再び始まる学生生活
魔法庁附属、魔法学校・紺碧校。
ここの本科生達は毎朝、訓練の為に寮から校舎へと移動する。
その流れの中でも一際目を惹くのは、特別棟から出てくる選ばれし生徒達だ。
――あ、会長だわ。
――副会長もご一緒だな。
――いつ見ても目の保養ー。あの主従関係には憧れちゃうよねー。
――ラウド様もいらっしゃったな。今日はお早い……。
――いや、他の方々も出て来られたぞ。
一般棟の生徒からすれば、特別棟なんて別世界の住人に等しい。
興味の任せるまま、不躾な視線を向け続ける。
――あれ。見ない顔が出てきたな……どなたかの新しい従者……には見えねぇな……。
――ん? あぁ、あれが編入生だよ。例の。
――え、まじ……? そういえば数日前に、帰ってきたって噂になってたなぁ……。
重厚な扉をくぐって現れたのは、黒髪黒目の少年だった。少し長めの前髪を風に靡かせ、ゆったりとした歩調で木立を歩いている。
特別棟の編入生として、誰もが一度は噂話を花開かせただろう生徒だ。が、編入してすぐ1週間近くも学校を離れるという前代未聞の行動に、好意的な興味から、呆れ返った声も多く聞こえ始めていた。
しかし、それも今では別の噂で塗り替えられている。
――ねぇねぇ、あの噂、本当なの?
――あぁ……治安維持活動で、ノクスロスと戦ったっていう?
――そうそう。殲滅したのは師団の魔法士らしいけど、時間稼ぎで渡り合ったらしいよ。
――嘘でしょー。そんなの会長たちだって厳しいって。その場に偶然居合わせたのを、大げさに言いふらしてるだけじゃない?
――いや、噂の出所は、紺碧師団らしいよ? 実地訓練だったから、師団の人たちが直接報告に来て、そう説明したって。
――えー、信じられないなぁ。
――うん。……でも……本当だったら凄いよな。
***
「累くーん!」
少し開けた木々の中。
制服についた土埃を払っていた累は、自分を呼ぶ柔らかい声に顔を上げた。
「あぁ、おつかれー、ニイナ」
「お疲れ様っ! おぉ、今日も怪我ひとつなさそうで、素晴らしいねっ」
白いふわふわの髪を、ぴょこぴょこと跳ねさせながら駆け寄ってきたニイナ・ファレルは、累の全身を見つめて満面の笑みを浮かべた。
にこりと笑う仕草は、小動物と表現するのが良く似合っている。
「そういうニイナは、凄く……」
「ボロボロだね、って? ふふふっ、もうねー、盛大に魔法攻撃に弾かれて、泥の上にダイブだよー? 見てぇ、黒いスカートがこんなに白くなっちゃってー」
「うわぁ、泥が乾いて凄いことになってる……。泥汚れって、洗濯してもなかなか落ちないんだよねぇ……」
「えーっ! なにそれ累君、お母さんみたいっ」
泥だらけのスカートの裾を持ち上げながら、くすくすと笑うニイナ。
それに笑い返しながら、自分も立ち回りで乱れた制服を直す。
――今は、規定訓練である、模擬演習をこなした後。
専用の訓練場である小さな森は、数時間に及ぶ魔法の攻防によって、倒木や抉れた地面で酷い有様だ。そこかしこに座り込んだ生徒達は、みな疲労困憊の様子だったが、大きな怪我は無さそうである。
一方、同じく疲労感で身体中怠い累は、しかしニイナの指摘通り、特に怪我もなければ制服にダメージもないという、見た目だけなら完全に勝者だった。……見た目だけなら。
「今日はボロボロでも良いんだもんねー。なんたって、累くんの班に勝っちゃったんだから!」
「いやー、最終奥義・会長を先鋒に使われたら、手も足も出ませんて」
「へっへーん、敵に容赦はしないんですー」
まるでドット柄のように泥はねした制服で、胸を張るニイナ。
なんのモノマネなのか、高飛車に髪をふわりと手で払うが、その頰も白い。
「あはははっ、ニイナ、ほっぺまで泥が飛んでる」
「えーどこどこっ!?」
「反対……もうちょい下…………あーっと、ココ」
「うわぁ、ガサガサっ。……えーん、とれたー?」
「……うーん……ちょっと待って」
泥の塊はポロポロ落ちるが、白く跡が残ってフェイスペイント状態だ。
手で擦っても限界だろうとハンカチを取り出してみるも、乾いたままじゃ一緒か……と、なんの気なしにハンカチの上に水を組成した。
それはあまりにもスムーズすぎる魔法の発露だった。微かに消えていった魔法の燐光が無ければ、どこからか持ってきた水を、ひっくり返したようにしか思えなかっただろう。
突然累の手元から溢れてきた水に、驚いた表情を見せるニイナ。
それに気付くことなく、ポタポタ滴る布を片手で軽く絞った累は、その柔らかい頰を拭おうと、優しくハンカチを押し当てた。
「……うん、綺麗」
少し擦っただけで、乳白色の柔肌が姿を現した。と言っても、他に髪や首筋だって泥だらけなのだから、焼け石に水だ。
その惨状に苦笑し、持っていたハンカチを渡す。
「はい。ま、シャワー浴びたほうが早いと思うけど」
「……あ、ありがと……」
束の間、呆然としていたニイナが、受け取ったハンカチと累を交互に見つめる。
「…………?」
「…………累君て、時々凄いスマートだよね……」
「え……普段は太って見えてるってコト……?」
愕然とした表情でニイナを見返せば、
「違ぁーーう!! 今の返事で残念感マックスだよ!」
知らないうちに株が上がって、留まる暇もなく地に落ちたようだ。
怒ったようなニイナが、ため息交じりに続ける。
「じゃなくてー……って説明するのは恥ずかしすぎるよっ!?」
「えぇぇえっ!? 恥ずかしい話っ!?」
「いやいやっ、そんな変な話じゃないからねっ!」
「ちょっとは変なのっ!?」
「何でそうなるのっ……だからぁ、何てゆーか……」
「…………」
「……その…………」
よくわからない方向に飛んでいった話の流れに……少しの間を置いて2人で吹き出した。
「っもぉーっ。せっかくの雰囲気が台無しじゃんー!」
「えー、なになに、体型がいい雰囲気って!?」
「あはははっ、それこそ意味わかんないよーっ!」
堪えきれないとばかりに、バシバシ叩いてくるニイナ。
楽しそうに笑っているニイナに苦笑し、まぁ何でもいっかー、と適当すぎる結論で降参の意を示した。
……のだが、
「――私も知りたいわね。何がいい雰囲気だったのかしら?」
「っ会長!」
いつもながら乱れのない、完璧な制服姿で颯爽と歩いてきたのは、鷺ノ宮ユーリカ――この魔法学校・紺碧校を統率する、生徒会長である。頭頂部で結い上げた栗色の髪には、その優秀さを示す、シンボルカラーの青いリボンが巻かれていた。
「お疲れ様です」
「はい、お疲れ様。ってどうしたのよニイナは。そんなに焦って……」
「え、その、まさか会長にまで聞かれてたなんて……っ」
両手でハンカチを握りしめてオロオロし始めたニイナ。赤くなったり青くなったりしながら、しどろもどろだ。
そのあまりにも動揺した姿に目を丸くしたユーリカは、苦笑気味に、ふわふわと揺れる髪を撫でた。
「あらあらー、そんな風に言われちゃうと、もっと気になるじゃない。……なーんて。冗談よ? 私は偶然、水魔法を見かけたから声を掛けただけなのよ」
「え……このハンカチを濡らしてくれた……?」
「そう。だって凄いスムーズだったんだもの。詠唱破棄の上に、印も無しで、手元だけっていう的確な組成……あれだけ見れば上級魔法士とも遜色ないと思わない? …………なのによ? 魔法が苦手で? 体術が苦手で? 今日の模擬訓練だって、ダントツの最下位ですって!? おかしくない!?」
徐々にヒートアップするユーリカの怒りは、しっかりと目の前の累に向けられていた。
「そんな余裕有り気な姿で、負けました、って言われても、全然信用無いのよ!?」
「えぇぇ……いや、さっきのは魔法と言っても……」
「わかってるわよっ、あんなちょろっと水を生成した程度、魔法なんて呼ぶのもおこがましいのは! でも魔法は魔法よ! 手元で扱える器用さがあるんなら、鍛えればもっと絶対に強くなれると思うのよ!」
「いやー……そろそろ諦めて頂けると……」
つい、何も考えずにハンカチを濡らしたことを後悔する。累にとっては殆ど無意識の行動だったが、軽微すぎる魔法とはいえ、コレで苦手とは言い難いのかもしれない。
溜まってきた疲労のせいで、頭が回っていないのを実感する。
昨日の午後はゆっくり出来たとはいえ、夜中はまた、ざわめく穢れの気配に眠れず、結局周囲を見回しながら夜明けを待ってしまったのだ。そろそろちゃんと眠るべきなのは理解しているが、やはり、この辺りは穢れのバランスがおかしい気がする。
「しかも初めての実地訓練で、ノクスロスの殲滅まで手伝えたなんて、素晴らしい成績なのよ? このまま燻っているなんて、勿体ないじゃ無い。ニイナも最近凄い頑張ってるんですから、ね?」
「そうだよっ、夕食の後にも訓練始めたんだー! 時々和久にも手伝ってもらってるんだよ」
「あら、楽しそうね。今は何を重点に特訓しているの?」
「防御魔法の展開速度を短縮しようと思ってるんです! 実地訓練で、特に課題かなって思ったんで」
「それは良いことね。でも展開速度に限界が出てきたら、体術を鍛えるのもアリよ。1秒間の短縮が出来なくても、0.6秒の短縮と、0.4秒分、反応速度を上げて逃げれば、1秒分の時間が稼げるんだから――……」
さっきまでハードな模擬訓練をしたとは思えない笑顔で、次の訓練内容に花を咲かせる2人。体力オバケか……。
どうあっても敵わない事を悟った累は、さり気なーく他の生徒の流れに紛れようと考えたのだが、
「ちょっと、峯月くん!?」
「あー、累くんっ、何帰ろうとしてるのっ!?」
追い掛けてきた2人に、両腕を拘束されたのだった……。
***
そんな、楽しそうにじゃれる3人を、不満げに見つめる視線があった。
「んだよ、あれ……特別棟だからって……」
「やめとけよ。特待のエリートじゃん」
「あんな成績で!? ただのボンクラ貴族だろ?」
「いや、それは本人が否定したって聞いたぞ」
「それドコ情報よ」
鬱屈とした表情で座り込んでいるのは、数人の男子生徒だ。
この模擬訓練で相当疲弊したのか、泥だらけの全身もそのままに、足を投げ出している。
「会長も、あんな奴を目にかけてやる必要ねぇのによ……あ、1人になったぞ」
「こっちに来るじゃん。……なぁ……お前、ちょっとぶつかってこいよ」
「おいおい、あんなヒョロイんだぜ? 吹っ飛んだらどうすんだよ」
「そしたらお綺麗な制服を、この泥だらけの手で払って差し上げたらいいんじゃねぇ?」
ぎゃははは、と笑う数人の視線の先を、悠然と歩く累。
どこか疲れたように視線を落とす姿に、1人がニヤリと笑って片手を上げた。
「おい……魔法を使うのか?」
「まぁ見とけって」
そう言って簡単な空気弾を構築すると、累の背後へ向けて放ったのだ。
訓練以外で他人に対して魔法攻撃をするなんて、重大な倫理違反だ。処罰は免れない。
そこまでする気は無かったのに……と他の者たちが息を飲んだ……が、しかしその燐光は、累から離れた地面に微かな衝撃を与えただけだった。
――いや、違う。
地面に落ちていた少し大きめの石の、側面を叩いていたらしい。
魔法で弾かれた石が、燐光の残滓を軌跡にしながら、まっすぐに累の足元へと飛んでいく。
「石かよ、驚かせんな……」
直接攻撃じゃなければ、言い訳は何とでも出来るだろう。そう安心した面々が、表情を和らげた。
死角から突然、大きめの石が飛び込んでくるんだから、これは絶対に躓くぞ……と期待を込めて見つめていたが……、
「え……止めた……!?」
「どうやって!?」
累の靴にぶつかるかぶつからないか、の一瞬で、石がその動きをピタリと止めたのだ。
それはまるで魔法の防御膜を、局所的に、且つ瞬間的に展開していたかのような、不自然すぎる静止だった。
「え、防御魔法を使ったのか……?」
「いいや、見えなかったぜ……」
「だよな……」
魔法で防御したのなら当たった感覚があっただろうに、全く反応を示すことなく、そのまま歩き去っていく累。
「……そもそもあいつ、後ろ見てたか……?」
「…………いや……」
眠そうに口元を隠す累の後ろ姿と、不自然に静止した石を、呆然と見比べるしかない男たち。
「…………あいつ……何者なわけ……?」
最後にコロリと、石が転がった。