の並びに彼の密やかな楽しみや意図が感じられる。


永井荷風の全集の横にある本は「ストリッパー物語」…飛躍し過ぎだが笑える。


悠斗君、私わかるよ。


わかるけど…ね。


積み上げられた本と本との空間の意味を読んでみたところで。


線と線で結んでみたところで魔法は発動しない。


彼が生き返るわけもなく。


私は今こうして彼がニ度と戻る事のない寝所を穢している。


私は変態でも犯罪者でもない。そんな事を意識する事も能わず生きてきた。


少なくとも昨日まで。


実は彼は殺されたとか…そんな新事実が浮かび上がったりする訳でもない。


私は視線を再び天井に向ける。


朝目覚める時に彼の目に映っていた景色。


夜眠る前に彼が目にしたであろう景色。


私は今それを見ている。


私は変態でも、犯罪者でもない。そんな事すら考えるに能わず今日まで生きて来た。


しかし変態や犯罪行為に人が走らんとする時目の前に突然それまで見えていなかった標識が姿を現す。


侵すか侵さないかは。


私はうつ伏せになって枕に顔を埋めた。


湿り気を帯びた深い溜め息が漏れる。


お腹の中が熱くなるのが分かる。


「音無君」


手をのばして彼の魂の欠片に触れる。


彼がとても大切にしていつも枕元に置いてある本。


トルモー・ハウゲンの「夜の鳥」は彼が本の世界にのめり込むきっかけを作ってくれた本だ。


私は音無悠斗の事が好きだ。けれど彼が死んだと聞かされても泣けなかった。


あまりに突然で。通夜の晩に彼の遺体を目の当たりにしても受け入れる事が出来ずにいた。


でも、今度こそ泣けそう。


だって彼にとって何者でもない私は彼の部屋でこんな事をしている。私、死んだとしても彼と同じ場所にはきっと行けないんだ。でも今、私は彼の部屋で彼のブランケットにくるまって彼の残り香と一つになる。自然に制服のスカ―トの裾に指先が触れる。


「なによ、これ」


冷水を浴びせられたような拒絶。それを今はっきりと私は感じた。


私と悠斗君の間にもう1人いる。


それは私と悠斗君の間に軽やかに甘やかに両手を広げて立ち塞がる。


香水の香りだった。


最初は部屋の芳香剤や洗濯されたシーツの柔軟剤の香りかと思った。


でも枕に顔を埋めた時はっきり分かったの。


これは女性が男性を惹き付けるために用いられる媚薬。女性が女性に対して優位に立つために造られたフレグランス。


私たちの年代の女の子が身にまとうような安物ではない。


より複雑で一流の調香師によって調合された名前も分からない高級品だ。


階段を登る音がする。


私はベッドから跳ね起きて身なりを整えた。


シーツを元通りに戻すと手元にあったハウゲンの一冊を手に取った。


部屋の扉が開いて悠斗君のお母さんが入って来た。


「買い物にも出てなくて、弔問に来たお客様に出すお菓子しかないの」


精一杯の窶れた笑顔。私は本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。


「本当に足の踏み場もないわね」


「悠斗君、本当に本が好きでしたから」


「学校でもあの子本ばかり読んでたの?」


「いいえ」


暗い私の心にも灯りが点る。私にも.あの素敵な男の子を亡くしたお母さんに伝えて上げられる思い出がある。


「悠斗君は読んだ本の話をいつもみんなにしていました。私たち悠斗君がする本の話を聞くのが大好きだったんです」


「悠斗が」


涙が溢れる。拭ってあげる事も私は出来ない。


本の虫という言葉は古くさい。少なくとも私たちは、あまり使わない。


でも悠斗君は間違いなく本の虫だった。


本の虫にはニ種類いて.ひたすら本を読みまくるのは同じ、でもそれを自分だけの心の図書室に大切にしまって鍵をしておくタイプと。


もう1つは悠斗君のように読んだ物語の素晴らしさを人に伝える事にも喜びを見い出す人。


書評家になる人も中にはいるだろう。


悠斗君は私たちクラスのストーリーテラーだ。


隅田さんは本の虫でも前者だからニ人は気があったのかもしれない。


音無悠斗は本の虫で。その生態は蝉に似ていた。


一人で部屋に籠って本を読んでいる時期が過ぎたかと思えば、明るい場所に出るなり羽を広げ、横隔膜を震わせ、物語の素晴らしさをこの世界で歌い続けた。


そして夏が始まる前だというのにある日この世界から居なくなった。


白磁のように白く端正な顔をした彼の脱け殻だけを残して。


「突然お邪魔してすみませんでした」


私は悠斗君のお母さんに頭を下げた。


悠斗君が亡くなって四日。彼はもう駆けつけた葬儀屋さんの手であれこれ支度を済ませ、火に焼かれて壺に入れられ今は地面の中だ。



お通夜の晩はクラスのみんなが泣いていた。


勿論みんな彼の死を悼んで泣いたのだ。


でも私は思うのだ。人はびっくりするだけでも泣けるんだ、と。ある日私たちのクラスメートが、ほんの十六時間くらい前まで隣にいて、話をしていた友達がトラックに撥ね飛ばされて、次の日にはもう永久にいなくなってしまう。


人はいとも簡単に吹き飛ばされ、何処か私たちの知らない暗い場所へ行ってしまう。


私たちは皆ショックを受けて泣いたのだ、と思う。


お焼香の順番を待っている時私の前にいた未来が冷たくなった悠斗の少し紫色が残った口元の痣を見て言った。


「いやん、痛そ。かわいそう」


誰に対しても何にも私の心は麻痺っていた。


あまり記憶もないのだが未来の「いやん」という言葉だけが耳に残っている。


学校に行くと四十のクラスメートの四十の口から悠斗君の事が語られる。


みんなそれぞれ彼の死を悼んでいた。


でも私はそこにすごい生命力みたいな力を感じてしまう。


誰かが死んだ事でみんな自分の命が今ここにある事を実感していた。


悠斗君の事を話す声や言葉にも次代に熱が籠り目には輝きが増して。


それは本当に仕方ない事だ。けど私は、私が密かに思いを寄せていた音無悠斗が、みんなのものになってしまった気がした。みんなばらばらになった悠斗君の手や足や歯を抱えて話をしている。そんな気さえした。


彼が私の彼氏なら、多分みんなこんな明け透けに彼の話なんてしない。


私が不甲斐ないばかりに。


生きてるうちに思いの一つも告げられなかった報いがこれだ。


いっそ勇気を出して振られてさえいれば良かったのに。


私は学校をさぼって悠斗君の家の前に立っていた。


彼にとって何者でもなく、何者にもなれなかった私。私はなす術なく、気がつくとただ彼の家の前に立っていた。


「ふいに玄関の扉が開いて悠斗君のお母さんが顔を出した。


泣き腫らした赤い目と隈、少し埃がついた黒い喪服、解れた黒髪に白すぎる顔の色。


「きれい」


不謹慎な言葉が思わず口に出てしまいそうになる。


悠斗君のお母さん悠斗君が死んでもやっぱり綺麗な人だよ、悠斗君。


「悠斗のお友達?」


「はい」


悠斗君が私の事をそう思ってくれていたなら、いいけど。


「学校は、どうしたの


「さぼってしまいました」


思わず正直な言葉が口をついて出てしまう。


悠斗君のお母さんは少しだけ俯いてから顔を上げて。


「そう、入って」


と私に言った。


「お父さん悠斗のお友達…学校に行かず来てしまったんですって」


通された客間には新しい、文字通りぴかぴか光る小さな仏壇があって悠斗君のお父さんはそこに座布団を敷いて胡座をかいて座っていた。


紹介された学校をさぼった女の子に対して。


「おお」と感嘆したような声を漏らした。


優しい笑顔が悠斗君にそっくりだった。


学校をさぼる事なんて、もはやご両親には髪の毛ほどの罪悪ですらないのだ。


それよりもっと残虐で非情な幾日かを2人は過ごして来たのだから。


無理と分かっていても私はこちら側の人間でいたかった。


せめて悠斗がこの世にいない今となっては。


私は悠斗君の仏壇に線香を上げてご両親と悠斗君のお話をした。


お母さんは私を悠斗君の部屋に案内してくれた。


「小さい頃は弱くてね、部屋で絵本ばかり読んでいたわ。あそこまで本好きな子になるなんて思わなかったけど」


「本に助けられたって話してました」


「本に助けられた?」


「子供の頃に読んだ本の中にヨアキムっていう、自分にそっくりな男の子が出て来る話があって、本の中に自分と同じ子がいるって思うとすごく心が救われて、ますます本が好きになったって音無君が‥‥」


「その本知らないわ」


私はお母さんの手元に【夜の鳥】を手渡した。


「こちらが続編です」


渡した続編の【少年ヨアキム】も大切そうに胸に抱えた。


「ありがとう、小野瀬さんだったわね」


「はい.小野瀬繭です」


「もし…嫌じゃなければ時々あの子に会いに来て上げて。あの子の好きな本の話も聞かせて欲しいの」


「私でよければ」


私でよければ…今のヨアキムの本と彼の少年時代の話は悠斗君が隅田さんに話していた話をただ盗み聞きした話だ。


私なんかでいい筈がない。


あの香水は隅田さんのものだろうか。その可能性は高い。


そんな話をするぐらいの仲だもの。きっとそうだ。


「小野瀬さん、失礼な事伺っていいかしら?どうか気を悪くしないでね」


「はい」


「貴女は悠斗とおつき合いされていた…のかしら」


私はお母さんに言った。


「私、悠斗君の事が大好きでした」


「そう、そうなの」


お母さんは2冊の本を胸に抱きしめ目を閉じた。


「そうなのね」


噛みしめるように言った。


「でも悠斗君は私の事は好きじゃないかも。わからないままで…」


別れ際にお母さんは私に言った。


「心配しないで、私だってこの頃は貴女と同じ気持ちであの子の事見ていたの」


音無君のご両親に頭を下げ私の足は繁華街を目指していた。誰だろう?


私と同じような事を彼の部屋でしていたバカ女は。


もしも見つけたら殺そう。


玄関に入った時から悠斗君の家の中はお線香の香りしかしなかった。別れ際の悠斗君のお母さんからも同じ匂いしかしなかった。あのお母さんと悠斗君の枕やシーツに染み付いた芳香…官能的とか野性的な香りとでもいうのか、イメージが違い過ぎる。


あの香りを身に纏うならお化粧だって洋服だって違ってくるはずだ。


つばだけ立派な竹光を差したお侍なんていないだろう。


当然悠斗君のイメージや人となりからもかけ離れている。


私はその日から匂いにとても敏感になった。


常に誰かと話す時も近くに寄ってその人の匂いを嗅ぐようになった。


誰かとすれ違う時もそうだ。おかげでやたらと人にぶつかる。その度。


「ごめんなさい」


一応は謝るのだが私はその時も油断なく相手の匂いを伺っていた。


習慣は人の性格を作るものらしい。痴漢や性犯罪者が何度捕まってもそうした犯罪を止めないのは多分それが性格の一部になってしまっているから。


マツキヨ、ドンキ、その他のドラッグストアをうろちょろしながら安物のフレグランスのサンプルを嗅いでまわる。


はたから見れば色気づいた頭の悪い女子高生に見えただろう。


でも私はそれより遥かに愚かな目的で鼻孔を広げていた。


どれも違う。口当たりのいい清涼飲料水みたいに親しみ易い香り、けど本物じゃない。


もっと高級品が置いてあるデパートに行かなきゃだめかな。


それよりまず隅田澄香に会わないと。


澄香なんて名前からして怪しいじゃないか。


「いいわね、お金持ちって」


隅田澄香は図書室の窓から校門を通って下校する生徒達の群れを見ていた。


目線の先には校門の横に停められたベンツに乗り込む男子生徒を追っている。


「お金があるなら付属の私立に行けばいいのに」


先程から横にいる私など眼中にないとでも言いたげに余計な世話を焼いている。


私は、隅田につられて窓を覗くふりをして彼女の匂いを嗅いだ。


Banとパンテ―ン。やはり違うようだ。


「朝と夕方つい同じ事ばかり言ってしまうようなの」


その横に音無君がいつも居たと言いたいのだろう。


私しか生徒がいない図書室で以前私は本を借りた。


机に座って私が差し出した本の裏表紙から図書カードを抜き取りながら隅田は呟いた。


「音無君がよく口にする本ばかり」


そう言って顔を上げて真っ直ぐ私の目を見つめ。


「好きなの?」


私が言葉を返す前に。


「本が」


この女むかつく。


「別に好きじゃない」


私は言い返した。


「本自体は」


黒髪でショート、利発そうな額と大きな瞳。


悠斗君はこういう子がタイプなんだろうか?


私は学校でよく本を借りたり読んだりしているが偽物の本の虫だ。


悠斗君が面白いと誰かに話している本にしか実は興味がない。


それを図書室で隅田に見透かされた時はさすがに恥ずかしかった。


でも隅田と悠斗君はお似合いのカップルと言われていたけど違う、偽物の両思いだ。


用は済んだ、帰ろう。


「邪魔してごめんね」


私は立ち去ろうとした。


「私に用があるんでしょ」


目の前を隅田の細い首が遮る


また、香りが。でもこんなに安物じゃないの。


私の鼻が覚えているのは別の香り。


隅田澄香は本人がどう思おうと悠斗君とは何もない。私と同じ。


彼の部屋に入り込んで彼のベッドに香水の香りをつけて帰る女とも無関係だ。


「隅田さん音無君の部屋とか遊びに行った事ある?」


「ないけど…それが何」


「何でもないの」


私は彼女をその場に残して歩き始めた。


「私と彼しか知らない事だから」


「小野瀬さん」


ドラッグストアで香水をチェックしていた私はふいに声をかけられ振り向いた。


ニ月経ったが香水の持ち主には行着けず。


デパートにも探している香りはなかった。


「私は何をしているんだろう」


そう思いつつも私は新しい店を見つける度、香水売り場に足が向いてしまう。


声の主は悠斗君のお母さんだった。


元々細面の女性なのだろう。この間会った時は病窶れた顔をしていたが、今は店の明るい照明のせいか、幾分生気を取り戻したようにも見える。


「お買い物?」


「ひやかしです」


「年頃ですものね、やっぱり香水とか興味あるわよね」


悠斗君のお母さんはふいに右手を上げて私においでおいでと手を振った。


痩せて芒の穂が風に揺れるみたいに見えた。


私は言われるままにお母さんの前に進み出た。


「やっぱり違うわね」


お母さんは私の顔に自分の顔を近づけ言った。


手は自分の鼻に向け、ひらひら空気を扇いでいる。


私の匂いを嗅いでいるんだ。


「なんですか、悠斗君の、お母さん」


分かっていたけど私は聞いてみる。


「香水の匂いが悠斗の部屋に残っていたの。貴女が帰った後で悠斗の部屋のベッドに座って本のページを開いていたら、香水の香りが」


「私香水はつけませんよ」


「そうね、貴女が家に来た時も貴女からあんな香りはしなかった」


「高校では薄いお化粧は見逃してもらえますけど、あんなに香りの強い香水はつけられません。清汗止めならともかく」


「小野瀬さんも、気づいていたの」


「最初は柔軟剤とかお部屋の消臭剤とかって思ったんですが」


「そうね、それは私が買ってくるものだからすぐに分かるの」


あれは私や悠斗君のお母さんの日常には存在しない香りだった。


でも、その香りの行く先を辿れば2人の女を憂鬱にしてしまう。


「なんなのかしら」


「以前はなかったんですか」


「最近シーツとか自分で洗濯機に入れてたから」


最近なんだね。再び沈黙。


「あの本読んだわ」


短い沈黙を壊すように悠斗君のお母さんが言った。


「ニ冊とも読んだの」


「私も読みました」


「小さな子供の世の中に対する怯えとか心の震えみたいなものが上手く描かれていて、あの子は子供部屋が怖かったのかな、なんて今更だけど聞けないわね」


「小さい頃悠斗は体が弱くて、小学校に上がる頃には大分丈夫になった」


「あの子の父親は少しでも息子に強くなって欲しくて、早い時期から子供部屋で一人で寝かせるようにしつけたの」


そんな話しをお母さんは私にしてくれた。


「私たちは昔は子育ての事でよく夫婦喧嘩もしたけど…それも悠斗には」


私は黙ってお母さんの話に耳を傾けていたけど、お母さんは、はっと我に返ったように微笑んだ。


「今のは独り言だと思ってね、貴女にする話ではなかった」


「どんなお話でも悠斗君のお話なら、私は聞きたいです」


悠斗君のお母さんは頷いて香水の瓶が並ぶ棚の前に進み出た。解れた髪を指輪をはめた指で掻き分けながら覗き込む。赤や黄や紫の小瓶が仄白い顔を照らしていた。


「好きな香水の瓶を1つ選んで、小野瀬さん」


「いえ、私は」


私は即刻辞退した。私にはそんな資格はない。


それは自分でも分かっている。


「いやでなければ、私貴女に何かお礼がしたいの。熱心に見ていたから興味があるんじゃないかと思って」


「悠斗君のお部屋にあった香りが気になって、元々香水には関心がなかったんですけど。最近はそればかり気にしてしまいます」


「そうなの、でもそれは良くないわ」


「自分でも分かってます」


「ふと気がつくとね、シーツの下から足が八本出ていたの、ペンシルチョコレートみたいな足が」


自分の娘を見るような優しい眼差しだった。


「なんですか、それは?」


ドラッグストアの冷房は効きすぎていて私たちの体はすっかり冷えてしまっていた。


私は香水を買ってくれるというお母さんの申し出は固辞したが表の自販機で飲み物を奢ってもらう事にした。


ドラッグストアは大きなスーパーの中にある。店を出ると焼きたてのパンや冷えた野菜、花屋の店先の鉢植えの蘭や一際香りの強い百合の切り花、レジの前を通る度フロアは様々な香りに満ちている。



入り口に向かう途中でお母さんは話をしてくれた。


「ありふれた話よ」


と彼女は私に前置きした。けれど悠斗君の小さい頃の話なら、私は涙が出そうになるくらい嬉しい。


お母さんは昔を懐かしむように目を細めている。


目の前を小学校に上がってから、すっかり健康になった悠斗君が駆け回る。


私は悠斗君のお母さんになったつもりで想像してみる。


悠斗君は学校から帰ると家に男の子の友達を沢山連れて来るようになった。


悠斗君の家で本を読んだりゲームをしたり時々はケンカもした。


悠斗君のお母さんは焼きそばを大皿に焼いてあげたり飲み物を用意したり。


「楽しかったわ。私の心の中はあの子たちの手形や足跡そして毎日のおやつの事でいっぱいだった」


でも男の子たちの足は早くて、どんどん遠くまで行ってしまう。


夏休みになった。庭の物干し竿に干したシーツもすぐに乾く季節がやってきた。私は洗濯物をたたもうと庭に出た。


足元を走り去る、黒とアイボリーの縞模様の体とメタルブルーのしっぽ。夏になる度に私は蜥蜴の色彩に目を奪われてしまう。



真っ直ぐにのびた可愛らしい足が八つ風にはためくシーツの下から見えていた。


昨年まで、悠斗の足は同じ年齢の子供に比べると一際細く青白かったけど今はスニーカーを見ないと分からない。


すっかり乾いたシーツからは真夏のお日様の香りがするようで。私はシーツと子供たちに頬擦りしたくなる。


息子の履いている青いスニーカー右足の爪先が地面の芝生をぐりぐりほじっていた。


「何してるの?」


私は息子たちの仲間に加えてもらおうとシーツの隙間から顔を出した。


子供達は別に何もしていなかった。

ただ全員少し深刻な面持ちで顔を近づけ話をしているだけだった。


私は吹き出しそうになる。


私が期待したのは行き場の無い鳥の雛や子猫や仔犬。彼らの生け贄にされるための小さな生き物や昆虫はいなかったけれど。


タケル君だったっけ、俯いたまま唇を噛んでいた。


カズマ君はタケル君の肩に手を置いていて、ケン君はシーツにもたれかかろうとして転びそう。


「悠斗」


なんだか難しい顔をしている息子に声をかける。


「ママには関係ない」


悠斗はこちらを見て言った。


「悠斗がママだってさ」


「ママ!ママ!」


「別にいいだろ!」


男の子たちはシーツを潜り抜けて、あっという間に表に飛び出して行った。


振り向いた時悠斗の瞳は私の知らない夏を映していた。


ほんの一瞬だけど、もう大人の顔をしていた。


「ずっと弱いままでいたらいいのに」


心ならず思ってしまう。



「体が弱かったから、些細な事も見逃すまいと、あの子の事なら何でも分かってるつもりだったけど」


悠斗君のお母さんは自販機の横の壁にもたれてニ本目の煙草に火をつけた。


私たちが店の中にいる間に降った俄か雨が路面を黒く濡らしていた。


夕立と呼ぶには少しばかり早過ぎる時間だ。


「男の子って分からないわ、そう思う事が時々」


「今頃どこ歩いてるんだか、バカ息子」


煙草の煙や路面の逃げ水みたいに悠斗君は消えてしまった。


「来週から月曜日と木曜日またお勤めに出るの」


飲み干した缶コーヒーの缶の飲み口に吸殻を押し込むとお母さんは私に言った。


「それ以外は家にいるから、また遊びに来てね」


連絡網はあるけれど私は悠斗君のお母さんとアドレスを交換して別れた。


どうか悠斗君のお母さんがいつまでも清らかでありますように。


私はふとそんな事を思った。そんな風に願わずにはいられない気持ちで背中を見送った。


「前に進まないとね」


自らに言い聞かせるようにお母さんは何度も呟いた。


私は、どうなんだろう。




月曜日。私は悠斗君の家の玄関のインターホンを三回押した。


家の中から人が出てくる気配はない。


ガレージに車もない。


私はいつも首からぶら下げている悠斗君の家の鍵を玄関の鍵穴に差し込んだ。


多分確証はないが、これで玄関の扉は開くはず。


予想した通り鍵穴は鍵をすっぽりと呑み込んだ。


しかしシリンダーは回転しない。


鍵穴は玄関の扉に縦横に2つ、ついているが結果はどちらも同じ事だった。


私は鍵を抜き取ると掌に握りしめ勝手口を探して家の右側に回り込む。


異常気象の続くせいか毎年五月蝿いだけの蝉の声も霧雨のように迫力がない。


金柑の木が植えてある。きりりと一斉に斜めに空に伸ばした葉の緑が濃い。


秋になると黄色い実をつけて、悠斗君のお母さんはそれを摘んで、日に干した後金柑酒にする。


「氷砂糖と焼酎やブランデーと一緒に瓶に詰めるんだけど、うちでは誰も飲まないんだ」


悠斗君の声が記憶の中に甦る。


金柑の木を潜ると、家の屋根から張り出した軒下の影に入り、辺りは急に薄暗くなる。


ニ、三メートル歩くと洗濯機が置いてある。


横に水道と手製の簡単なタイルのシンクがあって、その先に勝手口の扉が見えていた。


少し汗ばんだ私の手の中には以前彼から盗んだ鍵が握られていた。





この手の話ネタバレ出来ないし(´・ω・`)あまり書くことがありませんの(´・ω・`)僕嫁ほどの尺は長くない予定なのでよろしけらば是非また次回も(〃^ー^〃)お読み頂いきありがとうございますm(_ _)m六葉翼

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